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お盆には魂が帰って来るって言うけど
みけ子の両親はどこに帰って来るんだろう?
両親の墓は縁もゆかりもない千葉県にある。亡くなったのは、両親とも仙台市内の介護施設や病院だ。
亡くなった時の住民票は現在のみけ子の家になっていたはずだ。だけど特に母みけなどは、この住所に一度も住んだ事は無いのだ。以前住んでいた場所から施設に直接入所してしまったから。
車椅子生活で要介護3。糖尿病の持病もある肥満体。介護を受け持つみけ子は大変だった。毎
あれって皮膚に出来るガンだったの?/隆起性皮膚線維肉腫
*多少、気持ちの悪い記述がありますので合わない方はここで読むのをやめて下さいね。
どうもみけ子は一般的に「気持ち悪い・グロテスク」って言われるものに興味が向くらしい。先日はキモチワルイと言いつつ、お金を払って生物標本を買って来たり。
少し前にみけ子の、長期に渡る両親の介護のことを書いた。あまり思い出してもいい気分の事ではない。だけどあの時のあれこれが時々、これでもかっ!ていう位によみがえって来
もう10年以上前、母が病院のベッドで人工呼吸器に一時繋がれていた時のこと
みけ子は実の両親の介護に、十数年関わってきた。2年前に父が亡くなるまでのその年月の長かったこと、長かったこと。もう自分が死ぬまで両親の介護問題から足抜け出来ないのでは?!と思う程だった。
両親が要介護状態で、子供はまだ下の子が小学生。難しい思春期の長女もおり、毎日仕事にも行かねば生活は成り立たず。あっちもこっちも大変で「私はこれからどうすりゃ良いのよ?」って思う毎日だった。
先に要介護状態にな
非公開マガジンを公開します「両親2人とも要介護だった」
書いてから1年半近く、非公開にしていたマガジンを公開に設定し直しました。書いていた当時は公開扱いにしていました。ただ、書いてしばらくした後読み返して「ここまでぶっちゃけて良いものか?」って思ったんですね。
それを今どうして公開にしたかと言いますと「読み返して見て、そんなに支障があるような酷いことは書いていない」って思ったからなんです。
この両親の介護について書いた時は、まだ両親が亡くなってから
母が要介護になってからのことを思い出した。最初に倒れたのが今頃の季節だったんだよね。
*表題の写真は3年ぶりで開催された、今年の仙台青葉まつりのまつり装束の参加者さんたち。決まってますね!
みけ子の親、特に母みけの最期の辺りの事を思い出していた。このnoteにも多少介護していた時のことは書いているが、あの辺りの自分の気持ちを思い出すと懐かしさなど微塵もなく、ウンザリした気分がいまだによみがえる。
母みけが最初に倒れた時、季節は初夏。5月か6月くらいだったと思う。まだ長女が2〜3
そう言えば今日は母みけの命日だった/介護の日々はもう思い出したくない💦
みけ子の実の母(母みけ)は、62歳の時に最初に脳梗塞で倒れ、その後22〜3年は要介護生活だった。左半身が麻痺し、介助を受けながら自宅で生活していた。しかしその後の介護生活が長引きそうだったので、何年か後にはみけ子の自宅マンションの同じ階の賃貸の部屋に移り住んでもらった。
下の子がまだ小学低学年の頃だった。夜中に何度もトイレ介助を行わなければならず、夜は寝られない、昼間は眠くて仕方がない。当時扶養
両親2人とも要介護だった①
私の両親は亡くなるまでの何年間か両方とも要介護でした。
母に至っては62歳の時に要介護になって
亡くなったのが86歳、24年間も要介護だった訳です。
まぁ、その24年間ずっと私だけが
介護を担っていた訳ではありませんが、
こう書いてみると約四半世紀弱の要介護人生ですか⁉︎
本人も辛かったとは思いますが私を始め周囲はもっと大変です。
父は約10年に渡って要介護で、父の方は認知症でした。
両親2人とも要介護だった②
車椅子生活で要介護3
(脳梗塞で倒れてから7年以上たっていて、介護度がアップしてました💦)
の母と二人で暮らしていた父が認知症?
とにかくちゃんと病院に連れて行って診断を受けなければ、
と思い調べたところ幸いなことに実家から徒歩圏内に
認知症の診断をしてくれる専門の病院があったのです。
認知症になった人って、自分はおかしくない、まともだ、
認知症なんてとんでもない!と
診察を嫌が
両親2人とも要介護だった③
脳梗塞で左半身麻痺の母と認知症と診断された父。
デイサービスやたまのショートステイ、
ヘルパーさんの補助を受けながら
ひとまずそのまま二人暮らしをする事になりました。
まだ子ども達が小さい頃で2人の手を引いたり
ベビーバギーに乗せてバスや地下鉄で
実家に通っていました。
市内泉区の実家まで月に3〜4回程は
泊まりに行っていたでしょうか?
そんな状態ですから私は当然仕事など出来ませ
両親2人とも要介護だった⑤
長男の事故後の生活も落ち着き、
両親には同じマンションの同じフロアの賃貸の部屋に
越して来てもらうことになりました。
当初の予定の1ヶ月遅れの秋口のことでした。
部屋を整えて
身体の自由が効かない母のために、
介護用の電動ベッドも運び込んで。
最初は夜は自宅に戻っていましたが、
夜のトイレ介助が父に全部任せる事もできず、
徐々に私が両親の部屋に泊まって
夜のトイレ介助もやるよう
両親2人とも要介護だった(番外編)
今日はちょっと番外編。愚痴っぽい余談です💦
私がずっと地元に住んでいたので
両親は何かあった時は私に頼ろうと思っていたようで、
実際にそのように言われてました。
聞き流してましたけども。
↑小さい頃の兄と私。昭和30年代です。
長男である兄は大学を出てから東京で就職し、
お嫁さんも東京の人です。
兄夫婦の子供(姪っ子)がまだ小さい時に
仙台に戻って同居する話が兄の方からありまし
両親2人とも要介護だった⑥
「子連れ住み込み女中さん」状態で
結局4年程も続いた同居での両親2人の介護生活。
両親が引越して来るにあたって、
ケアマネージャーさんから言われた言葉を今も覚えています。
「どんな選択肢をとっても家族にとって迷ったり、
これで良かったのかと様々に悩むのは当然のこと。
でも家族はその時に選び得る選択肢から
最善の選択をしているはずだから
自分たちを責めたりする必要はないです」
この
両親2人とも要介護だった⑦
同じ部屋に寝泊まりしていた約4年間は、
夜間に何度も起こされ、トイレ介助が必要で
熟睡出来ないのが一番参りました(T . T)
毎日午後9時ごろに就寝し、夜中12時ごろに最初のトイレ、
午前2時〜3時に2度目のトイレ。
2度起こされた後は
「もう起こさないで。私全然眠る暇ないじゃん」
と言っても朝方にまたトイレ介助の要求。
「もう起こさないでって言ったでしょ?」と言うと
「そんな
両親2人とも要介護だった⑧
話は少し前後します。
FBの「過去の思い出を振り返ってみよう」
それに先日上がってきた記事です。
その内容を再掲します。
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2013年12月15日
昨日、伯母のお通夜で、要介護4で車いすの母と要介護2でアルツハイマーの父を連れて仙南の柴田まで往復して来た。その顛末がまた、漫才みたいで笑える。
父が金曜夜に「誰だかから電話来たから