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両親2人とも要介護だった⑦

同じ部屋に寝泊まりしていた約4年間は、

夜間に何度も起こされ、トイレ介助が必要で

熟睡出来ないのが一番参りました(T . T)

毎日午後9時ごろに就寝し、夜中12時ごろに最初のトイレ、

午前2時〜3時に2度目のトイレ。

2度起こされた後は

「もう起こさないで。私全然眠る暇ないじゃん」

と言っても朝方にまたトイレ介助の要求。

「もう起こさないでって言ったでしょ?」と言うと

「そんなに起こしたがや〜?」と若干ボケた返事。

「オムツしてるんだからさ、オムツにしちゃってよ」

「んだって気持ち悪いんだもん」

「人は気持ち悪くても死なないけど、睡眠不足が続くと死ぬの!」

ほとほと疲れ果てましたよ。

それでも母のトイレ介助は毎晩続きました。

太っていて身長は140センチ程度の小柄な身体ながら

体重は私より10キロも重いって何?

あちこち身体にガタが来て色んな医療処置を

受けないと生きられないのに、

何度も救急搬送されても入院しても、

その度に復活してしまうのって何よ?

この辺は娘に有るまじき言い分でしょうけど、

長い間ずっと介護をやって来ると

こんな考えも度々頭に浮かんじゃいます。

私は母の付き添いで救急車に同乗したことが3回、
更に子供の事故で2回。
あとは父も救急隊員さんには付き添ってもらったし💦
救急隊員さん、ご迷惑おかけしましたm(_ _)m


糖尿病の注射も打っていた母は

食事の時間をずらすのもNGだし、

薬や注射針も切らさないように

常に気をつけていないといけない。

両親がデイサービスから戻ったら

あまり時間をずらさずに食事を出さないといけない。

例えば6人で一緒に暮らせる

別の家に引越して、父の徘徊問題が解消したとしても

同居していれば夜中の母のトイレ介助からは解放されない。

どうしたもんだか……。



そんな日々が続いたある夕方。

その日は3月11日。東日本大震災が起こります。

私はパート先の職場のビルの9階にいました。

経験した事のない激しい揺れ。倒れる家具や建具。

ガラスが割れ、何もかもめちゃくちゃになった職場。

今思い出してもぞっとします。

職場を後にして小学生だった長男を迎えに行き、

夜勤で家にいたダンナ、学校から早め帰宅していた

長女も連れて隣町のデイサービスに両親を迎えに行きました。

介護スタッフさんもついて来てくれました。

途中から雪が降り出すとても寒い日でした。

停電で信号も機能しなくなり戻る途中の道は大渋滞。

地震でエレベーターがストップしたマンション2階まで

介護スタッフさんの力を借りて階段を使い

ようやく車椅子の母を部屋まで連れて来ました。

電気も水もガスも出ない、

食料も満足に確保出来ない状態でした。

ちなみにデイサービスが再開したのは地震の2週間後でした。

この後、義両親まで我が家に避難して来たので

総勢8人がマンションの2部屋で暮らすことになって‼️

 幸い電気が元通りになったのは2日後、

だけどガスの復旧も貯水槽が壊れてしまった水道も

結局復旧したのは1ヶ月後のことでした。


義両親の住んでいたマンションは

仙石線沿線の地盤の弱い所に建っていたので全壊判断、

最終的には取り壊されることになりました。

我が家の一室に避難して1ヶ月半、

家が全壊になったショックからか、

義父は持病が悪化して

ゴールデンウィークが開けてまもなく亡くなりました。

大きな災害に見舞われたショックは

高齢者ほど影響が大きかったのでしょう。

その後一人になった義母は泉区の

災害公営住宅に引っ越し今も一人で暮らしています。

同じ高齢者でも健康で自立して生きられる人と

要介護になってしまう人。

元々健康だったかどうかという差はあるでしょうが、

この違いはどこから来るのでしょうね?

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↑母と兄と私。この頃はちょっとのお出かけでもよそ行きの服です。母の手作り。


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