見出し画像

両親2人とも要介護だった(番外編)

今日はちょっと番外編。愚痴っぽい余談です💦


私がずっと地元に住んでいたので

両親は何かあった時は私に頼ろうと思っていたようで、

実際にそのように言われてました。

聞き流してましたけども。

画像2

↑小さい頃の兄と私。昭和30年代です。


長男である兄は大学を出てから東京で就職し、

お嫁さんも東京の人です。

兄夫婦の子供(姪っ子)がまだ小さい時に

仙台に戻って同居する話が兄の方からありました。

まだ母が要介護になる前の事です。

その申し出をあろうことか、母はかなりの強気で

「同居なんてしないよ❗️」と断っていたのです。

きっと兄夫婦はかなり思い切って、転職もするつもりで

そう申し出たと思うのです。

兄夫婦の精一杯の優しさから出た話なのでしょう。

まだ当時は長男夫婦は親と同居するのが

割と当たり前に考えられていた時代でした。

便利で住み慣れた東京を出て仙台で暮らす。

それは多分兄嫁にとっては大きな決断だったはず。

夫婦で何度も話し合いやっと出した結論を真っ向から拒否され、

きっとショックだったでしょう。

後から考えると両親の要介護後の暮らしを

大きく分ける事になった発言だと考えています。

多分母は「長男嫁に同居を断ることで

昔ながらの長男夫婦との同居を是としない

進歩的な姑」

のような気持ちでいたのだと思います。

↑いらん見栄だわ〜💦

あの時直ぐに了承しなくとも、

せめてもう少し考えて返答するとか

「私たちのことを考えてくれてありがとうね💖」

ぐらい言えたと思うのです。

兄夫婦が仙台に戻ってくるなら

最初のうちは別居しても良い訳ですし、

迎え入れるのが得策だと思うのですが。

要介護になって自分が長く不自由な生活になるなど、

想像出来なかったのでしょうかね〜?

高血圧や糖尿病で更に肥満体である母は

遺伝的に脳疾患で体が不自由になることは

ある程度医者からは警告されていたのですよ。

そうは言われていても、きっと自分が要介護になった後

その後の人生は残りわずか、ぐらいとしか

思っていなかったのかも。

先のことを見越して考えたり行動したりすることは

それだけ難しいってことですね。

その上両親は、昭和なずっと右肩上がりの世の中で

生きて来た人たちだったこともあり

「お前たち子供には財産なんか残さないから。

 私たち夫婦で全部お金は使い切るからね!」

とまで豪語してましたね。

まぁ親の財産を当てにする気は毛頭なかったですが

せめて自分たちの介護費用や医療費ぐらいは

余裕を持って準備しておいて欲しかったです。

↑こういう何かと強気に出るところとかが、
 娘の私とはソリが合わなかった。
 母が亡くなった今でも
 私は母を好ましく思えません。


仙台に戻って暮らす話がなくなり、

その後兄夫婦は都内で家を買いました。

お盆休みやお正月などできるだけ仙台には戻ってましたし

長男なりの役割を果たそうとはしていたと思うのです。

その長男夫婦の助けを受けられなくなって

両親は自分たちの発言を後から後悔したでしょうね。

ただ兄は年末の寒い時期に仙台に帰省するのに

日曜ドライバーで運転に慣れていないのに

ノーマルタイヤで戻って来ようとしたり

都内に戻る時に事故ったり💦

こっちがどうしても手伝って欲しい時に

手伝いに来れなかったりと「何だよそれ……???」

と思うこともありました。

頼りにしたい時に当てにならないのはね〜💦


この「自分の両親の介護関係の色々」を書くに当たって

自分の古い手帳を引っ張り出して見ていましたが

(とにかく昔のことなので覚えてないです)

「この辺り毎日がしっちゃかめっちゃかだったよね?」

と思われる時期も、自分の仕事のこととか

「今度これをやりたい」とかはいっぱい書いてあるけど

介護の件についてはあんまりメモってないんです。

小さな字であっさり事実を書いているだけ。

思うに、好き好んで介護をやっていた訳ではないし

様々なことに自分は「今はたまたま巻き込まれているだけ」

と捉えていた節があります。

きっと自分の意識の中から介護のことは

追い出したかったんでしょう。

自分のことながらちょっと興味深い事実です。


まぁ以上、私のつまらない愚痴ですから

読み流しておいてください😅

画像1

↑ダンナに抱っこされる長女とじいちゃんとばぁちゃん。まだ両方とも健康な頃。


サポートをいただけるならば、それはそれは大感激です❣️毎日発信を続けることが、自分の基礎トレーニングだと思っています。サポートを励みに発信を続けます💓