見出し画像

両親2人とも要介護だった⑧

話は少し前後します。

FBの「過去の思い出を振り返ってみよう」

それに先日上がってきた記事です。

その内容を再掲します。

*******************************
2013年12月15日
昨日、伯母のお通夜で、要介護4で車いすの母と要介護2でアルツハイマーの父を連れて仙南の柴田まで往復して来た。その顛末がまた、漫才みたいで笑える。
父が金曜夜に「誰だかから電話来たから、明日行かなくてねぇんだ」。
何度聞いても、一体誰から何の用事で電話が掛かって来て、どこに行く必要があるのか分からない。あんまり父がしつこく言うので、次の日の土曜の朝になってから、親戚の家に電話を掛けた。(住所録もどこにも見つからず、やっと見つけた年賀状に、電話番号が書いてあった親戚宅に電話した)。
たまたま1軒目の家で用件が分かった。
「一昨日、母が亡くなった。今夜がお通夜」なのだと言う。父の姉が亡くなってそのお葬式と通夜のお知らせで電話をかけて来たのだと言う。お通夜の時間と場所を聞いて、ひとまず父を連れてお通夜に行く事にしたが、思い立って施設に入居中の母も連れて行こうかと思い、車いすタクシーの空き状況確認と、施設へ夕方からの外出について問い合わせ、了解を得たので喪服の準備をして私も付き添って3人でお通夜に出席することに。(←ちょうど車椅子で使えるタクシーのチケットがありそれを使うことにしました)
しかし、両親の喪服の仕舞い場所が分からない。押入やらタンスやら全部を引っ掻き回してして、やっとのこと喪服を探し出し、ついでだからと不要物の整理をしたら、2時間半かかって、ゴミ袋が7つ!
私が押入とタンスの整理をしていると、何度もその部屋に父が来て「何してんのや?え?誰か死んだのか?」って言うのよ〜(爆)。母の喪服は結局見つからず、黒いジャケットを見つけたのでそれを着せることにする。しかし、アイロンをかけようと思ったら、目立つ場所がシミだらけで、大急ぎで洗濯だぁ。私もお通夜だから、自分の喪服も出して着ないと。香典袋はどこにあったっけ〜?
雪が降り出した中、タクシーに迎えに来てもらって、私と父で母が入所している施設へ。夜間になると担当の職員の数が少なくなるというので、担当の方になるべく負担にならないようにと、8時頃までには帰ることにして出かける。
その時はもう雪が大降りになっていて、大雪の中タクシーでひた走って、到着した時はお通夜は始まってた。帰りの時間の都合があったけど、久しぶりで会う親戚が多く、精進落としのお振る舞いの席にも、ちょっとだけ参加させていただいた。両親も懐かしい顔に会えて随分楽しかった様子。
私も親戚の通夜に出席することも最近ほとんどなかったし、30年以上会う事もなかったいとこ連中にも会えた。
途中で退席することにはなったけど、タクシーに乗るまで見送りに出てくれた人も多かったし、珍しく感激して涙ぐんでいた父を見て「わざわざ連れて来て良かったんだろうなぁ」……。
約束の時間は多少過ぎていたけど、施設まで母を送ると、夜間で担当者が少なく、そしてまた雪が降る中で、3人の職員の方が迎えに出て来てくれていた。
家まで戻ってタクシーの支払いを済ませると、高速料金やら待ち時間も合わせて4万円也。タクシーチケットで大部分の支払いが出来たから良かった。(チケットがなければ母は連れて行かなかったけどね)。
なんだか、慌ただしく消耗はしたけど、きっと何か意味のあったんだろう(と思う)12月の週末の出来事でした。(ちゃんちゃん♬)
*******************************

そうだった、こんなこともあったわ。

その夜は12月にしてはびっくりするほどの雪だった。

介護はいつかは終わるものだから、

今回が最後かもしれない、とあんな雪の日に

母も父も連れて伯母のお通夜に参列したけど

多分今ならここまではやらないなぁ。

もう体力も気力ここまで無いし(笑)

色んな出来事があり、日々試行錯誤と四苦八苦、

そんな体験も今となっては大切なことだったのかも、

と10年近くたってやっと少し思えるようになったかな?

画像1

↑父方の親戚が大集合。中央の和服に黒メガネが父の母。左端が父と私。
 父方はほとんど自営業者ばかり。私もその血を受け継いだのかも?


サポートをいただけるならば、それはそれは大感激です❣️毎日発信を続けることが、自分の基礎トレーニングだと思っています。サポートを励みに発信を続けます💓