metro

1976年生まれ

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最近の記事

「ギブアップ」

3ヶ月。 上司が変わって、立場も変わって、仕事内容も変わって。 できるところまで頑張ろうと思っていた。 でも全然うまくまわらず、残業ばかりするようになった。 残業してもうまくいかず、ダメ出しばかりされた。 「あっ、もうこれはダメだ」 ある日、職場でそう思った。 カチッとスイッチが切り替わってしまい、もういいやと思った。 帰りがけに上司をつかまえて、新しいポジションは辞退したい旨を伝えた。 とりあえず、残業はしばらくやめて、定時で帰るように言われた。 辞退できるも

    • 「犬の話」

      私が小学校低学年くらいのときに、絶対に動物は飼わないという父と、拾ってきた犬を飼ってくれないと絶対に家に入らないという兄の夜をまたいだ攻防戦を経て家族に犬が加わった。 当時、私は父親の転勤で徳島に住んでいたのだが、野良犬どころか野犬の群れだって珍しいものではなかった。 一度妹と一緒に野犬の群れに追いかけられたこともあったし、小学校に人懐っこい野良犬が入ってきて教室が大騒ぎになったこともあった。 兄が拾ってきた白と茶色の大型犬は「アッシュ」と名付けられた。 しなやかな身体

      • 「一日一日」

        インドのブッダガヤという町にあるお寺にて。 これから瞑想の修行を始める私たちにむかって、そのお寺のお坊さんがこう言った。 「あなたたちがインドに行こうと思ったときに、あなたたちの心はもうすでにインドにきていた。週末を楽しみにして過ごしていれば、心はすでに週末にある。今が退屈であれば楽しかった過去に、未来に心は飛んでしまう。今という現実にあなたの心はいないのです」 そう言い終わったあとに電話が鳴って、オレンジ色の袈裟の袖から携帯電話を取り出し、「アッチャ、アッチャヘイ」と

        • 「ハードボイルドな体験」

          オーストラリアに留学して間もない頃の話。 高校入学準備のため、半年ほどシドニーの語学学校に通っていた。 まだ15歳だった私はワーキングホリデーなどで滞在している大学生や若い人たちに可愛がっていただき、ほとんどの時間を日本人とつるみ、日本語を喋って過ごしていた。 そんな一時期。 関西出身のNさんと仲良くなり、よく一緒に釣りに行ったりしていた。 ある日のこと。 キングスクロスというギャンブルと風俗にまみれたいかがわしい駅の近くをNさんと歩いていた。 確かその近くにあった

        「ギブアップ」

          「パラダイムシフト」

          先日。 定年退職を迎えた人からメールが来たので読んでいた。 退職をする人は大きな組織単位で退職の挨拶メールを送信するので、ほとんどの場合は一度も話したことがない人であることが多い。 その時も例外ではなく、部署名を見ても 「はて、どこの部門かしらん」 という程度でもちろん送り主の顔も知らなかった。 大体はサッと目を通して、 「1989年入社ってすごいな。まだ自分が小学6年生の時からこの人はこの会社にいたのか」 といった感想で終わるのだがその時は何かが引っ掛かった。 その人

          「パラダイムシフト」

          「宇宙の力」

          まだオーストラリアに住んでいるときに、友人が「マーフィーの法則」について書かれている本を貸してくれた。 20年以上前のことなのでほとんど覚えていないが、「ずっと願い続けていれば、宇宙の力が作用してその願いを叶えてくれる」というような主旨であったと思う。 そして、「叶えたいことを紙に書いて、いつも携帯するとよい」と書いてあったので暇だった私はいくつかの願い事を書いて財布に入れていた。 3つくらい書いたと思うが、その中に「自動車の免許を取る」というのがあったのは覚えている。

          「宇宙の力」

          「四十肩なのか」

          肩が痛い。 シャツなどを着るときに腕を上げると左肩が痛むようになった。 肩こりなのかと思って、グルグルと回してみたりするのだがやはり痛い。 一日一回だけでも懸垂をやっていれば四十肩にはならないものだろうと思っていたのだが、どうやらこれが四十肩というやつらしい。 ただ、相変わらず懸垂はできるし、普通に腕を上げる分には問題ない。 シャツを着ようとする時の少し捻ったような腕の上げ方をした時だけ痛む。 しかも左肩だけである。 四十肩なのか? 四十肩ではないのではないか? 高校で

          「四十肩なのか」

          「音楽の話」

          最近になって音楽の聴き方というか、聴こえ方が変わってきたと実感している。 子供のころから音楽は好きだったのだが、それはあくまでも歌が好きだったのだと思う。 歌そのものや歌詞の内容が好きだったのであり、伴奏のピアノやドラムの音にはほとんど意識がいっていなかった。 Bob Marleyに出会って、本格的に音楽を聴き始めた頃もやはり私の耳はボーカルを追っていたし、頭でも歌詞の内容を映像化しながら音楽というものを楽しんでいた。 20代でジャズを聴き始めて、いわゆるインストゥルメン

          「音楽の話」

          「魔女の一撃」

          一月三日のことである。 その日も窓の外では年末から続く晴天が広がっていた。 午前中に近所の神社まで初詣に行く準備をして、妻の準備が終わるまで部屋でギターを弾いていた。 そろそろ出発しようというときに「そうだ、ハンカチを持っていない」と気が付いた。 階段を上り、洋服ダンスの引き出しを開ける。 ハンカチを探して中腰姿勢になっているときに何の前触れもなく大きなクシャミが出た。 「グリリ」 クシャミが出ると同時に、腰の奥のほうで嫌な感触がした。 嫌な感触 ⇒ 違和感 ⇒ 痛み

          「魔女の一撃」

          「2023年」

          あっという間に年が明けた。 文字通り「あっ」という間だ。 予定が詰まっていたわけではないし、休みが少なかったわけでもない。 でも今回の年末から年が明けるまでの体感速度は人生最速だった。 またしても「時間が加速し続けているけど、どうにかならないものか」という話になってしまいそうなのでこのへんでやめておこう。 さてさて。 年が明けた。 さすがにこの年齢になってくると 「この2023年という真っ白なキャンパスに何を描こうか」 などという気持ちにはなれないにしても、ちょっとテー

          「2023年」

          「2022年」

          気が付いたらこれが今年最後の投稿であることがわかって、頭の中で今年を振り返ってみている。 すぐに思い出したのは8月に感染した新型コロナウイルスである。 はっきりとした後遺症はないのだが、以前より集中力がなくなったと言われれば「そうかもしれない」と思うし、すぐに仕事やら家事に取り掛からないのは倦怠感のせいだと言われれば「なるほど、そうだったのか」と思い当たる。 でもそんなのは感染する前から同じだったと言われたら「まあ確かに」とすぐに納得するくらい自分でもよく違いはわからない程

          「2022年」

          「ギター夜話 6年間」

          40歳から真剣に取り組んできたギター練習もついに6年が経過した。 小学校だったら丸々入学から卒業までである。 子供の時は永遠に近いくらい長く感じたものだが、この年齢になると「気が付いてみたら」程度だ。 でも6年間というとちょっとした期間ではあるし、平均して1日2時間くらいの練習は積み重ねてきた。 フルアコ ⇒ ガットギター ⇒ アコギ。 フラットピック ⇒ フィンガーピッキング ⇒ フラットピック。 と、少し迷走気味ではあったものの、一貫してギターを、音楽理論を学んできた。

          「ギター夜話 6年間」

          「量と質」

          質を求めれば時間は関係なくなり、量を求めれば時間が大いに関係する。 現代社会は量を求めることが当たり前なのでみんな時間が足りないと感じている。 ミヒャエル・エンデの「モモ」という作品をこうやって解釈している人がいた。 年収を上げる、貯金を増やす、モノを増やす、こういった「量」を求めると、自分に残された時間を土台にして 「あとどれくらいあれば安心できる」 という計算が頭の中で始まる。 あれも欲しい、これも欲しい、あれもやりたいしこれもやりたいを膨らませると、現代社会において

          「量と質」

          クリエイティブ

          創造である。 創作である。 何かを生み出すことである。 なんとなく格好良くて、ポジティブな響きがある言葉である。 できれば私も四六時中クリエイティブなことをして過ごしていたいと思う。 でもよくよく考えてみるとその定義がよくわからない言葉でもある。 とにかく何かを作っていればいいのか。 毎日の料理はどうなのだ。 料理がそうならば豆を挽いて淹れる珈琲は該当するのか。 ルーティンワークが駄目なら思い付きで豆をブレンドしたらどうなのだ。 それとも受け身でなければすべてクリエイティ

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