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「量と質」

質を求めれば時間は関係なくなり、量を求めれば時間が大いに関係する。
現代社会は量を求めることが当たり前なのでみんな時間が足りないと感じている。

ミヒャエル・エンデの「モモ」という作品をこうやって解釈している人がいた。

年収を上げる、貯金を増やす、モノを増やす、こういった「量」を求めると、自分に残された時間を土台にして
「あとどれくらいあれば安心できる」
という計算が頭の中で始まる。
あれも欲しい、これも欲しい、あれもやりたいしこれもやりたいを膨らませると、現代社会においてはそのどれにもお金が必要だという結論に辿り着く。
お金を稼ぐには時間がかかり、気力も体力も削られる。
欲しかったモノのほとんどはいざ手に入れてみればその輝きを失い、やりたいと思ったことを実行に移す時間と気力はいつも足りない。
その結果、気が付いてみれば時間だけが過ぎ去り、人生の終盤に差し掛かった頃になってようやく
「はてさて、私は何がやりたかったのだろう」
と首をかしげる。

それでは「質」とはなんだろうか。
その人の解釈では愛や友情といったところに着地していたが、時間という概念が関係なくなるということとは結びつかないように私は思った。
そうかといって、世の中を変える発明やノーベル平和賞を受賞するような偉業を成し遂げるというのも違うと思う。

それでは何かと考えたときに私が思い出したのはインドでヴィパサナ瞑想の修業をしているときの体験である。

修業を始めて数日が過ぎたとき、それまでは長いと感じていた1時間の瞑想が苦痛ではなくなった。
目を閉じて呼吸をしている自分を少し離れたところから眺めているような不思議な感覚に入ることができると、そのときは過去のことも未来のことも考えずにただひたすら「今」を感じることができた。
遠くで鳥が鳴く声が聴こえただけで多幸感に包まれ、そのときの私はその状態がずっと続くことを求めていた。

帰国して仕事を始めるとあの感覚は遠のいてしまい、今ではすっかり「量」側の人間である。
「知っている」というだけでは残念ながら何事もうまくいかないものなのだろう。

最後にずっと頭に引っかかっているマイスター・ホラの言葉を引用する。

「もし人間が死とはなにかを知ったら、こわいとは思わなくなるだろうにね。そして死をおそれないようになれば、生きる時間を人間からぬすむようなことは、だれにもできなくなるはずだよ」

生まれるときのことと死ぬときのことを一人称で話せる人が存在しない以上はこの言葉に対する答えはないと思う。
でもそのことについて考えることは大事なことだとわかっているので相変わらず頭の中に引っかかっている。





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