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パターナリズムは「余計なお世話」、「おせっかい」のはずが、「自己責任」に繋がってしまうのは、利益と損害が予想外に繋がるためではないか

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注意

これらの重要な情報を明かします。

特撮テレビドラマ
『ウルトラマン』
『ウルトラセブン』
『帰ってきたウルトラマン』
『ウルトラマンエース』
『ウルトラマンタロウ』
『ウルトラマンレオ』
『ウルトラマン80』
『ウルトラマンティガ』
『ウルトラマンダイナ』
『ウルトラマンガイア』
『ウルトラマンコスモス』
『ウルトラマンネクサス』
『ウルトラマンマックス』
『ウルトラマンメビウス』
『ウルトラマンギンガ』
『ウルトラマンギンガS』
『ウルトラマンX』
『ウルトラマンオーブ』
『ウルトラマンジード』
『ウルトラマンR/B』
『ウルトラマンタイガ』
『ウルトラマンZ』

ネットオリジナル特撮
『ウルトラマンオーブ THE ORIGIN SAGA』

テレビドラマ
『下町ロケット』(TBS,第1期、第2期、スペシャル)
『半沢直樹』(第1期、第2期)

漫画
『ドラゴンボール』
『ドラゴンボール超』
『絶園のテンペスト』
『銀魂』
『ぼくたちは勉強ができない』
『クレヨンしんちゃん』
『新クレヨンしんちゃん』
『歳と魔法はキス次第』

テレビアニメ
『ドラゴンボール』
『ドラゴンボールZ』
『ドラゴンボールGT』
『ドラゴンボール超』

アニメ映画
『ドラゴンボール超 ブロリー』
『ドラゴンボールZ 復活の「F」』

実写映画
『ターミネーター』
『ターミネーター2』
『ターミネーター3』
『ターミネーター4』

はじめに

2022年10月9日閲覧

 パターナリズム、「相手の自由を善意で奪う」主張に、「自己責任」が重なってしまうのが現代日本の特徴であると、幾つかの物語を例に挙げました。時折、「言語などの文化の単一性で、多様性を受け入れる政治的、法律的な主張をする」ナショナリズムとの関連も記しました。
 しかし、本来パターナリズムは「余計なお世話」、「おせっかい」であり、「自己責任」はそれを否定するものではないのか、という意見もあるかもしれません。私自身もそのような違和感を抱いていました。
 私が「パターナリズム」、「自己責任」と検索すると、それが結び付くような主張も見当たりますが、「余計なお世話」と「自己責任」あるいは「おせっかい」と「自己責任」は、相反するようにネットで扱われている印象があります。
 しかし私は、「余計なお世話」、「おせっかい」であるはずのパターナリズムも、「自己責任」に繋がる可能性があると気付きました。
 それは、「相手の気に入るところは断られても助ける」のがパターナリズムであり、「気に入らないところは頼まれても助けない」のが「自己責任」であり、その逆のところで相殺しているつもりが、「自分が気に入るかの主観ばかりで助けるか決める」独断のところは根本で繋がっており、さらに「助ける」利益と「助けない」損害が予想外に繋がるためだと考えます。
 これまでの記事の内容と、組み合わせてみます。
 

『ターミネーター4』での、英語と未来知識によるパターナリズムと「自分の責任」

2022年10月9日閲覧

 では、幾つかの作品を具体的に挙げます。
 『ターミネーター4』は、世界が機械の反乱で壊滅し、未来からの知識で人間を守るために抵抗軍を率いようとするジョン・コナーが、設備などの少ない中で、ラジオなどにより団結を図ります。
 しかし、高度な機械が敵に乗っ取られる危険性などから、翻訳が難しく、英語で効率的に人間を集めるために、「これを聞いている君は、抵抗軍の一員だ」と主張しています。これは「英語さえ通じれば国籍や人種や性別や年齢は問わない」という多様性がありますが、「英語が通じなければどれほど優秀で真面目でも論外だ」という単一性もあります。
 そして、『ターミネーター』シリーズでは、周りがなかなか状況を理解せず、受け入れない人間を守るためにも無理矢理に従わせるパターナリズムがあります。
 しかし、『4』のジョンの場合は、未来の知識を持っていても、未来から誰かが伝えに来るだけで未来そのものが変化してしまい、ジョンの知識もあくまで不安定な推測にしかなりません。
 それに当てはまらない、「機械か人間か分からない存在」であるマーカスを敵とみなすか曖昧になります。抵抗軍でそれを敵だと断定するバーンズは、マーカスに偶然救われたので味方だと信じるブレアがマーカスと共に逃げるとき、「(巻き込まれても)自分の責任だ」とまとめて撃とうとしました。
 つまり、ジョンの不安定な知識や推測に基づく「我々は人類全体を救いたいのだから言う通りにしろ」というパターナリズム、強引な善意の前提に当てはまらない、「人間か機械か分からない相手への対応」について、自分の善意に当てはまらないブレアが逆らい、しかし正しいかもしれない相手に対して、「自分は善かれと思ってしている」という善意を押し通し、それに逆らう方が悪いというのが「自己責任」なのです。
 ここでは、本来「人間だから」、「英語が通じるから」という前提で「助ける」つもりの「抵抗軍に入れ」という命令が、抵抗軍の推測に当てはまらない情報で、「かえって人類全体や、味方かもしれないマーカスを危険にさらす」損害として裏目に出る可能性があります。パターナルに与えたつもりの利益が、マーカスという予想外の状況で損害になると、「逆らう相手は助けない」という「自己責任」に変わってしまうのです。
 『ターミネーター4』自体には登場しませんが、英語が通じない人間にも、抵抗軍は強引に従わせようとするときもあるかもしれません。

強引に「助ける」ことと「逆らう側の責任」

 たとえば『絶園のテンペスト』原作では、世界の危機において、危険な魔法の樹を処分しようという結論に、少数の魔法使いが至ったものの、それを政府などに説明する余裕がなく、周りの人間を急いで避難させるために、自分達があえて攻撃して強引に追い払いました。『ターミネーター4』でも、英語が通じない人間に抵抗軍は攻撃して「避難」させて対立の種をまくかもしれません。そのときに「自分達の善意を認めない方の責任だ」と、助け合いを阻む言語の壁を相手の責任にするかもしれません。

「そんなにこちらの善意に逆らいたいならば自己責任だ」

 次に、『銀魂』では、「そんなに不満があるなら好きにしろ」という、パターナルかつ「自己責任」を主張する例があります。
 『銀魂』は戦う少年漫画としては、日常の描写が多く、あまり成長を描かないのですが、ある戦いを経て、「修行したい」と新八と神楽が銀時に頼みました。
 しかし「うちの漫画はそういうのに向いていない」などの怠惰な台詞を銀時は繰り返し、「どうせ周りに押されて言っているのだろう、そんなに修行がしたいならよその漫画のうちの子になりな」と突き放しました。
 これは、「今までこの漫画でしなかった修行など、いきなりしても上手くいかないだろう」という推測と、「今までしなかったことをするのは不愉快だ」という意見が混ざっています。
 確かに、その推測も意見も的外れとも言えません。
 しかし不安定な推測に、「修行なんてやめなさい」という「余計なお世話」、「おせっかい」とも言えるパターナリズム、善意という「意見」が加わり、それを「善意に逆らうそちらはこちらに損害を出している。だからこちらはこの漫画から追い出す選択肢という損害を与える」という損害に損害で対応させる賞罰の概念が、「自己責任」に繋がります。
 「この漫画の中にいれば修行などという不安定な危険を冒さなくても済む利益」と「修行したいという意思に基づきこの漫画から出る損害」を、銀時の主観で同時に与えて、「余計なお世話」、「おせっかい」と「自己責任」で均衡をもたらしたつもりなのでしょう。しかしそれは、「何が利益か損害か」を銀時が決めてしまっているのです。

「この損害を利益に変えろ」というパターナリズムと「自己責任」

2022年10月9日閲覧

 また、私はパターナリズムが、「父」を語源に含んでいても、「年長男性によるもの」だという議論に限界を感じています。介護などに限らず、年長者や男性だけがパターナルとも限らないためです。
 逆に、単に年長男性を優遇するだけの主張には、パターナル、「相手のための強制」ですらないときもあると考えます。
 若い女性の教師がパターナルに、生徒の進路を決めていたのが、『ぼくたちは勉強ができない』だと考えます。
 『銀魂』には、年少女性による年長男性への逆説的な、コミカルなパターナリズムがあります。
 銀時の知り合いである桂と共に行動しており、基本的に会話しない宇宙生物のエリザベスが、突然1人(とします)で銀時の万事屋を訪れて、無言で座り続けたときのことです。
 お茶やコーヒーに反応しないエリザベスに、徐々に「何を出せば反応してくれるか」に議論が移っていき、その対応に困った銀時が、神楽と新八に任せて一時的に電話に出ている間に、神楽は銀時のためのいちご牛乳を出そうとしました。
 新八が反対すると、元々銀時が甘いものばかりで不摂生な食事をしていたことなどから、神楽は「あいつもそろそろ乳離れするときだ。奴には親がいない。私達が立派な大人に育てなければならない」という、どちらが年上か分からない表現をしました。
 そして、銀時が電話の用事で仕事に行くと出ようとして、新八達はそれを信じず「エリザベスへの対応を押し付けた」と断定して、怒りでいちご牛乳を新八も含めて出しました。
 これは、「銀時に無断でいちご牛乳を出す」という損害を一方的に与えるときに、「その方が銀時の成長のため」という「利益」を主張して、「余計なお世話」、「おせっかい」としてのパターナリズムを進めつつ、さらに銀時が不誠実な行動をすると、嫌がらせとしての「損害」の部分を強調して「勝手に出ていったならば勝手にいちご牛乳を出されても仕方がない」という「自己責任」も肯定しています。
 つまり、相手に利益だけを与えることは出来ず、損害と利益を同時に、相手に無断で与えるときに、後者を正当化、あるいは美化するのが「余計なお世話」、「おせっかい」、パターナリズムであり、前者を正当化するか相手のせいにするのが「自己責任」であり、逆のようで両立し得るのです。
 『クレヨンしんちゃん』では、しばしばしんのすけが、自分が相手に損害を与えている、あるいは利益を自分が受け取っているのをそれぞれ逆に解釈する「図々しい」態度がみられますが、その延長に神楽が銀時にした行動があるようです。

2022年10月9日閲覧

「知ってあげたい」パターナリズムと「知ってはいけないかもしれない」悩み

2022年10月9日閲覧

 たとえば、『歳と魔法はキス次第』では、正体不明の「影が薄い体質」で苦しむ男子高校生の葎透(むぐらとおる)が、魔法使いのザラに遭遇し、知ったことでザラの能力を制限したのを申し訳なく思い、その解除のために「願いを1つ叶えてあげる」と言われ、自分が想いを寄せるクラスメイトのつむぎに告白する手伝いを頼みました。
 しかし、臆病ながらもなるべく相手に損害を与えないように気遣い、「律儀か」、「繊細」、「良い子ぶりたいだけだろう」といった発言を魔法使いにされます。
 そして、つむぎも何らかの魔法に関わっており、それで困っている可能性を知った透は、何故かつむぎが言えないでいるために事情があると推測しつつ、ザラに「困っているなら知ってあげたい、でも知られて恥ずかしいこととかプライバシーなら僕の記憶を殴ってでも消してください」と言っています。
 しかし、相手が知らせないことを「何かの損害に苦しんでいるかもしれないから助けてあげたい」と、利益のつもりで知ろうとするのは、逆に恥などの損害に繋がる可能性があります。仮にそこにつむぎに「悪い」と取れる要素が少しでもあれば、この「余計なお世話」、「おせっかい」、パターナリズムが、つむぎに優しい透やザラ以外の視点からは「知られずに助けてもらえなくても、知られて恥ずかしがっても自己責任」に繋がったかもしれません。
 現実の政治学における「プライバシー」や「パターナリズム」にも、それはあるかもしれません。
 透やザラの優しさが、パターナリズムを「自己責任」の主張に繋げるのを防いでいますが、それは相手に利益だけを与えられない原理で、損害にどうしても繋がってしまう現象が、パターナリズムと「自己責任」を繋いでしまう可能性を示しています。

パターナリズムを要求する「子心」と善意すらなくなるパターナリズム

2022年10月9日閲覧

 『ドラゴンボール超 ブロリー』では、ブロリー、パラガス、フリーザへの、相手にパターナリズムを求める心と、それに対してパターナリズムから「善意」がなくなる描写があります。
 フリーザは父親のコルドも含めて、宇宙各地の惑星を制圧して土地を奪う軍の宇宙人でしたが、その部下である戦闘民族のサイヤ人と、互いに嫌悪し合っていたようです。ただし、制圧の目的そのものはたいして変わりません。
 しかしサイヤ人の中でパラガスは何故か敵意か薄く、コルドやフリーザに恐怖はしても、陰ですら悪口をあまり言いません。
 パラガスは息子のブロリーが強過ぎるためにサイヤ人の王から追放されて、サイヤ人よりもフリーザ軍として戦うのを選びました。
 しかし単独で育てたブロリーも、パラガスの機械による電撃は恐れても、「お父さんのこと、悪く言うのは、いけない」と、やはり陰でも悪く扱いません。
 フリーザがブロリーを、パラガスと自分の共通の敵である、「正しいサイヤ人」として認められる孫悟空やベジータと戦わせたときに、フリーザはパラガスの復讐心やブロリーの怒りをあおるのを楽しんでいるようでした。
 そして、悟空がブロリーだけは「悪い奴じゃない」と説得を試みると、不愉快そうに笑っています。
 そのあと、ブロリーが悟空に負けそうになると、フリーザはパラガスを殺害してブロリーを暴走させました。しかし、そのときでさえ、パラガスはフリーザに恐怖するばかりで抵抗も反抗もしていません。また、ブロリーは電撃の装置が破壊されても、パラガスに反抗する姿勢は特にありませんでした。
 つまり、ブロリーからパラガスへ、パラガスからフリーザやコルドへと、「従うことを求める、恐怖はするが反抗はしない」態度があります。おそらく、「相手のために従わせる」パターナリズムと相性が良いのは、「相手が自分のために正しいことをしてくれると信じる、たとえ損害があっても受け入れる」一方的な服従なのでしょう。
 パターナリズムが「親心」ならば、パラガスやブロリーが持っていたのは「子心」と言えるでしょうか。
 しかし、パラガスは最初こそブロリーを助けるつもりだったのが徐々に冷たくなり、フリーザも最初はパラガスの(主にベジータへの)復讐心に自分の(主に悟空への)復讐心を重ね合わせていたようでしたが、都合が悪くなるとパラガスを善意なく切り捨てています。つまり、「相手のための強制」として正当化、あるいは美化していたはずのパターナリズムが、「逆らう方が悪い」などの論理でいつの間にか善意すらなくなることもあるようです。
 それはおそらく、強引さの中に「利益と損害を同時に与えるのが避けられない」要素があり、一方的な利益から始まる「相手の自由を奪う正当性」が独り歩きして、一方的な損害を与えるばかりになることが多いのでしょう。

一方的に判断を委ねる

 また、パラガスは元々サイヤ人としての制圧に罪悪感が特になく、サイヤ人達に見捨てられてブロリーを助けに行ったときに、唯一強引に連れていたビーツを、最初こそ自分の反乱から離脱させる準備はしていましたが、都合が悪くなると食糧の節約のために射殺しました。そのときの様子に、フリーザがパラガスを殺すのは酷似しています。「自分がビーツにしたことと、自分がされるのは同じだ」と考えて受け入れたかもしれません。
 ちなみに、『ドラゴンボール超』の前身と言える『ドラゴンボールZ 復活の「F」』では、復活したフリーザの気に入らない言動をして殺された部下のタゴマは、その間際に、フリーザより身近な上司だったソルベの名前を叫んでいます。
 書き換えた『ドラゴンボール超』アニメ版でタゴマはフリーザに殺されていませんが、こちらではソルベがフリーザの攻撃をベジータに跳ね返されて致命傷を負い、最期の言葉は「フリーザ様」でした。
 また、神でありながら全ての宇宙や他の神を消し去れる全王に、宇宙の人間のレベルが低いとして消される寸前の第9宇宙の界王神は、「全王様」と叫んでいました。
 この辺りに、『ドラゴンボール』シリーズの部下と上司の関係、そしてパターナリズムから善意があるかの問題があるようです。

ウルトラマンの新世代ヒーローズの「利益と損害」の独断

2022年10月9日閲覧

 ウルトラシリーズのうち、『ウルトラマンギンガ』以降の新世代(ニュージェネレーション)ヒーローズシリーズは、それまでの昭和と平成のウルトラシリーズの要素を併せ持つことで、独特のパターナリズムと「自己責任」の主張がところどころにあります。
 『ドラゴンボール超』も、『ドラゴンボール』原作にない要素が、パターナリズムと「自己責任」を強化しています。
 まず、ウルトラシリーズには元々、防衛チームに黙って、主人公の変身するウルトラマンが独断で地球や人類を守るパターナリズムがあり、主人公が責任を負っていました。
 昭和ウルトラシリーズでは、ウルトラマンが味方ばかりなので、成功しやすいと言えます。世界観もほぼ同じですし。
 平成ウルトラシリーズでは、世界観がほぼ毎回リセットされ、なおかつ敵か味方か分からないウルトラマンや怪獣も増えます。
 新世代ヒーローズでは、『ギンガ』で主人公のヒカルがウルトラマンだけでなく怪獣にも変身する、敵もウルトラマンの能力を使うなど、敵と味方の要素が混ざり合います。さらに、世界観が異なりながらも、それを超えて敵や味方がやって来る現象も多く、昭和と平成の常識を超えた戦いになります。
 その中で、主人公の「防衛チームに黙って戦う」パターナリズムが、「ウルトラマンが怪獣の能力を使う」、「人間を攻撃していた怪獣が突然味方になる」などの、それまでの前提だった推測に当てはまらない事態で強引さを増します。
 『ウルトラマンギンガS』や『ウルトラマンZ』など、敵か味方か分からない存在を主人公が信じて、それを知らない人間の上官や一般人に強制するパターナリズムがあり、それで信じなければ、教えない主人公ではなく上官や一般人のせいにして、その人間の「自己責任」のように、「信じない方が悪い」と突き放すところもあります。
 特に『ウルトラマンオーブ THE ORIGIN SAGA』では、本来ウルトラマンも怪獣もいなかった別世界の地球に突然現れた巨大な樹を人間が処分しようとするのを、説明もなしにウルトラマンが陰で、自分達がその必要性を知っているからと「野蛮」のように扱っています。その樹を守ろうとする怪獣をウルトラマンがかばったり突然敵として扱ったりしても、人間の一般人や政府にウルトラマンがほとんど説明せず、戦いが終わって樹だけ残ると、「一つの世界に干渉し過ぎてはいけない」と去っていきました。
 つまり、敵と味方が混ざり合う、何が有害で有益か分からない、怪獣やウルトラマンを知らない世界もあるという、それまでのウルトラシリーズの推測に当てはまらない「事実」に、主人公のウルトラマンの善意、「意見」が上手くいくという前提を押し通すあまりに、それまで通りに戦う力による干渉だけして、教えるなどのそれまでに少ない手間のかかる干渉を怠るところがあります。
 前者の戦力による「利益」だけを押し付けるパターナリズムと、後者の「教えない」という「損害」は「理解出来ない一般人や上官が悪い」と押し切って「自己責任」に近い主張にしています。
 『保守と立憲』では、現代日本は、共産主義や社会主義の「リスクの社会化」の逆の「リスクの個人化」を目指して、強いリーダーや価値観のまとめ上げを求めることで、かえって社会主義政権のような独裁、パターナルな政権を求めているとされます。
 現代日本の政権がパターナルかつ「自己責任」の主張になるのは、つまるところ、ウルトラシリーズも含めて多くの日本人が、そのように「利益を一方的に与えるときはパターナルに押し付けて、損害がそれに伴うならば自己責任で助けない」という思考を繰り返して、その発想が民主的に選ばれた政治家に繋がる可能性もあります。

『ドラゴンボール超』の神の放任がもたらす損害と利益

 『ドラゴンボール』シリーズでも、神々が人間を守るために判断してきた原作に、人間を守らないこともある破壊神や天使や全王が強引な強制をするところがあります。
 しかし、たとえば破壊神ビルスが、「悪人」と言われるサイヤ人を悪い上司のフリーザに滅ぼさせるのは、悪とも言い切れません。
 ビルスが復活したフリーザから地球を守らないのも、元々原作で悟空達が壊滅させたフリーザ軍の残党を、他の惑星で小規模ながら戦っていたのを、悟空や他の神々が放置していたので、ビルスにしてみれば「何故地球だけ助けなければならない」ということかもしれません。
 しかし、ビルスがサイヤ人やフリーザや魔人ブウなどの敵を放置して、それに対抗して悟空が強くなり、ビルスでも出来ないかもしれない戦いをしていく可能性があります。ビルスですら恐れる全王をも、悟空は従うよりも独断で、逆に全王を助けることがありました。
 ウルトラシリーズで、全王に似た能力や風貌のグリーザは、本来ウルトラマンエックスの特殊な能力で倒していましたが、その能力を引き継がないウルトラマンゼットが、ある意味でエックスにも出来ない「グリーザの能力を取り込む」という行いで生み出した剣「ベリアロク」が新しい成果を生み出しています。
 エックスは怪獣を生かして封印するなどの特殊な能力があり、あとのウルトラマンは、エックスから能力を引き継いでも、その特殊なところまではあまり持っていませんが、逆にゼットは、エックス以上の能力を手に入れたかもしれません。
 『ギンガ』でウルトラマンタロウが母親に「あなたはお父さんのようには絶対になれませんが、超えることは出来ます」と言われたようにです。
 元々『ドラゴンボール』におけるドラゴンボールは、「ナメック星人の勇気と希望のため」であり、悟空は新しい敵との戦いに「ワクワク」することがあり、そのため敵を見逃すこともあります。『ドラゴンボールGT』を観ますと、悟空とドラゴンボールが敵と味方を増やして戦いを大規模にしている可能性も見受けられます。
 ウルトラシリーズも、味方から能力や情報を引き継ぎ切れない、味方や敵が曖昧である損害を、予想外の利益に変える意味で、「勇気と希望、ワクワク」とも言えます。
 しかし、それはあくまで主人公達の目線で、状況を知らされないウルトラシリーズの上官や一般人、『ドラゴンボール』の地球の一般市民、地球以外の惑星の住民などにしてみれば、周りが反論する自由を奪うパターナリズム、そして頼んでも助けてもらえないところもある「自己責任」かもしれません。

上司や経営者からの「余計な試練」

2022年10月9日閲覧

 私は日曜劇場について、企業の経営者や上司の目線でのパターナリズムが多く、「上司が主人公のときに、上司と部下が対立するならば、上司が正しいのだろう、そうであってほしい」という、上司の強引な善意を正当化、美化するところが多いと考えます。そして、その「余計なお世話」、「おせっかい」が、「余計な試練」とも言うべき損害により「自己責任」をもたらす可能性があります。
 たとえば『下町ロケット』TBSドラマ版では、制約に不満を言う部下に、上司が「不満より努力を優先しろ」と言って、陰で「これであいつも成長してくれれば」と言った場面があり、結局部下が会社を離れて失敗して謝罪したようです。
 上司が部下に、一方的に「自分で考える、工夫する義務」という損害を与えて、「それを利益に変えろ」と要求して、上手くいかなければ「逆らった部下の責任」に変換している様子があります。
 『半沢直樹』第2期では、主人公の半沢の部下の森山が第1期の部下に比べて「生意気」な態度が多く、彼が必死に走り回って階段で負傷したとき、半沢は「俺と同じ剣道をしているなら不注意だ」と真っ先に言っています。
 そもそも森山が、元剣道部であること、取引先の人間とその同期だったことを半沢に隠していたときも、それを突き止めたときに、半沢はいきなり傘で面打ちをしようとしていました。「俺に対して損害を感じるなら、それを乗り越えて利益に変えろ」というような姿勢が多く、「余計なお世話」、「おせっかい」と「自己責任」が両立しているところがあります。
 その「格好良さ」が、パターナリズムと「自己責任」という一見逆の概念を両立させて、横暴な独断にバランスがあるようにみられるのが、現代日本の特徴かもしれません。

パターナリズムと「自己責任」における「自分のx」の定義

2022年10月9日閲覧

 私は、人間は自分のxしか考えられず、xに遺伝子や家庭、貨幣や仕事や学校、法律や国や条例、言語や宗教などの文化の4通りを代入するしか出来ないと考えています。
 パターナリズムは狭義では、経営者が社員を、国家が国民を子供扱いして自分達の価値観を強制することで、これは自分の職場と自分の家庭、自分の法律と自分の家庭を混乱させるところがあります。
 また、現代日本の「自己責任」は、狭い意味では、『舞いあがれ!』も近いのですが、「子供の不幸は親の責任」、「自分の貨幣の損害は自分の家庭に補ってもらえ、自分の法律、行政や国に頼るな」という主張が多く、それを「家族を守る」という美談で正当化することが多いとみられます。
 「自分のx」という複数の分野の利益と損害の組み合わせが混乱するときに、家庭と企業と国家を混乱させるパターナリズムと、家庭に損害を押し付ける「自己責任」の結合の鍵があるかもしれません。そこに、「利益と損害の予想外の繋がり」も重要かもしれません。

誰の「自己責任」を優先するかは「話し手の主観」による

2022年10月9日閲覧

 また、私は、仮に「自己責任」同士がぶつかり合ったときに、どの「自己責任」を優先した主張をするかで、その定義が明確になると推測しています。
 「自己責任」は広い意味では、「誰かを不愉快にさせたならそれに応じた損害を受け入れろ」という意味だと私は考えます。ネットで「自己責任」と検索したときに、「閲覧注意」、「ネタバレやセンシティブな内容に注意」と警告が出るようにです。
 たとえば『ウルトラマンタイガ』では、「日本語を話せない、話せる人間か宇宙人を一時的に乗っ取らなければ会話出来ないゴース星人が無断で地球に来る」、「人間と容姿が明らかに異なるゴース星人を、人間と容姿の同じ範囲の宇宙人であるホマレがかばう」、「ゴース星人を人間の田崎修が攻撃して、自分達の言葉を話せと要求する」という3つの「不愉快な行動」が連鎖しています。
 するとゴース星人は修と会話するために、自分をかばったホマレを操って反論しました。これは侵入したゴース星人の責任か、修の主張に逆らってゴース星人をかばい油断したホマレの責任か、「単独で会話出来ないが暴力を振るえば出来る」「弱者」か「強者」か曖昧なゴース星人に難しい行動を要求する修の責任か曖昧になります。
 どの「不愉快な行動の自己責任」を優先するかは、つまるところ「話し手の主観」だと言えます。
 つまり、「自己責任」とは、「誰を不愉快にさせてはいけないのか」の前提の議論が曖昧なのでしょう。
 今後、日本に外国人が来るときに、暴力で人間に催眠をかけるというのは現実離れしていても、日本語を話したり読み書きしたりするために、何らかの強引な手段を取る必要が大きくなれば、それは日本語を穏やかに教えない周りの日本社会の責任か、外国人の責任か曖昧になるでしょう。
 それは『Z』のバロッサ星人や『オーブ』のギャラクトロンが「会話するために人間を操るのは悪いことか」という問題にも繋がります。

善意があっても「自己責任」の悩みは残る

 また、ゴース星人も修に憤るばかりでもなく、修はホマレを助けようとする意識はありました。それでもゴース星人は修にとって不愉快な「ホマレを操る」ことはせざるを得ず、それでも自分をかばおうとする怪獣から修を逃がそうとはしていましたし、仮に意識のないホマレがゴース星人に体を貸して会話させるつもりでも、修はホマレの意思を軽んじてでもゴース星人がホマレを操るのを止めたかったかもしれません。
 ゴース星人から修、修からホマレ、ホマレからゴース星人への善意も、会話しにくいなどの問題から、一方的に利益を与えるところがあり、その利益の与え方も損害を放置する手段も、それぞれの「主観」になりがちです。それは、「何をするか」、「何をしないか」によって、利益と損害が繋がり、とっさの判断が難しく、主観的かつパターナルな善意を押し通しがちなのでしょう。

「気に入るところ」へのパターナリズムと「気に入らないところ」を突き放す「自己責任」の両立

 そもそも、「相手に善意で強制する」パターナリズムは、「気に入るところ」については「断られても助ける」ことで、「自己責任」は「気に入らないところ」については「頼まれても助けない」ことだと言えます。
 これがたとえ同じ人間に対しても、修のホマレについて「同じ人間(だと修は容姿で認識していた相手)としては気に入っていても、宇宙人をかばうことについては気に入らない」ので、怪獣やゴース星人から「かばう」「パターナリズム」と、ホマレの意思を軽視する突き放しが、ある種の「自己責任」として両立してしまう可能性で揺れ動きます。

まとめ

 パターナリズムは、「相手への善意で強制する」「余計なお世話」、「おせっかい」、「断られても助ける」ことであり、「自己責任」は「頼まれても助けない」ことですが、その正当化が一見逆のようで両立するのは、同じ人間に対して「気に入るところと気に入らないところ」があること、利益と損害が予想外に繋がってしまうことや、言葉が通じなかったり議論が妨げられたりする中での不愉快さの混乱が原因として考えられます。

参考にした物語

特撮テレビドラマ

樋口祐三ほか(監督),金城哲夫ほか(脚本),1966-1967,『ウルトラマン』,TBS系列(放映局)
野長瀬三摩地ほか(監督),上原正三ほか(脚本),1967 -1968(放映期間),『ウルトラセブン』,TBS系列(放映局)
本多猪四郎ほか(監督),上原正三ほか(脚本),1971,『帰ってきたウルトラマン』,TBS系列
筧正典ほか(監督),市川森一ほか(脚本),1972,『ウルトラマンエース』,TBS系列(放映局)
山際永三(監督),田口成光(脚本),1974,『ウルトラマンタロウ』,TBS系列(放映局)
前田勲ほか(監督),阿井文瓶ほか(脚本),1975,『ウルトラマンレオ』,TBS系列(放映局)
深沢清澄ほか(監督),広瀬㐮ほか(作),1980-1981,『ウルトラマン80』,TBS系列(放映局)
村石宏實ほか(監督),長谷川圭一(脚本),1996 -1997,『ウルトラマンティガ』,TBS系列(放映局)
村石宏實ほか(監督),川上英幸ほか(脚本),1997 -1998(放映期間),『ウルトラマンダイナ』,TBS系列(放映局)
根本実樹ほか(監督),武上純希ほか(脚本),1998 -1999(放映期間),『ウルトラマンガイア』,TBS系列(放映局)
大西信介ほか(監督),根元実樹ほか(脚本) ,2001 -2002(放映期間),『ウルトラマンコスモス』,TBS系列(放映局)
小中和哉ほか(監督),長谷川圭一ほか(脚本),2004 -2005,『ウルトラマンネクサス』,TBS系列(放映局)
村上秀晃ほか(監督),金子次郎ほか(脚本),2005-2006,『ウルトラマンマックス』,TBS系列(放映局)
村石宏實ほか(監督),小林雄次ほか(脚本) ,2006 -2007 (放映期間),『ウルトラマンメビウス』,TBS系列(放映局)
アベユーイチほか(監督),長谷川圭一ほか(脚本),2013 (放映期間),『ウルトラマンギンガ』,テレビ東京系列(放映局)
坂本浩一ほか(監督),小林雄次ほか(脚本) ,2014 (放映期間),『ウルトラマンギンガS』,テレビ東京系列(放映局)
田口清隆ほか(監督),小林雄次ほか(脚本) ,2015 (放映期間),『ウルトラマンエックス』,テレビ東京系列(放映局)
田口清隆ほか(監督),中野貴雄ほか(脚本) ,2016 (放映期間),『ウルトラマンオーブ』,テレビ東京系列(放映局)
坂本浩一ほか(監督),安達寛高ほか(脚本) ,2017,『ウルトラマンジード』,テレビ東京系列(放映局)
武居正能ほか(監督),中野貴雄ほか(脚本),2018,『ウルトラマンR/B』,テレビ東京系列(放映局)
市野龍一ほか(監督),林壮太郎ほか(脚本),2019,『ウルトラマンタイガ』,テレビ東京系列(放映局)
田口清隆ほか(監督),吹原幸太ほか(脚本),2020,『ウルトラマンZ』,テレビ東京系列(放映局)

ネットオリジナル特撮

小中和哉ほか(監督),小林弘利ほか(脚本) ,2016年12月26日-2017年3月13日(配信期間),『ウルトラマンオーブ THE ORIGIN SAGA』,アマゾンプライムオリジナル(配信元)

テレビドラマ

伊與田英徳ほか(プロデューサー),八津弘幸ほか(脚本),池井戸潤(原作),2015,『下町ロケット』,TBS系列(放映局)
伊與田英徳ほか(プロデューサー),丑尾健太郎(脚本),池井戸潤(原作),2018,『下町ロケット』,TBS系列(放映局)
伊與田英徳ほか(プロデューサー),丑尾健太郎(脚本),池井戸潤(原作),2019,『下町ロケット ヤタガラス 特別編』,TBS系列(放映局)
伊與田英徳ほか(プロデューサー),八津弘幸(脚本),2013,『半沢直樹』,TBS系列(放映局)
伊與田英徳ほか(プロデューサー),福澤克雄ほか(演出),丑尾健太郎ほか(脚本),2020,『半沢直樹』,TBS系列

漫画

鳥山明,1985-1995(発行期間),『ドラゴンボール』,集英社(出版社)
鳥山明(原作),とよたろう(作画),2016-(発行期間,未完),『ドラゴンボール超』,集英社(出版社)
城平京(原作), 左有秀(構成),彩崎廉(作画),2010-2013(発行),『絶園のテンペスト』,スクウェア・エニックス(出版社)
空知英秋,2004-2019(発行期間),『銀魂』,集英社(出版社)
臼井儀人,1992-2010(発行期間),『クレヨンしんちゃん』,双葉社(出版社)
臼井儀人&UYスタジオ,2012-(発行期間,未完),『新クレヨンしんちゃん』,双葉社(出版社)
船野真帆,2021-2022,『歳と魔法はキス次第』,講談社
筒井大志,2017-2021,『ぼくたちは勉強ができない』,集英社

テレビアニメ

内山正幸ほか(作画監督),上田芳裕ほか(演出),井上敏樹ほか(脚本),西尾大介ほか(シリーズディレクター),1986-1989,『ドラゴンボール』,フジテレビ系列
大野勉ほか(作画監督),冨岡淳広ほか(脚本),畑野森生ほか(シリーズディレクター),鳥山明(原作),2015-2018,『ドラゴンボール超』,フジテレビ系列(放映局)
清水賢治(フジテレビプロデューサー),松井亜弥ほか(脚本),西尾大介(シリーズディレクター),小山高生(シリーズ構成),鳥山明(原作),1989-1996,『ドラゴンボールZ』,フジテレビ系列(放映局)
金田耕司ほか(プロデューサー),葛西治(シリーズディレクター),宮原直樹ほか(総作画監督),松井亜弥ほか(脚本),鳥山明(原作),1996 -1997(放映期間),『ドラゴンボールGT』,フジテレビ系列(放映局)

アニメ映画

長峯達也(監督),鳥山明(原作・脚本),2018年12月14日(公開日),『ドラゴンボール超 ブロリー』,東映(配給)
山室直儀(監督),鳥山明(原作・脚本),2015年4月18日(公開日),『ドラゴンボールZ 復活の「F」』,東映(配給)

実写映画

ジェームズ・キャメロン(監督),ジェームズ・キャメロンほか(脚本),1984,『ターミネーター』,オライオン・ピクチャーズ(配給)
ジェームズ・キャメロン(監督),ジェームズ・キャメロンほか(脚本),1991,『ターミネーター2』,トライスター・ピクチャーズ(配給)
ジョナサン・モストゥ(監督),ジョン・ブランカートほか(脚本),2003,『ターミネーター3』,ワーナー・ブラーズ(配給)
マックG(監督),ジョン・ブランケットほか(脚本),2009,『ターミネーター4』,ソニー・ピクチャーズエンタテイメント(配給)

参考文献

那須耕介(編著),橋本努(編著),2020,『ナッジ!? 自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム』,勁草書房
沢登俊雄,1997,『現代社会とパターナリズム』,ゆみる出版
中島岳志,2019,『自民党 価値とリスクのマトリクス』,スタンド・ブックス
中島岳志,2018,『保守と立憲 世界によって私が変えられないために』,スタンド・ブックス


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