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相手に利益だけを与えることは出来ない定理


 

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注意

 

これらの物語の重要な情報を明かします。

 

実写映画

 

『ターミネーター2』

『ターミネーター3』

『ターミネーター4』

『ターミネーター・ジェニシス』

 

漫画

 

『NARUTO』

『ドラゴンボール』

『ドラゴンボール超』

『古見さんは、コミュ症です。』

『歳と魔法はキス次第』

『クレヨンしんちゃん』

『新クレヨンしんちゃん』

『築地魚河岸三代目』

『JIN-仁-』

『新世紀エヴァンゲリオン』

 

 

テレビドラマ

 

 

『JIN-仁-』

『JIN-仁-完結編』

 

 

 

テレビアニメ

『NARUTO』

『NARUTO 疾風伝』

『ドラゴンボール超』

『新世紀エヴァンゲリオン』

 

 

 

 

 

 

 

 

特撮テレビドラマ

 『ウルトラセブン』(平成版)

『ウルトラマンネクサス』

『ウルトラマンマックス』

『ウルトラマンメビウス』

『ULTRASEVEN X』

『ウルトラマンオーブ』

『ウルトラマンZ』

 特撮オリジナルビデオ

『ウルトラセブン』

『ウルトラマンメビウス ゴーストリバース』

特撮映画

 

 

『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』

 

ネットオリジナル特撮

 

 

『ウルトラマンオーブ THE ORIGIN SAGA』

 

小説

 

『ウルトラマンメビウス アンデレスホリゾント』

『幼年期の終わり』

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめに


 


 


 


 


 


 


 


 


 

2022年7月31日閲覧

 

 

 

 

 

 

 幾つかの記事で、「善意で相手の自由を奪う、何かを強制する」パターナリズムと、近年の日本で話題になる「自己責任」の関係について記しました。

 しかし、本来「余計なお世話」、「おせっかい」であるはずのパターナリズムが、「自己責任」と結合するのは、意外に感じる方もいるかもしれません。これは、パターナリズムを否定するつもりで「自己責任」になる結論が、むしろパターナリズムを織り込み済みにしている可能性もあります。

 今回は、パターナリズムと「自己責任」の定義を分割して、「どんなに善意があっても相手に利益だけを与えることは出来ない」定理というべきものを示し、そこに2つの繋がりがあると主張します。

 

 

 

パターナリズムと「自己責任」の広義と狭義の定義

 

 

 まず、それぞれの定義を、それぞれ2種類ずつ説明します。

 パターナリズムの定義は、まず広い意味では「善意の強制」、「相手に自分が良いと思う生き方の強制」などです。さらに狭い意味では、語源に「父」を含むことなどから、「年長男性の判断や決定の権利を優先すること」、「家族のように企業を経営すること」などがあります。

 私が主に挙げるのは前者であり、年長男性によるものでないパターナリズムも物語に多く、むしろ「パターナリズムに逆らうつもりの逆向きのパターナリズム」もあると考えます。

「強い立場の者による強制」の要素がパターナリズムの議論にはありますが、そもそも私の多く扱う特撮や少年漫画では、権力の少ない主人公が知識や暴力を権力者以上に独占して独断する善意がみられ、どちらが強者かはっきりしないこともあります。

 「自己責任」の定義は、広い意味では、ネットで検索するときの「閲覧注意」などのように、「センシティブ」な内容や「ネタバレ」などの自分の行動で相手が不愉快な思いをしたり損害を被ったりするのに、自分が損害のなくても不愉快な感情を持ち、「不愉快になる前に関わるな」と警告することで、「誰かを不愉快にさせたならそれ相応の損害を受け入れろ」と要求しているとみられます。狭い意味では、「国民の貨幣などの生活の損害は、家族や世帯主に助けてもらえ。国や法律や行政に頼るな」などの、社会保障などへの否定的な主張のようです。

 私は両方をなるべく使い分けますが、日曜劇場などでは、前者の「不愉快な人間に責任を取らせる」のと後者の経済的に厳しくする概念が混乱しているところがあります。

 

パターナリズムと「自己責任」の結合

 

 パターナリズムと「自己責任」が結合する原因として、たとえば『ターミネーター4』を考えました。

未来からのある程度広い知識を持つ主人公のジョンが世界中の人間を救おうとして、「敵の機械」に立ち向かおうとして周りを、ときに上司に逆らうほど強引に指導するときに、その知識の限界である「敵か味方か分からない、機械か人間かも分からない相手」への対応に迷い、それを敵だと断定する人間が、「(そいつに味方する人間が攻撃に巻き込まれるのは)自分の責任だ」と断じてしまうように、自分の知識などに基づく推測で周りを助けたい意見に、推測として限界があったときに「自分は良かれと思ってしている」という意見で押し通すところがあります。

 「自分の独特の知識に基づく推測を周りは理解しないだろう」、「それでも無理やりにでも助けたい」という推測や意見を含むパターナリズムに、その推測の限界を超えた事実に直面すると、推測に反して逆らう人間も現れ、「逆らった方の自己責任」となってしまうのでしょう。

 現代日本も、おそらく国家や企業が「このように働いてほしい、それで上手くいくはずだ、そうであってほしい」と考える中で、それに当てはまらない働き方や生き方をする人間に不愉快なものを感じ、「逆らうなら好きにしろ、そちらの責任だ」となるとみられます。

 しかし今回は、さらにこれらの定義を分割して、「相手に自分の知る事実や自分の推測や意見に基づく利益を与えたいが、相手の自由意思は部分的に軽んじる」パターナリズムと「相手に自由を与えて、それに基づく損害を強要する」「自己責任」が両立してしまう原因を掘り下げます。それは「相手に利益だけを与えることは出来ない」ためだとしました。

 

 

「純粋な善意」の限界

 

 

 まず、幾つかの物語に、特に主人公が、相手に損害を与えたくない純朴な姿勢でいることがあります。

 ウルトラシリーズで言えば、『ウルトラマンメビウス』の宇宙人のウルトラマンメビウス=ヒビノミライです。彼は昭和ウルトラシリーズの宇宙人のウルトラマンがいる世界観で、新しく来た宇宙人であり、人間と一体化していないウルトラセブンに近い体質ですが、劇場版で初代ウルトラマン(この時点で人間と一体化しているかよく分かりませんが)に「地球の人間の精神は複雑だ」と言われており、ある意味単純な善意で行動しています。

 彼は自分に敵対する相手でも、人間や宇宙人にはかなり優しく接します。勝手な行動をするウルトラマンのハンターナイトツルギが負傷して倒れたときに、駆け寄って逆に「干渉するな」と刃を向けられたり、防衛隊員として仲間のジョージをチームに引き留めるためにサッカーで勝負して、相手が予想外のミスをして自分が勝ったにもかかわらず、喜ばずに相手の負傷を疑い心配して「俺の負けだ」と言わせたり、心を改めたツルギ=ヒカリに別の宇宙人のザムシャーが果し合いを挑んだときに、既にザムシャーが人間を危険にさらしたにもかかわらず「どちらかが死ぬんだぞ!」と止めたりしています。本編のあとでは自分を狙うロボットを別のロボットのメカザム(やや人間に近い体型と言葉があります)が攻撃して、さらに自分まで攻撃しようとしたときに、反撃を途中で止めて「君は僕を助けてくれた。君とは戦いたくない」と言って「甘過ぎる」と言われています。

 相手の望まない心配までして、それが相手を不愉快にさせたり逆に「負けだ」と言わせたりする純粋さがあります。

 また彼は、怪獣を共通の敵だと考える傾向があり、それらを巡る戦いの方針で隊員同士が取っ組み合いになりそうになると、「どうして僕達が争わなければいけないんですか」と言うなど、協力関係を強制するところがあります。

 『ターミネーター4』では「我々の敵は機械だ」という説得を聞き入れずに人間同士で争う例もあり、主人公が「人間同士の結束」を強制する善意があるのは否めません。『ウルトラマンメビウス アンデレスホリゾント』では、「元々人間同士でさえ争うのに、宇宙人のウルトラマンと協力し合えるか」と皮肉な姿勢を持つハルザキカナタが主人公でした。

 ツルギ、ザムシャー、ジョージ、メカザム、カナタなどは、メビウスやミライを拒絶して、ある程度争う損害や自由を望んでいるところもあるのですが、「争いたくない」という一方的な善意が、それぞれの望む、ある種ひねくれた利益を奪ってもいるのです。つまり、ミライの価値観に基づく善意が、彼等の望む利益を部分的に、気付かずに奪っています。

 ミライのその純粋さに苛立つこともある仲間のリュウも、ミライがメイツ星人ビオに遭遇したときに、メイツ星人が話した事情が、本作では珍しく「人間の方も宇宙人に非のある」状況であり、迷ったミライが動かないでいるのを、独断でミライの危機だと判断してビオを撃ち事態を混乱させてしまい、ミライも苦しめてしまいました。ミライの善意を受け取る側も、一方的な善意で失敗することがあるのです。

 

 

 

 

 

『ネクサス』のパターナリズムへの逆らいにくさ

 

 

 ある意味で純朴な主人公である『ウルトラマンネクサス』の孤門は、人助けをしているレスキューから、人間を捕食するスペースビーストと戦うナイトレイダーに入り、一部の人間を切り捨てる、目撃者の記憶を消すなどの強引な手段に疑問を持ちます。

 しかし孤門は自分のミスで民間人が負傷したことも、関係者の記憶から消してもらい、徐々に組織の強引な行動に逆らいにくくなりました。レスキュー時代にもミスをした自分が咎められずに済んだときがありました。さらに、その負傷した民間人の兄は、自分が救助に来た孤門の善意を信じずに妨害したことや(孤門と別の)ウルトラマンの警告が遅れたことも負傷の原因であることを棚に上げて孤門だけのせいにしています。

 このナイトレイダーのパターナリズムで、「目撃者の知る自由」、「伝える自由」などの部分的な利益を奪う中で、「目撃者が知っても状況が悪化する」、「隠すことで自分は活動しやすくなり、結果的に戦い続けられる」のように考えて、パターナリズムが孤門に連鎖する可能性もありました。彼は「君はこの組織にいるには優し過ぎる」と言われていますし、記憶を奪われた兄と負傷した妹が再び巻き込まれたときに、完全な説明をせずに「必ず助ける」と一方的に約束しています。

 つまり、「知る自由」などの利益と、他の生命や安全などの利益をまとめて成立させられず、「相手の何のため」かの優先順位に悩み、相手に部分的な損害を与える判断を一方的にせざるを得なくなっています。

 

利益に伴う損害を与えてしまう

 

 

 

『ウルトラマンマックス』では、隊員の試験に落ちた主人公のカイトが、正式な隊員のミズキが失敗したときに無理矢理助けようとして自分も死にかけたり、自分の一体化したウルトラマンマックスの人間からの信頼を得ようと不用意に変身しようとしてかえって命の危機に陥って結果的にマックスも危険にさらしたりしています。

周りへの一方的な善意で、相手の望まない利益と共に致命的な損害をかえって与えているところがあります。

『ウルトラマンZ』では、防衛隊員のハルキが規則を破って犬を助けようとして、先輩のヨウコのロボットに潰されそうになり、隊長のヘビクラに「そういうの嫌いじゃない、大好きだけど、失敗したらヨウコが傷を負うことになる」と言われています。宇宙人だったヘビクラ=ジャグラーは、『ウルトラマンオーブ THE ORIGIN SAGA』や『ウルトラマンオーブ』で自分に訓練で手を抜いた攻撃をした仲間のガイに苛立ったり、弟子を名乗るミコットが勝手に自分の真似をして命を落としたり、敵対したあとのガイが本気を出さないことにさらに憤ったりしており、相手の善意にかえって精神的な損害を感じていたようです。

 このように、相手に損害を与えたくない主人公の純粋さが、利益の全てが並立しない状況で、かえって相手の望まない利益に伴う損害を与えてしまうようです。

 

 

相手の「安全」や「自由意思」より「文化的な美」を優先する善意

 

 

 『古見さんは、コミュ症です。』では、女子高生の古見硝子(こみしょうこ)が、容姿や無口さや優秀さから周りのクラスメイトのほとんどに一方的に神格視され、本当は友達を作りたいにもかかわらず話せない、相手を不愉快にさせたくないので接し方が分からないという苦しみへの取り組みを描いています。

 ここでは、たとえば山井恋(やまいれん)が、古見が返事を出来なくても「私なんかに口を聞いたら古見さんの安売りになるものね、無視されて嬉しい」などのように相手に都合良く解釈して自己完結し、結局互いにほとんど話さずにいました。

 「相手のため」というのは、「相手の何のためか」という分野の分割が重要だと私は考えており、その分野は人間社会で基本的に「遺伝子、貨幣、法律、文化」だとみなしています。

 『ドラゴンボール超』で、破壊神の付き人の天使が「はしたないですよ」、「下品です」と破壊神をたしなめるのは、「相手の自由より相手の品性などの文化的な利益」を優先しているとみられます。言われる破壊神のビルスも、言う天使のウイスも、自分達より下品な言動の別の宇宙の界王神を共通して批判したことはあります。

 『古見さん』 では、偶然古見の真意に気付いた、「没個性」とよく言われる只野が「古見さんは人と話すのが苦手なんだ」と山井に率直に伝えて、山井を一瞬怒らせながらもどうにか話を出来るようにしました。

 私はこれまでの記事であまり学園コメディを扱いませんでしたが、遺伝子に基づく家庭やその前の恋愛や文化に基づく友人関係が、学園コメディでは重視されるのでしょう。学園コメディで、法律に基づく政治や貨幣に基づく仕事や経済はやや扱いにくいので、私はこれまで議論しにくかったところがありました。それは、恋愛や友人関係は「どうすれば優しく出来るか」、「何をしてはいけないか」などの利害の概念が複雑な文化を含むためでもあり、そこには「利益と損害が絡み合う」部分もあります。

 山井は只野を古見に近付けないようにして、「こんな野郎は古見さんと一緒にいない方が良いの、私と友達の方が古見さんのためなの」と言っており、年少の女性同士のパターナリズムがあります。それを古見は「私の友達は私が決めます」と拒絶しましたが、それまで古見が「接し方が分からない」と話せなかったのも、ある意味で「善意を隠す一方的な善意」が「高嶺の花」のように思わせるところがあります。ある意味で、「善意を隠す善意」はもっとも相手に気を遣うパターナリズムになるのかもしれません。

 

「知ってあげたい、でも迷惑かもしれない」

 

 

 『歳と魔法はキス次第』では、原因不明の「影の薄い」体質の少年の葎透が、魔法使いのザラに「好きな子に告白したい」願いを叶えてもらおうとするのですが、それは叶えなければザラが困るためでもあり、相手に害をなすのを極力避けています。

 そして、好きな少女も魔法に関わっている可能性や秘密があると知ったとき、他の魔法使いの多くの危険性などから、「困っているなら知って助けたい」と決心したものの、ザラに「もし知られて困ることだったら、僕を殴ってでも記憶を消してください」と直後に慌てて頼み「律儀か」と呆れられています。「繊細」というザラの評価を他の相手に「良い子ぶりたいだけだろう」と言われてもいます。恋愛感情にかかわらず、相手になるべく利益だけを与えたい、しかし相手の損害かもしれない情報を知って助けたい、しかし知られること自体も損害かもしれない、といった概念があります。

 本作の魔法使いが、多くは人間を対等とみなさず、主人公に接触した魔法使いのザラが例外的であるのは、ウルトラシリーズの宇宙人の中のウルトラマンにも似ています。

 

 

神やターミネーターの「利益を与える姿勢」の不完全さや強引さ

 

 『ドラゴンボール』では、善悪がはっきりしていることが多いのですが、「悪の心を捨てた」とされる「地球の神」ですら、それが「神々の主観」であり、悪いと取れる行動を部分的にせざるを得なくなっています。

 たとえば、地球人に善意で与えたはずの「願いを叶える」ドラゴンボールがろくな使い方をされなかったとして、破壊されたままにしようとしたり、切り離した「悪の心」の分身のピッコロが暴れても「命が連動しているために手出し出来ない」と放置せざるを得ず、封印に失敗してからは死のうとしましたが、逆に人間に無理矢理助けられたり死を止められたりしています。また、ドラゴンボールで誰を生き返らせるかの優先順位に悩み、ベジータに殺された人々を放置せざるを得なくなり、人造人間との戦いでは自分にしか出来ない地上の監視を、悪の分身であったはずのピッコロに「また覗き見か?あまり良い趣味とは言えんな」、「一人で楽しみやがって」と言われています。「地球の神」と同化したあとのピッコロも、あとで生き返らせるとして地球人を見捨てることになっています。

 神としての善意が、予想外の事態で部分的な不自由や損害を出さざるを得なくなっています。

『ターミネーター2』では、人間に味方するようにプログラミングされたターミネーターが、守るべきジョンの命令より安全を優先し、逆に自分が必要だと判断した命令をすることもあります。それはそれで人間らしさに近付いたとも言えますが。

『ターミネーター3』では、未来の機械のスカイネットに送り込まれたターミネーターが、機械を操る能力を持っており、最新型である自分の頭脳で旧式の機械、さらに過去の上司とも言える「現在」のスカイネットすら操った可能性があります。従順な機械ですら、従うべき、守るべき相手のために命令したり操ったりする可能性があるのです。

 

 

 

穏やかな存在の善意の純粋さの悩み

 

 

 『新世紀エヴァンゲリオン』テレビアニメ版では、主人公のシンジの父親のゲンドウが、妻のユイの遺伝子を引き継ぐらしい綾波レイを「人形のように」育てていたところがありますが、レイはユイとしての名残からか、シンジとゲンドウの対立に腹を立てる独特の情緒があります。

 穏やかだったように思えるユイの精神も、助けたい相手同士の対立や相手の自由意思の複雑さの中で、部分的な損害を与えています。漫画版では、レイは少し異なりますが。

 『NARUTO』では、白(はく)と再不斬(ざぶざ)の関係も重要です。ナルトに「人は誰かのためなら本当に強くなれる」と主張した敵の白は、自分を「再不斬さんの道具」と言い切るものの、命を助けるために敵のカカシをだますべく再不斬を部分的に攻撃せざるを得ないときに、なるべく傷の目立たない場所を考えて悩んでいます。

 そして、再不斬をカカシから守るために命を落としましたが、再不斬もそれに涙を流し、白の遺体を傷付けた相手に挑んで殺され、のちにカカシは「再不斬は白の死に動揺していた」と推測しています。再不斬に利益を与えたかったはずの自己犠牲すら、精神的に損害を出してしまったところがあります。

 ただ、白と再不斬が共にカカシの敵に生き返らせられて操られたとき、白は「僕は再不斬さんの道具になれなかった」と嘆き、自分を殺したカカシに「もう一度僕を止めてください」と頼む独特の純粋さを見せ、結果的に再不斬と苦しみを共有したまま封印されました。それはそれで、再不斬の喜ぶことだったかもしれません。

相手に利益だけを与えられないことへの苦しみは、様々な種類の利益を無限に与えたいほど相手を大事に思う感情同士の対立があるとみられます。その優先順位から、利益と損害の概念をこじらせたパターナリズムが生まれるのでしょう。

たとえば、『ターミネーター・ジェニシス』では、ある人間の男女の息子がターミネーターに改造されたものの人間の感情を残し、「未来を与えたいからこちら側に付け」と、ターミネーターとしては珍しく人間を説得しようとしています。この「与えたい」が「何を与えたい」のか具体化し切れないことで、利益に損害を伴ってしまう可能性があります。

 

 

「部下を大切にしたい」綱渡り

 

 

『築地魚河岸三代目』の魚問屋の仲卸の主人公の赤木旬太郎や『JIN-仁-』の主人公の外科医の南方仁は、「部下を大切に扱いたい」感情がかなりの綱渡りになっているところがあります。

 旬太郎は婿養子として、素人の状態から仲卸の三代目となり、部下に何度も教わる「三代目、兼ぺーぺー」と言われる状態でした。そのため、外部の人間に対して部下をへりくだって表現したり厳しく対応したり出来ていないところがあります。

 旬太郎のいないところでその部下を見下す狡猾なフレンチシェフに「そんなんだから部下のしつけも出来ないんだよ」と思われています。しかし、そのシェフのずるい仕打ちすら善意と解釈して「馬鹿か」、「間の抜けている」とも思われる「おめでたい」とも言える「天然さ」が、結果的にシェフを懲らしめました。

 『クレヨンしんちゃん』では、主人公のしんのすけが相手に損害を出している、あるいは自分が利益を受け取っているのを逆に捉える「図々しい」論理の倒錯がありますが、その逆を旬太郎はして、しんのすけがするのと逆の形で相手に自覚せず一矢報いているのです。

 

 『JIN』では、未来から来た脳外科医の仁が、医療のために周りの医師や武士の協力を仰ぐことがありますが、自分に教わる相手にも、身分や金銭に恵まれない相手でも、基本的に大人には丁寧に接します。自分は相手より本来はるかに年下、そもそも相手のおかげで歴史が生まれて自分の生きている可能性があるなどを考えているともみられます。

 しかし、協力する医師や武家の娘の咲を率いて「仁友堂」という医院を開いても、あまり部下として扱いませんが、そのためにいざ予想外のトラブルや争いのときに、代表としての責任ある毅然とした態度を取れないところがあります。「この薬(ペニシリン)を作った南方と申します」と名乗るのも、「保険は私が考えたわけではない」と言うのも、犯罪を疑われて部下を「その人は私に従っただけです」とかばうのも、本来自分の発案ではない、周りの提案や協力であっても、その責任を自分がまとめなければならないのが悩ましいと言えます。

 結局、旬太郎も仁も、完全に周りに穏やかに優しく接するのに限界がある立場や職業なのです。

 

好意でも損害になる例

 

また、『クレヨンしんちゃん』ではしんのすけが「図々しい」態度を見せない相手として、ななこやその父親の四十郎がいますが、彼女達に「良いところ」を見せようとして裏目に出ることもあります。しんのすけに逆に好意を寄せる酢乙女あいも、しんのすけの奔放な姿勢を「あばたもえくぼ」のように一方的に誉めていますが、その持ち上げ方がかえってしんのすけに窮屈な思いをさせたり、あいが時折振り回すボディーガードの黒磯の方をしんのすけが敬ったりすることもあります。

相手に好意だけを持っていても、利益だけを与えるのは出来ないのでしょう。

 

 

独裁の限界と「損害を楽しむ自由」

 

 

また、ここで扱う話題は家庭や友人関係や仕事も多かったのですが、政治でも「どのような善意でも、独裁では利益だけを与えられない」概念があります。

『幼年期の終わり』では、地球の人間社会を宇宙人が平和的に管理しようとして、「我々は自分の力で平和をつかみ取るべきだ」といった人間の反対も柔らかく受け流します。

 しかし、人間のスポーツとしての闘牛には憤り、牛と同じ痛みを関係者に一瞬体験させるという罰を与えています。

 『ULTRASEVEN X』でも、地球の人間社会が高度な技術で管理されて「完全な平和」を達成していましたが、酔っ払いの街中での喧嘩までは止められていませんでした。本作のメディアは政府に陰で管理されており、仮に「完全な平和」が都合の良い嘘のニュースだったとしても、それを一般人が疑わないのは、「酔っ払いが喧嘩するぐらいは、平和に逆らいたい気持ちも責められない」ためかもしれません。『幼年期の終わり』の闘牛のように、どうしても人間には避けられない「争いや部分的な損害を楽しむ」精神が残り、それを独裁政権の中には、善意で動いていても許せない政権があるのかもしれません。

 

 

無垢でも威圧する植物生命体

 

 

『ウルトラセブン』平成版では、人間を悪だと扱う例が多いのですが、地球で人間に取って代わると示唆される、人間に似た姿できわめて穏やかな植物生命体ミツコが、争いを嘆きます。

 しかし、ミツコを「守る」ために、ある超能力者が怪獣「ネオパンドン」を操って人間やウルトラセブンを攻撃すると、ミツコは「コントロール装置を渡しなさい」と威圧し奪い取り、装置で怪獣に穏やかな感情を流し込んで止めました。人間に「自分はあいつを撃とうとしたのに。そんな優しいだけの生命体がいるはずない」と驚かれましたが、ミツコも自分のために一方的に暴力を振るう相手を威圧する「必要な残忍さ」はあるのです。

 しかしその超能力者を身体的に傷付けることはなく、そもそも怪獣がウルトラセブンに殺されたのは、ミツコが人間に撃たれてコントロール出来なくなったためで、ミツコはセブンに「怪獣を倒して」とも言っておらず、もしかすると、ミツコは人間もセブンも、超能力者も怪獣も傷付けたくなかったのかもしれません。

 『古見さん』の古見が山井の「古見さんのため」の只野への言動を怒りで止めても、そのあとは和解したように、ミツコが超能力者に見せた姿勢は、「相手に利益だけを与えることは出来ない」、「しかしそれは悪意とは言えない」ことの証明なのかもしれません。

  この記事で挙げた「損害を与えたくないのに悩む」人物は、宇宙人、経営者、防衛隊員、忍者、魔法使い、クラスの人気者などの、ある意味の強さを持った区分の中では珍しく穏やかな気性だというのが共通しています。

 

まとめ

 

 いかなる善意に満ちていても、相手に利益だけを与えることすら出来ないと私は考えます。「身が持たない」、「感情に限界がある」という以前に、利益とは基本的に単一でなく、複数分野の利益が多くの場合は並立しないためです。損害を楽しむ自由意思の可能性すらありますし。その利益と損害の繋がりが、「利益を一方的に与える」パターナリズムと、「損害を与えて助けない」「自己責任」の繋がりを生むかもしれません。

 

 

 

 

参考にした物語

 

 

実写映画

 

 

ジェームズ・キャメロン(監督),ジェームズ・キャメロンほか(脚本),1991,『ターミネーター2』,トライスター・ピクチャーズ(配給)
ジョナサン・モストゥ(監督),ジョン・ブランカートほか(脚本),2003,『ターミネーター3』,ワーナー・ブラーズ(配給)
マックG(監督),ジョン・ブランケットほか(脚本),2009,『ターミネーター4』,ソニー・ピクチャーズエンタテイメント(配給)

アラン・テイラー(監督),レータ・グロリディスほか(脚本),2015,『ターミネーター新起動/ジェニシス』,パラマウント映画(配給)

 

漫画

 

岸本斉史,1999-2015,『NARUTO』,集英社(出版社)

鳥山明,1985-1995(発行期間),『ドラゴンボール』,集英社(出版社)

鳥山明(原作),とよたろう(作画),2016-(発行期間,未完),『ドラゴンボール超』,集英社(出版社)

鍋島雅治/九和かずと(原作),はしもとみつお(作画),2000-2013(発表期間),『築地魚河岸三代目』,小学館(出版社)

村上もとか,2001-2010(発行期間),『JIN-仁-』,集英社(出版社)

臼井儀人,1992-2010(発行期間),『クレヨンしんちゃん』,双葉社(出版社)

臼井儀人&UYスタジオ,2012-(発行期間,未完),『新クレヨンしんちゃん』,双葉社(出版社)

オダトモヒト,2016-(未完),『古見さんは、コミュ症です。』,小学館

船野真帆,2021-2022,『歳と魔法はキス次第』,講談社

 カラー(原作),貞本義行(漫画),1995-2014(発行期間),『新世紀エヴァンゲリオン』,角川書店(出版社)

 

テレビアニメ

伊達勇登(監督),大和屋暁ほか(脚本),岸本斉史(原作),2002-2007(放映期間),『NARUTO 』,テレビ東京系列(放映局)
伊達勇登ほか(監督),吉田伸ほか(脚本),岸本斉史(原作),2007-2017(放映期間),『NARUTO 疾風伝』,テレビ東京系列(放映局)

 庵野秀明(監督),薩川昭夫ほか(脚本),GAINAX(原作),1995-1996(放映期間),『新世紀エヴァンゲリオン』,テレビ東京系列(放映局)

大野勉ほか(作画監督),冨岡淳広ほか(脚本),畑野森生ほか(シリーズディレクター),鳥山明(原作),2015-2018,『ドラゴンボール超』,フジテレビ系列(放映局)

 

テレビドラマ

村上もとか(原作),石丸彰彦ほか(プロデュース),森下佳子(脚本),2009,『JIN-仁-』,TBS系列(放映局)

村上もとか(原作),石丸彰彦ほか(プロデュース),森下佳子(脚本),2011, 『JIN-仁- 完結編』,TBS系列(放映局)

 

 

特撮テレビドラマ

神澤信一(監督),右田昌万(脚本),1994(放映期間),『ウルトラセブン』,日本テレビ系列(放映局)

小中和哉ほか(監督),長谷川圭一ほか(脚本),2004 -2005,『ウルトラマンネクサス』,TBS系列(放映局)

村上秀晃ほか(監督),金子次郎ほか(脚本),2005-2006,『ウルトラマンマックス』,TBS系列(放映局)

村石宏實ほか(監督),小林雄次ほか(脚本) ,2006 -2007 (放映期間),『ウルトラマンメビウス』,TBS系列(放映局)

八木毅ほか(監督),小林雄次ほか(脚本),2007,『ULTRASEVEN X』,TBS系列(放映局)

田口清隆ほか(監督),中野貴雄ほか(脚本) ,2016 (放映期間),『ウルトラマンオーブ』,テレビ東京系列(放映局)

田口清隆ほか(監督),吹原幸太ほか(脚本),2020,『ウルトラマンZ』,テレビ東京系列(放映局)

 

特撮オリジナルビデオ

 

神澤信一ほか(監督),武上純希ほか(脚本),1998 -2002(発売日),『ウルトラセブン』,VAP(発売元)

横山誠(監督),小林雄次(脚本),2009(発売期間),『ウルトラマンメビウス外伝 ゴーストリバース』,バンダイナムコアーツ(発売元)

 

ネットオリジナル特撮

小中和哉ほか(監督),小林弘利ほか(脚本) ,2016 -2017 (配信期間),『ウルトラマンオーブ THE ORIGIN SAGA』,アマゾンプライムオリジナル(配信元)

 

特撮映画

 

小中和哉(監督),長谷川圭一(脚本),2006,『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』,松竹(配給)

 

 

 

小説

朱川湊人,2013,『ウルトラマンメビウス アンデレスホリゾント』,光文社

クラーク,2007,『幼年期の終わり』,光文社古典新訳文庫

 

 

 

参考文献

 

那須耕介(編著),橋本努(編著),2020,『ナッジ!? 自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム』,勁草書房
沢登俊雄,1997,『現代社会とパターナリズム』,ゆみる出版

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