記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

アドラー心理学の功罪として、社会的な原因や法律との相互補完の欠如の観点を探る


https://note.com/meta13c/n/n7575b6c0826b

この記事の注意点などを記しました。

ご指摘があれば、
@hg1543io5
のツイッターのアカウントでも、よろしくお願いします。
https://twitter.com/search?lang=ja&q=hg1543io5

注意

これらの重要な情報を明かします。



特撮テレビドラマ

『ウルトラマンティガ』
『ウルトラマンダイナ』
『ウルトラマンコスモス』
『ウルトラマンネクサス』

特撮映画

『ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY』
『ULTRAMAN』(2004)

テレビドラマ

『ケータイ捜査官7』

映画

『プラチナデータ』

テレビアニメ

『NARUTO』
『NARUTO 疾風伝』

漫画

『NARUTO』
『マンガで分かる心療内科』
『マンガで分かる心療内科 アドラー心理学編』
『左ききのエレン』(少年ジャンププラス版)
『PLUTO』

小説

『プラチナデータ』
『絶対製造工場』

はじめに

 近年、自己啓発について、アドラー心理学、個人心理学が話題になっているようです。
 その内容に私は、最初は説得力を感じましたが、途中からおぼろげな違和感を覚え、それを言い表すのにきわめて長い時間がかかりました。
 そして、その答えを『NARUTO』のうちはオビトや『プラチナデータ』の主人公、ウルトラシリーズの「不幸」などを踏まえて記します。
 一言でまとめますと、アドラー心理学は社会の原因、特に法律的な背景と個人の目的の相互補完の視点が足りないのが功罪を生み出していると推測します。

アドラー心理学について

 まず、アドラー心理学は、心理学者のアルフレッド・アドラーがまとめた「個人心理学」と呼ばれるもので、アドラーの功績は著作が少なく講演が中心だそうです。
 主に人間の行動に原因よりも目的を重視しています。その主張に私は初め、かなりの説得力を感じていましたが、徐々に疑わしくなりました。というより、「疑えない」こと自体が疑わしいとも言えます。
 アドラーが人間の行動で原因より目的を重視したのは、『マンガで分かる心療内科』などによると、同じ原因でも違う行動をする人間がいる上に、その原因がなくなっても「行動をしたくない」という言い訳のために別の原因を探すため、「何をしたいかしたくないか」の目的の方が重要だとされます。
 また、人間の目的は劣等感の克服だともされます。

ポパーの批判

 これについて、以前私も記しましたが、カール・ポパーは、『推測と反駁』で、アドラーの心理学は、フロイトの「抑圧」と同じく、子供を水に落として殺そうとする男と命懸けでそれを助ける男の両者の行動すら「劣等感」と「抑圧」のそれぞれで説明出来てしまい、いかなる例を持ち出しても理論を再解釈して取り入れてしまい、反証出来ないので科学理論にならないと話しています。
 その「見かけの上の強さ」こそ弱さであり、どのような例でも理論の間違いの証明にならないことが、理論そのものの空疎な部分だとしています。
 ポパーが比べて「反証可能」だと挙げたのは、アインシュタインの相対性理論です。これは、「観測者が動いても光の速さが変わらない」観測事実から、「光が一定速度に見えるように時空が歪む」という特殊相対性理論、推測を立て、これに質量や重力などを導入した一般相対性理論という新たな推測から、「ならば日食のときに太陽の重力で周りの星の位置が歪んで見えるはずだ」という推測が生まれ、それを「実際に歪むのか」という観測事実で「1つ目の事実からの推測が2つ目の事実と合うか合わないか」で、反証出来る余地がありました。
 つまり、アドラー心理学やフロイトの心理学は、事実からの推測が、別の事実と「合わない」可能性もあるならば、「間違えられる」ならば理論として、正しいか間違っているかにかかわらず、少なくとも科学理論にはなり得たのでしょう。

目的の定義や区切り方

 では、何故アドラー心理学が反証出来ないかを考えますと、単に「目的の定義、区切り方が主観的になりやすいから」でしょう。
 やや意地の悪い表現で言えば、人間の目的は「自分が満足したいから」でしかありません。何故ならば、「目的X1」があったとして、そのX1が何であれ、その目的を達成するためには幾つかの行動が必要で、その行動をX2とすれば、いつの間にか「目的X2」が生まれます。その目的の連鎖をたどって壁を1つ1つ越えたいというのが人間の目的の流れです。そして、その壁を越えられないときに「不満」を必ず抱き、その不満を解決したいときに、その不満に他の人間が必ず同じ不満を抱く保証はなく、というより全ての人間は必ずどこかで異なる不満を抱くはずですから、どうしても「自分だけのある段階での不満を解決したい」という目的は生じます。
 「何もしたくない」という人はその目的に向かっていると『マンガで分かる心療内科』で説明していますが、それではあらゆる人間には「目的がないことすら目的がある」という反証不能なことになります。
 「階段を登る」でたとえますと、そのときの人の目的は、「足を動かす」とも「筋肉を活動させる」とも「周期的に体の一部を往復させる」とも言えます。それらの分割の中で、どれが本質とも言えず、階段を登るという「ある意味の全体的な目的」が「自分だけの不満の解決」にならざるを得ません。それは当たり前であり、誰にも反論出来ません。
 問題は、「結局何がしたいのか?」が曖昧になってしまうことです。運動によるダイエットか、登ること自体か、運動を見せることか、などが組み合わさっているのです。

2022年8月11日閲覧



 仏教のたとえで、車はどれかの部品だけが重要なのではなく、組み合わさって初めて「車」だと言われます。デカルトの分割、要素還元と対照的に、「縁起」などの繋がりを仏教では重視します。この区切り方を、アドラー心理学は「目的」という観点から、主観的になり、1つの原因という行動の部品だけでは成り立たないとしても、その原因も含めて行動を成り立たせている繋がりから「原因」を取り除いて、「目的」らしい「目的」のみ重視していると言えます。
 逆に、カントを紹介する漫画で、「全てに原因はあるか。自由意思はあるか」という議論で、自由意思の存在を疑うロボットに、「そんなことはない。今僕はこうして原因なく自由意思で立った」と反論した人間が、「自由意思などあるのかという私の言葉を原因として立ったのではないか」とロボットに返されて恐怖しています。
 物事の区切り方が曖昧なので、説明にならないところがアドラー心理学にはあります。『マンガで分かる心療内科』で、「劣等感から目をそらすと劣等コンプレックスになり、自分の気持ちも人間関係も悪くなる」という理論に、「どうすれば良いのか」と尋ねられて、「行動しかない」と返しています。しかし、そもそも「どう(行動)すれば良いのか」という質問に「行動しかない」では答えになりません。おそらく、アドラーにとって「行動」らしい「行動」を求めているのでしょう。

アドラー心理学と法律や政治

 では、アドラー心理学が軽視している行動の部品とは何か考えますと、おそらく最大のものは、「社会的背景」という原因、特に「法律や権力」です。
 アドラーは元々社会主義の運動もしており、それを途中でやめ、戦争をなくすためには人々の「共同体感覚」が重要だと考えたらしく、「人が怒るのは人を支配したいからだ」といった目的の解釈もあります。
 しかし、アドラーの理論を『マンガで分かる心療内科』で見る限り、「弱者が強者に黙るなら弱者が悪い」というような部分があります。
 たとえば子供を「叱る」母親が電話で話す必要があると途端に怒りを抑え込むように、人間は怒りを自分に都合良く使うという「事実」の指摘には説得力があります。
 水をこぼされたときに、中年男性が若い女性には怒るという描写も、「相手が強そうな、怖そうなら出来るのか」といった気配が感じられ、そこにも説得力があります。
 しかし、「強者の威圧には屈する方が悪いのか、威圧する方が悪いのか」という問題が曖昧になっています。
 『左ききのエレン』では「屈する方が悪い」と自分の威圧を正当化する人間がおり、「生理的に受け付けない」と、論理的に言い返しにくくなる人間がいました。
 何らかの失敗という「原因」があっても、その当事者が弱そうなら怒って強そうなら黙るのは、「自分より弱そうな人間を支配したい」という目的が確かに感じられます。しかしその推測から、アドラー心理学は、「怒りそのものを抑える」という意見や行動にばかり進み、「本当に悪い強者を放任する」結果になっていると考えます。
 たとえば、仮にミスをした店員を、その店をかばう人間が暴力的な態度で威圧した場合、当然威圧した方が悪いはずであり、従う方が「弱者ばかり責める私には怒る資格などなかった」と認めるだけでは足りないはずです。
 そこで重要なのは、いかなる身体的能力や暴力でも、国民ならば政府が強者を縛れる「法律」などの制限です。
 アドラーもユダヤ人であり、当時の政権などに抑圧されたはずであり、それは単なる暴力でなく法律に基づくものだったからこそ議論が難しくなり、その法律という「背景」や「原因」、強者に逆らう議論がアドラーの心理学には足りません。

法律に従いながら変える手続き

 まず、私は人間社会を縛るのが「遺伝子、貨幣、法律、文化」だと考えます。

2022年8月11日閲覧


 経済学者の岩井克人さんが、「人間は遺伝子だけで決まると言う人もいるが、それだけでなく言語、法律、貨幣も重要だ。この3つは遺伝子で説明出来ない」と主張していたのが1つです。
 実際に私は、遺伝子に基づく家族やその前の段階の恋人、貨幣に基づく職場やその前の学校、法律や条例に基づく国や自治体により、人間社会はほとんど左右されていると推測しました。
 さらに、ナショナリズムの定義に、「文化的なネイションの境界を政治的な国家と一致させる」というのがあり、ネイションは言語も重視し、ヨーロッパのナショナリズムでは聖書の活版印刷も国民の統一に重要だったとされるため、言語を宗教などの文化に広げて考えました。
 アドラー心理学では、人間には愛、友人関係、仕事の3つのタスクがあると説明されますが、愛を遺伝子のための家族や恋人と文化、友人関係を文化、仕事を貨幣に置き換えますと、かなり整理されます。しかし、法律の観点が足りないため、政治に物申さない姿勢になっていると私は考えます。
 ここで、以前から政治について私が混乱していたのを、カントの『啓蒙とは何か』の言葉で整理出来たという例を挙げます。
 「好きなだけ議論するが良い、ただし服従せよ」という趣旨の台詞が、優れた君主のものとして『啓蒙とは何か』にあるのです。
 私はこれを、「今の法律には従いなさい、ただし新しい法律を正しい手続きに従い作るための議論は好きにしなさい」という意味だと考えました。
 政治、法律に不満を述べるのを「現在の法律」に逆らう犯罪と区別出来ず、逆に犯罪をしないのを、「未来の法律」を一生変える努力をしないのと区別出来ない人間がいることが、政治の議論を阻んでいるようです。
 アドラー心理学は「過去や他人は変えられないが未来や自分は変えられる」と主張するようですが、自分の家庭関係、遺伝子に関わる愛や友人関係、文化や仕事、貨幣の関係を未来に渡って変えても、過去の人間が決めた現在の法律を変えるための、政治に不満を唱えて国民が政治家を選ぶ民主的な変革を軽んじているようです。おそらく、政治家と国民を「他人同士」、「過去と現在」のように区切って「変えられない」と断定していたのでしょう。「政治に物申すのは適切な行動のうちに入らない」とみなしていた可能性があります。
 ここで、『NARUTO』と『プラチナデータ』が、特に個人の行動を政治的、法律的な、あるいは権力の背景抜きに語れないことを説明します。

うちはオビトとナルトの共通点

 まず『NARUTO』は、忍者同士、特に国の雇う里の忍者同士の殺し合いや復讐の連鎖が続きます。
 しかしうちはオビトとうずまきナルトの共通点と相違点から、目的と原因の相互補完の重要性が分かります。
 うちはオビトはナルトの師匠の1人のカカシの同期であり、戦争中に任務より仲間を助けるのを重視して、仲間の重要性をカカシに説きました。
 しかし、戦争で自分が行方不明になったときに、自分の託した能力の写輪眼でカカシが、仲間のリンを殺す場面を見て、「こんな世界はどうでも良い」と犯罪者になりました。
 生き延びた先祖のマダラに従い、人間を全て強制的に幻で幸福な中に閉じ込めて争いを終わらせる月の眼計画を始め、必要なエネルギーなどを集めるために様々な犯罪を続けました。
 ナルトは木ノ葉隠れの里で、里のパワーバランスのための兵器となるエネルギー体の九尾を体内に封印され、それを知らされず迫害されてきました。
 しかし、似た立場の我愛羅(があら)と異なり殺し合いにまではならず、忍者としてカカシなどに教えられて強くなりながら、人を殺すことを避けるところがあり、オビト=トビに唆された犯罪者の長門に師匠の自来也を殺されても、長門が木ノ葉の忍者に家族を殺されたことなどを考え、「争いの連鎖を止めるためにお前達を殺さない」と決意して、和解しました。
 オビトはそのあとにも、ナルトに、里の忍者のリーダーになりたいなどの目的が共通していたとして、「お前はかつての俺に似ている」と話し、「お前も俺と同じく仲間が死ぬのが辛いなら、月の眼計画に従え」と情緒的になっています。それまで逆らったナルトでも従うなら許す、むしろ従ってほしいともみられました。
 しかし、オビトの議論を見る度に疑問に思ったのは、「何故オビトはナルトと異なり、敵を殺す罪悪感がないのか」ということです。

オビトにある「無力感」とない「罪悪感」

 オビトとナルトには、仲間を救うために実力が足りないことへの悩み、無力感は共通します。
 また、長門にもそれはありました。
 しかし、ナルトが人を殺さないようにするのに対して、オビトは犯罪者になる前の少年期からカカシと共に戦争で敵を殺すことをためらわず、犯罪者になって敵を殺すのは特殊ではないのですが、心を改めてナルトの味方になっても、故郷の木ノ葉隠れやカカシの味方になることばかり考えて、自分を共通の敵として団結したかつての敵の里などに気遣いや謝罪の精神がみられませんでした。最後までナルトやカカシとしか共闘する機会がなかったのですが。
 逆に、犯罪者でいるときも、仲間の鬼鮫を気遣うような様子はありました。
 一方ナルトは長門と和解して、長門もかつては戦災孤児として、忍者として強くなっても忍者同士の争いを仲裁する努力をしていました。その仲間の弥彦は、戦災孤児でありながら、強敵に襲われても、ダンゾウ達に狙われるまで10年近く人を刺さずに済んだという驚くべき実力と優しさでした。
 そういった敵への労り、人を殺すことそのものへの罪悪感が、オビトには犯罪にかかわらずみられないのです。
 オビトや長門やナルトのこの相違点には、「辛い目に遭ったから冷たくなる」という原因論は確かに通用しません。
 しかしそれは、アドラー心理学の目的論から、「オビトは人を殺したいから殺しているだけ」といった論理も通用しません。『NARUTO』にはそのような快楽で動いているらしい忍者もいますが。

「自分と同じ目的を持つ敵に遭遇する原因」

 

 オビトとナルトの最大の差異は、「自分と同じ目的を持つ敵に早く遭遇しなかったから」という原因で説明出来ます。
 ナルトが人を殺すことをためらうのは、まず序盤で教師のイルカに陰で優しくされ、そのイルカを殺そうとしたミズキに「殺すぞ」と威嚇しつつ殴り続けただけで「やり過ぎた」と笑うなど、そもそも殺し合いに慣れていない部分もあります。
 しかし重要なのは、最初の実戦任務で遭遇した敵の白(はく)が、「自分を唯一認めてくれた人のために強くなる」という目的をナルトと共有して互いに認め合い、それでも白はナルトと本気で戦ったためです。ナルトは白の目的を知る前に、サスケを傷付けられて「殺してやる」と言いつつ、知ったあとは大きく迷いました。
 そのため、白がカカシから仲間をかばって死んだあとも泣き、「敵だったけどあいつらは好きだった。おかしいかな」と言っています。
 一方オビトの場合は、戦争で様々な敵の忍者と殺し合うのが当たり前で、その敵の1人がオビトに殺された自分の仲間を「だらしない」と言うなど、オビトと共通する目的や態度のみられなかったため、殺すことをためらわなかったのでしょう。
 また、オビトやカカシが少年で、劇中で対峙した敵は大人だったこと、その場に大人の味方のミナトがおらず、ミナトが逆に若い敵の忍者を殺す場面が直接映らないことで、オビトの「敵を殺す罪悪感」は芽生えにくく描写されていたのです。
 もちろん、オビトは犯罪者になったあとに自分に似た目的を持つナルトに敵として遭遇していますが、ナルトと比べて、年齢的に遅いと言えます。
 長門が忍者同士の争いそのものを止めたいと願うのは、そもそも弱小国の生まれで、勝っても安全になりにくいことや、争う忍者同士のどちらが悪者か曖昧に映ったことなどがあります。たとえば優しい弥彦も長門達と共に、自来也の弟子になろうとしたときに、「あいつがやられたら、殺した忍者の弟子になる」と言っており、特に誰かだけを善悪で区切ってはいなかったようです。
 そのため、長門は忍者全体の争いを止めたい、敵を攻撃するだけにはこだわらない大局的な視点があります。

オビトの一貫性

 なお、オビトはうちは一族の血統や写輪眼を重視する発言が、若い頃も犯罪者の頃もあり、特にマダラの偽物を演じたときに、長門の仲間の小南に「長門に輪廻眼(長門独自と思われた能力)を与えたのは俺だ。お前は何も知らない。うちはの力をなめるなよ、小娘」と言っており、確かに輪廻眼もうちはマダラの写輪眼がもとなので、ある意味「自分は優れた一族だ」という誇りは一貫しています。
 オビトの場合は、最初の敵が子供の自分達を痛めつける大人で仲間すら大事にしないため殺す罪悪感を持てず、犯罪者になったあとも敵をうちは一族としての誇りなどで見下す発言もみられます。

 それは、オビトが大国に属する里の忍であり、個人として「落ちこぼれ」でも本来優秀な一族だった原因が残ります。「うちは一族の優秀さによって世界は平和になるべきであり、それに他の人間は従うべきだ」と考えるのは、パターナルな目的もあります。

 そして「改心」してもかつての「敵の里」と共闘出来なかったため、「里の垣根を越えたナルトなどの優しさ」には最後まで言及出来ませんでした。それがナルトに比べて、「同じ目的を持つ敵に遭遇する原因」のなかったために生じた、やや視野の狭いところです。

『プラチナデータ』の遺伝子と政治と犯罪

 次に、『プラチナデータ』原作の主人公の神楽についてです。彼は複数のDNAを比較して鑑定するのではなく、単独のDNAから人間の身体情報そのものを割り出す研究をして、それを科学捜査に用いようとしました。
 彼は人生がDNAで分かるような発言もしている傲慢さがあり、国民の全てのDNAを管理しようとするのに賛成して「犯罪をしなければ、身内から犯罪者を出さなければ良い」で済ませています。さらに、「国民が許すはずない」と言われても「国民はそもそも政治家のすることに何も出来ない」と笑っていました。「どのような生き方をすればこのようなシニカルな考え方をするのだ」と思われています。
 ちなみに、映画版では、人間の精神までDNAで分析して、犯罪者になりやすいかを数字で表しています。ちなみにそういった刑事ドラマなどによくある、「人を悪く言う分析を楽しんで見下している」ような態度もありました。
 これについては、『NARUTO』のネジがヒナタにしたような分析にも通じます。

2022年8月11日閲覧

2022年8月20日閲覧


経緯の「原因」と一貫した「目的」

 ここで問題にしたいのは、神楽がそうなった劇中の「経緯」が、実は説明になり切れていないことです。
 神楽は陶芸家の父親のコンピューターによる「今までにない新作を予想した贋作」が(映画版では息子の自分に)見抜かれなかったことで父親が苦しんだことから、人間を科学的に分析しようとしたため、DNAにこだわったようです。
 ここには、「辛い目に遭ったから冷たくなる」というオビトのような構図がありますが、実はオビトのような疑問もあります。
 「そもそも神楽が人を見下すのは元からではないか」ということです。
 

『プラチナデータ』の神楽の主張する遺伝子に当てはまらない法律と貨幣と文化

 神楽は「政治家がどのような法律を作っても、国民は逆らえない」というような主張をしており、法律を変える国民の努力、『啓蒙とは何か』の「議論」を全く考えていない浅はかな傲慢さがあります。
 そもそも、犯罪と民主的な法律変更の手続きの区別が出来ていない視野の狭さがあります。彼は自分の遺伝子と仕事のことばかり考えて、自分の国の法律そのものの議論が深く出来ないのでしょう。宗教などの文化もそうですが。
 さらに言えば、「政治家がどのような法律を作っても止められない」ならば、犯罪の定義そのものが政治家により変化してしまうにもかかわらず、政治家に操作出来ないはずの遺伝子で犯罪の傾向が決まるという理論が矛盾しています。
 アメリカでDNAの管理が進まないのが人種の問題もあるといった議論も劇中で少ししかなく、神楽を含めた「日本の科学者」は、遺伝子の管理が法律や貨幣や文化の流れまで覆せると浅はかにみなしている様子があります。岩井克人さんの議論が重要です。
 仮にDNAの管理が、日本に法律で影響を及ぼすアメリカからの圧力や貨幣と遺伝子の関係、ユダヤ人やムスリムの宗教的な階層と遺伝子の関係などになれば、神楽でも太刀打ち出来ない強者と対立することになる危険が見えていません。
 DNA分析にせよ、占いにせよ、権力者とその敵が突然繋げられてしまう危険性があり、それで科学や理論が権力に逆らう可能性があることに神楽は気付いていません。
 結局のところ、日本では法律で繋がる「国民」の中で、言語や文化や遺伝子や貨幣の違いが見えにくいために、社会的背景を無視した遺伝子のひとくくりをしやすいのでしょう。

神楽の浅はかな視点

 神楽の関係者で、「反対運動が実を結んだ例はどれだけあります?無駄なことに力を費やしたくありません」と言ったやや穏やかな人間もいますが、神楽は過激さがかえって浅はかです。
 神楽を笑い飛ばす犯罪者が「人の心は化学反応と電気信号だけだ。遺伝子などお呼びではない」とも言っていますが、それも原因の区切り方を都合良く解釈しているに過ぎません。階段を登るのを、「足で登る」、「階段に力をかける反作用で登る」、「脳による運動の繰り返しで登る」など、動作を適当に区切って、それだけが重要だと言っているようなものです。あるいは、車は車輪で走るのか、燃料で走るのか、を議論するようなものです。または、眼で見えるものの全てが、眼を解剖したり光の性質を知ったりするだけで分かると考えるようなものです。それらの「人間の行動」を「遺伝子」や「脳」という部品で説明しているのであり、彼等に足りないのは論理学や哲学です。
 カレル・チャペックの『絶対製造工場』には、「誰もが無限の神の有限の一部しか見えず、みな他人が同じ神の異なる一部しか見えないのが許せないのではないか」という趣旨の台詞があります。一見宗教を信じていないような『プラチナデータ』の科学者も、神のように追い求める「人間の行動」の異なる一部である「脳」や「遺伝子」だけを重視していたのでしょう。

 ある意味で、刑事ドラマなどには、「人間心理」さえ分析すれば全ての人間を黙らせられるとみなし、それを神のように追い求める宗教のような考えに囚われている人間が多いかもしれません。

「優秀さで支配したい目的」と「優秀さの混乱する原因」

 神楽の場合は、「親が優秀で、優秀な人間としてそうでない人間を支配したいという目的があったから」という原因で説明できます。陶芸家として優秀だったはずの父親がコンピューターに負けたのでは自分も優秀でなくなり、人を支配出来なくなる、ならばさらなる優秀さとして、人間をコンピューターで分析する手がかりとして遺伝子が重要だ、それさえあれば人を支配出来ると思い込んだのでしょう。

「管理する側のされる別の管理」

 実際に重要なのは、優秀でも人を支配してはならない領域があるという認識です。法律で言えば、法律を決める政治家でも、国民の権利を守る憲法などに逆に縛られるという政治の常識が足りません。
 「優秀な」政治家の決める法律と、「優秀な」自分の調べる遺伝子が、そもそも一致しない可能性にも気付いていません。
 神楽に「私は管理に反対するのではなく管理する側になり責任を取りたい。自分も管理されるのは分かっているけれど」と言った人間もいますが、ルールで管理する側はさらに厳しく別のルールで管理される常識が足りていません。
 『ケータイ捜査官7』で、高性能なAIを持つ携帯電話ロボットで密かにネットを管理しようとする組織の伊達が、「車を運転するのには免許が要る。危険だからだ。ネットも同じだ」と主張していました。しかし、その免許を与える側にはさらに別の厳しい資格が必要です。計算問題を作るには、解くのと別の優秀さが必要なようにです。事実としてその管理者の間明(マギラ)がロボットを暴走させて、自分を含む「人類を滅ぼす」という計画を進めました。
 伊達は「我々がロボットをそうさせるつもりがなければ暴走はしない」、「これだけのAIが繋がれば(暴走すれば)どうなるか(人類を滅ぼすと)分かっているはずだ」とマギラに話しています。その「我々」にもさらに厳しい資格が必要だったことを分かっていなかったのです。
 結局のところ、『プラチナデータ』も管理する側が管理するに値しない行いを独断でしていました。
 管理する側をさらに縛るのが、法律に対する憲法であり、そういった法律の複雑さへの理解が、『プラチナデータ』の神楽には欠けています。
 そのため、神楽はいかに自分が優秀でも国民の人権などを守る憲法に自分が縛られなければならない政治の常識を分かっていなかったのです。

『NARUTO』と『プラチナデータ』の政治的原因

 オビトは「自分と同じ目的を持ちながら戦わざるを得ない敵がいる」という、ある意味で法律的な原因に直面しなかった原因があり、『プラチナデータ』の神楽は「優秀な父親が人より優位に立てなかったことから、さらに優秀になりたいという目的を持つが、そもそも優秀さで解決出来ない政治的原因に気付かない」原因があったと言えます。
 目的だけでも原因だけでも説明出来ない、オビトや神楽の「変化」の前から「変わらない」本質が、人間の常識として残っていると私は考えます。
 そのためには、法律、貨幣、遺伝子、文化などの原因と目的の相互補完を重視します。

ウルトラシリーズの「辛さ」と「冷たさ」

 
 また、ウルトラシリーズで、時々強硬的な行いをする防衛組織の人間がいますが、『ウルトラマンコスモス』のナガレや『ウルトラマンダイナ』のサエキレイカや『ウルトラマンネクサス』の松永などは、「家族を怪獣に殺されたから」というのが「原因」として挙げられています。
 しかし、それだけではあまりに短絡的な主張です。
 『ウルトラマンティガ』では、人間の悪意ない電磁波で、共食いの性質のあるクリッターが怪獣「ガゾート」に変化して人間を「友達」とみなしても共食いすることになったのに対して、恋人が犠牲になったマユミは人間の科学技術、特に武装に原因を求めて「人間が武器を捨てれば神様も怪獣を出さなくなる」と主張して、恩師を殺されたホリイは「電磁波をやめられないからクリッターを殺すべきだ」と解釈しています。結局、数珠のような原因のどこで区切るかがずれていて、同じような結果を受けた原因では差異を説明出来ません。
 しかしそれは、元々ホリイが戦いやすいこと、恩師も含めて科学者であること、マユミは医療をしていること、恋人が戦う職業でないことなどの原因も考え合わせるべきであり、目的だけでは説明出来ないでしょう。

家族を「怪獣に殺される」のと「人間に殺される」差異や「怪獣同士の争い」が見えていない

 『コスモス』のナガレも、怪獣に家族を殺されたから怪獣を殺すというのは短絡的です。仮に人間に家族を殺されれば、彼は人類を滅ぼすのか、とも言えます。
 ちなみにナガレの所属する防衛軍の別の人間は、宇宙人を「領空侵犯」として責めたこともあり、日本だけを守る組織ならば外国人を殺す可能性もあります。仮にナガレが防衛軍と対立する外国の軍に仲間を殺されたとしても、その国全体を恨むのか、人類全体が悪いと考えるのかは微妙であり、少なくとも「怪獣全体」と「人類全体」を並列には考えないでしょう。
 ナガレはムサシに指摘された通り「怪獣を全てひとくくりにしている」と言えますが、劇中でムサシが守る怪獣が人を殺していないとは言い切れず、ムサシの指摘もあまり答えになりません。
 重要なのは、身内を殺した相手の仲間を全て殺して良いのか、どこからどこまでが仲間なのか、ということです。そもそもリドリアスとゴルメデなど、怪獣同士でも争いますし。ナガレが家族を殺した怪獣と別の種類の怪獣を殺すのは、アメリカの兵器で殺された宇宙人が中国を攻撃するほど短絡的、かつ主観的には「同じこと」かもしれません。自分から遠いものや人同士は近くに見える現象は様々なところにあります。
 『ウルトラマンネクサス』のスペースビーストは特に『コスモス』の主張との相性が悪いかもしれませんが、ビーストは一匹が人間を食べれば他のビーストにその情報を伝えるらしく、ビースト同士で団結する気配も強いので、これはひとくくりにしても差し支えないかもしれません。『コスモス』のカオスヘッダーも、ビーストとは別の枠で「全体が一つ」とくくれるかもしれませんが。

「身内の不幸」で嫉妬する優しさと浅はかさ

 『ウルトラマンダイナ』のサエキレイカは、前日談の『THE FINAL ODYSSEY』で、ウルトラマンティガの系統の能力を兵器にしようとした兄がその暴走で死んだことをきっかけに、「家族を怪獣に殺されたから、ウルトラマンの能力を人間が手に入れられればと思った」と主張しています。
 しかし、その行動がウルトラマンダイナのエネルギーを変身するアスカシンから奪い人造ウルトラマンに与えることであり、ある意味「兄の失敗から学習していない」とも言えます。
 ただし、ティガに変身するダイゴが、本物のティガにすらティガダークとして暴走する気配があったことを伝えていないのもどうか、と思いますが。
 サエキレイカの主張を見ますと、人造ウルトラマンのテラノイドが敵に乗っ取られて部下を殺したのに憤り、理論上有り得ないはずがダイナに変身して人造ウルトラマンを倒して行方不明のアスカを「きっと生きている」と言ったアスカの仲間に「何故そう言い切れる!」と叫んでいます。アスカの死んだ同期のフドウの弟も似たような嫉妬をアスカに話しています。
 つまるところ、『ダイナ』は主人公とその周りだけが失敗しても死なない、そうでない「強硬派」のような外部の組織や上官のゴンドウばかりが失敗し続けることを「何故お前ばかり」と嫉妬する部分があります。
 ちなみに、『NARUTO』のナルトは嫉妬する側にもされる側にもなっています。
 レイカの真意は、「何故兄や部下は失敗して死ぬのにアスカは死なずに変身出来るんだ」という差異への怒りと、「その強運や能力を奪い取りたい」という嫉妬だったとみられます。
 その事実としての差異の原因は、私には分かりません。ただ言えるのは、アスカも「何で俺がウルトラマンなんだよ」と、それに苦しむことはあるということです。
 そもそも、結果だけ見ればレイカも「生き残る側」であり、彼女は自分の結果を「身内の不幸の一部」と区切っていたかもしれませんが、むしろ兄や部下からみれば幸運のうちとさえ言えるかもしれません。レイカが兄や部下の死を「自分も不幸だ」と捉えるのは、優しさと浅はかさの両者があります。
 問題はやはり、原因の区切り方です。

優秀なウルトラマンを幸運とみなすか不幸とみなすか

 『ウルトラマンネクサス』の松永も、ウルトラマンに変身する人間を人体実験にかけるなどの非情なところがありますが、そのとき心停止すると医師から器具を取り上げてわざわざ自分が処置するなど、感情的なところもあります。
 逆に松永は人口の少ない温泉町を切り捨てる吉良沢に不満を言っており、「優秀な人間はそうでない人間のために努力しなければならない」という善意がみられます。
 松永の妻は前日談の映画『ULTRAMAN』で空自衛隊員の真木が変身したウルトラマンとビーストの戦いで死んでいます。しかし真木は元々戦うより飛ぶことを重視する「夢」があったらしく、ビーストの戦いの最中でも、子供との約束もあったのか、「この感覚だ」と飛ぶのに陶酔するような部分がありました。そのため高く飛び過ぎて、戦うビーストのエネルギー弾が広範囲を焼き払った面があり、松永の妻はそれに巻き込まれたかもしれません。
 松永が劇中でそのウルトラマンに言及したこともあり、仮に真木の素性を知っていれば、「家族のために、夢のために飛んだ優秀な人間のウルトラマンのせいで、そうではない大勢の人間が死んだ」と考えた可能性があります。
 松永は自分自身も上層部に逆らえば追放されて記憶を消されると自覚しており、自分を優秀だとみなしていたかは分かりませんが、少なくとも優秀な人間やウルトラマンには周りに尽くしてほしかったのでしょう。
 逆に元々優秀であるように育てられた吉良沢は、「優秀な人間は恵まれているとしても、その分縛られているからこれ以上縛らないでほしい」と考えている様子があり、友人の憐がウルトラマンになったときに、聞こえるのか、部下に聞こえて困らないのか曖昧な状況で「逃げろ」と言う感情的な部分があり、松永とは対をなしています。
 それぞれ、「辛い目に遭ったから冷たい」という単純なものではなく、「優秀さ」、「周りに尽くす」、「縛られる」といった視点での目的や原因の解釈が重要です。

家族を殺した「人間」をかばう「人類社会」が許せない「原因」と法律の関係

 ちなみに、『PLUTO』では、(ロボットの養子を含む)家族を人間に殺されたので人類を滅ぼそうとする人間(の意思を持つロボット)がいましたが、彼には原因の複雑さがあります。
 彼は元々人間全体を恨んでいたのではなく、人間社会で大きな権力を握る「トラキア合衆国」が「ペルシア王国」の自分達を空爆して、その責任を国際社会が取らせず、逆に生き残った自分達の国民を悪人扱いし続けたことへの恨みがありました。
 つまり、法律などの政治の背景があります。
 『怪獣使いと少年』には、沖縄の問題も含めて、家族を人間に殺された科学者が人類を滅ぼそうとする『ニライカナイ・ストーリー』が紹介されています。私はこれを直接読めてはいないのですが、これも家族を殺した人間がおそらく沖縄などの政治的な背景を含み、社会の権力で守られていることへの怒りを含んでいたのでしょう。
 同じ原因でも異なる行動をするのは、原因論だけの問題ではなく、原因のどこからどこまでが同じでどこから違うか、その「ところ」の区切り方、そして原因を支える目的などの常識の区切り方も重要だと結論付けました。

まとめ

 アドラー心理学は、『NARUTO』、『プラチナデータ』、ウルトラシリーズなどで、「辛い目に遭ったから冷たくなる」というのと照らし合わせて、強者を縛る法律や貨幣や文化や遺伝子などの社会的背景を、原因と目的をそれぞれ区切って相互補完させる発想に欠けていると考えました。しかしその穴を補うことで、より視野が広がるかもしれません。

参考にした物語

特撮テレビドラマ

村石宏實ほか(監督),長谷川圭一(脚本),1996 -1997,『ウルトラマンティガ』,TBS系列(放映局)
村石宏實ほか(監督),川上英幸ほか(脚本),1997 -1998(放映期間),『ウルトラマンダイナ』,TBS系列(放映局)

大西信介ほか(監督),根元実樹ほか(脚本) ,2001 -2002(放映期間),『ウルトラマンコスモス』,TBS系列(放映局)
小中和哉ほか(監督),長谷川圭一ほか(脚本),2004 -2005,『ウルトラマンネクサス』,TBS系列(放映局)

特撮映画

村石宏實(監督),長谷川圭一(脚本),2000,『ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY』,ソニー・ピクチャーズエンタテイメント(配給)
小中和哉(監督),長谷川圭一(脚本),2004,『ULTRAMAN』,松竹(配給)

テレビドラマ

三池祟史ほか(監督),冨岡淳広(脚本),2008-2009,『ケータイ捜査官7』,テレビ東京系列(放映局)

漫画

岸本斉史,1999-2015,(発行期間),『NARUTO』,集英社(出版社)

テレビアニメ

伊達勇登(監督),大和屋暁ほか(脚本),岸本斉史(原作),2002-2007(放映期間),『NARUTO』,テレビ東京系列(放映局)
伊達勇登ほか(監督),吉田伸ほか(脚本),岸本斉史(原作),2007-2017(放映期間),『NARUTO疾風伝』,テレビ東京系列(放映局)

漫画

ゆうきゆう(原作),ソウ(作画),2014(発行),『マンガで分かる心療内科 アドラー心理学編』,少年画報社(出版社)
ゆうきゆう(原作),ソウ(作画),2010-(発行期間,未完),『マンガで分かる心療内科』,少年画報社(出版社)
かっぴー(原作),nifuni(漫画),2017-(未完),『左ききのエレン』,集英社
浦沢直樹×手塚治虫(作),2004-2009(発行期間),『PLUTO』,小学館(出版社)

小説

東野圭吾,2010,『プラチナデータ』,幻冬舎
カレル・チャペック/著,飯島周/訳,2010,『絶対製造工場』,平凡社ライブラリー

実写映画

東野圭吾(原作),大友啓史(監督),浜田秀哉(脚本)2013年3月16日(公開日),『プラチナデータ』,東宝(配給)

 

参考文献

カール・R・ポパー(著),藤本隆志,石垣壽郎,森博(訳),1980(初版第1刷),1997(8刷),『推測と反駁』,法政大学出版局
黒崎政男,2000,『カント『純粋理性批判』入門』,講談社選書メチエ
カント/原作,佐藤文香/著,近藤たかし/まんが,2020,『まんが 純粋理性批判』,講談社
カント/著,中山元/訳,2010,『純粋理性批判 1』,光文社
デカルト(著),谷川多佳子(訳),1997,『方法序説』,岩波文庫
小林道夫,2006,『デカルト入門』,ちくま新書
金岡秀友/校註,2001,『般若心経』,講談社学術文庫
岩井克人,1998,『貨幣論』,ちくま学芸文庫
切通理作,2000,『怪獣使いと少年』,宝島社文庫
春香クリスティーン,2015,『ナショナリズムをとことん考えてみたら』,PHP新書
鈴木貞美,2009,『自由の壁』,集英社新書
萱野稔人,2011,『ナショナリズムは悪なのか 新・現代思想講義』,NHK出版新書
大澤真幸(編),2009,『ナショナリズム論・入門』,有斐閣アルマ
カント/著,中山元/訳,2006,『永遠平和のために 他3編 啓蒙とは何か』,光文社古典新訳文庫
岩井克人,2014,『資本主義から市民主義へ』,筑摩書房
岸見一郎,1999,『アドラー心理学入門』,ベストセラーズ
高崎直道,1992,『唯識入門』,春秋社
中村圭志,2016,『教養としての仏教入門』,幻冬舎新書
デール・S/ライト/著,佐々木閑/監修,関根光宏/訳,杉田真/訳,2021,『エッセンシャル仏教』,みすず書房
中村元,2003,『現代語訳 大乗仏典1』,東京書籍

  

 

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?