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「分からない」と「分かろうとしない」の違いは、「どこを」と具体化すると、「分かってほしくないところ」もあるので、「分かろうとしろ」というのは「今の自分と同じ人間になれ」というほど難しい


 

 

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注意

 

特撮テレビドラマ

『ウルトラマンガイア』

『ウルトラマンコスモス』

『ウルトラマンネクサス』

『ウルトラマンメビウス』

『ウルトラマンギンガS』

 

特撮映画

『ウルトラマンサーガ』

『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』

 

漫画

『地球へ…』

『築地魚河岸三代目』

『銀魂』

『PLUTO』

『ドラゴンボール超』

『鋼の錬金術師』

 

 

 

テレビアニメ

『新世紀エヴァンゲリオン』

『銀魂』

『ドラゴンボール超』

 

アニメ映画

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』

『ドラゴンボール超 ブロリー』

 

 

 

テレビドラマ

『A LIFE 愛しき人』

『半沢直樹』

『下町ロケット』(TBS)

『スクール!!』

『コントロール』

 

小説

『ソリトンの悪魔』

『心臓狩り』

『黒い仏』

『ウルトラマンF』

『ウルトラマンデュアル』

 

 

これらの重要な情報を明かします。特に、『ソリトンの悪魔』にご注意ください。『黒い仏』は序盤のみです。

 

 

 

 

 

 

はじめに

 「相手の気持ちを分かれ」という言葉に、私は様々な疑問を抱き、幾つかの記事を記しました。今回は、「分からないなりに分かろうとしろ」という言葉の曖昧さが生む「苦しみ」を検証します。この「苦しみ」とは、私の主観ばかりではなく、仏教の概念なども踏まえています。

 

 

 

 

2022年8月3日閲覧

 

 

 

完全には観測出来ない「気持ち」

 

 まず、人の「気持ち」とは、無限に入れ子のように分割されると考えています。

 トルストイの『少年時代』に、主人公の少年が「誰もしていないような大発見」をしたように舞い上がる経験を描くこともあり、その中で、「自分は何を考えているか、を考える」という連鎖がありました。

 量子論では、物体を観測するときに、位置と速度を同時に絞り込めない不確定性原理があります。『ソリトンの悪魔』では、人間の科学技術で未知の「生命体」が狂暴化して事故を起こした可能性が示唆されましたが、そもそも検証する度に事故を繰り返す可能性があり、不確定性原理のように「観測出来ない」ものでした。

 人の「気持ち」の中には、観測したり表現したりするだけで変化してしまうところもあり、その意味で、まず「真の気持ち」を知ることは出来ないとも言えます。量子論は主体と客体の2つを統合した東洋哲学に近いものがあり、それまで西洋哲学をもとにしてきた自然科学とは異質だともされます。

 たとえば、『地球の歴史 下』によれば、地球科学も、様々な理論に例外があり、検証が難しいとされます。経済学も実験出来ないと、『希望の資本論』で池上彰さんと佐藤優さんは話しています。どちらも、観測する人間自身がされる環境や経済社会の一部である以上、完全に客観的になれないのでしょう。

 ずるい理屈かもしれませんが、どのように視力が良くても、眼球の網膜の裏は視えません。どのような名刀もその刀身自体は斬れないでしょう。「心からの言葉」を言えても、その瞬間新しい感情が発生します。

これらのパラドキシカルな論理は、「観測する自分自身」だけを主体としてされる側、仮に自分自身の何かであっても特別扱いして客観視するのに限界があることを示します。「私は嘘しかつかない」などの自己言及のパラドックスに近いでしょうか。

 『新世紀エヴァンゲリオン』テレビアニメ版では、「相手の気持ちを完全に分かることは出来ない、自分だって怪しい」と加持が話していますが、眼球や名刀のパラドキシカルな現象を考えますと、「自分にだけ分からない気持ち」、「自分にしか分からない気持ち」もあるのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

「分からない」果てしない苦しみ

 

 

 仏教では、「四諦」という4種類の苦しみを重視し、その2番目の「集諦(じったい)」を私はここで挙げます。これは、「1つの苦しみを解決しても別の苦しみが感じられる」、苦しみの集まる性質のようです。

 『銀魂』で、キャラクターの人気投票の順位を巡り争うとき、どれほど高くてもその上を目指し、1位の主人公の銀時でさえ身内に首位を独占させるため外部の人間を蹴落とそうとし、8位を「踏み台ナンバーワン」と満足していながらそれに巻き込まれた新八は「どこまで人間は欲深いんだ」と呆れました。しかし、これは身内を助ける優しさ、あるいは望まない身内すら強制的に引き上げるパターナリズムとも言えますから、そのような果てしない欲望が誰かの役に立つと解釈する人間もいるかもしれません。

 「人の気持ち」を「分からない苦しみ」も、「一つ分かればさらに分からないことが増える」ので、集諦に近いと言えます。

 私は仏教と対照的と言われるデカルトの哲学の「確定したことだけで不確定なことを考える」という論理や、ユークリッド幾何学の「ロバの橋」の順番も踏まえて、「理解する、説明するというのは、知っていることだけで知らないことを組み立てること」だと解釈しています。その意味で、1つのことが「分かった」状態とは右足を上げることにたとえるなら、それでさらに分からないことが見つかり、「分からない」状態、左足を上げたときに戻り、「分かり続ける」のが、階段を上がり続けることに繋がるのかもしれません。

 『黒い仏』の序盤では、ある唐からの留学僧が、「長い留学で、仏の教えには限りがないと分かった。仏の教えをさらに知りたいと願うことこそ人間の最大の煩悩かもしれない」と苦笑していました。

池上彰さんも『これからの日本、経済より大切なこと』で、ダライ・ラマ法王に説明された「知足」の精神を取り上げたとき、「足るを知る、を知るためにもっと勉強しようと思います、と言えばダライ・ラマに笑われるかもしれませんが」と言っています。

このように、欲を捨てたいという欲望があるといったパラドキシカルな現象から、「分かる」ところに無限に「分からない」ところが加わるのが、「人の気持ち」に関わる「集諦」かもしれません。

 

「無限」の「苦しみ」が「分からない」に対応する

 

 「無限集合」の数学的な定義は、たとえば自然数の一部であるはずの平方数が、必ず「1と1、2と4、3と9」と1対1対応するように、「一部が全体に1対1対応する」集合だそうです。

 ある意味で、「気持ちを分かる」とは、自分にとって些細なこと、全体にとって取るに足らないように思える一部が相手には全体と同じ値打ちがあるかのように対応するというパラドキシカルな価値観のずれがある限り、永遠に不可能なのかもしれません。

 「気持ちを分かろうとする」のがアキレスなら、「気持ち」を表すのが亀の位置であり、ある位置に到達しても、言い当てても、そのときには新しい位置に必ず動いているのを繰り返し、それが不確定性原理の「観測される対象の変化」や「平方数が自然数に対応する」のような無限に追いかける現象を生み出すのかもしれません。

 つまり、「分かろうとする」基準に相手が満足するのは永遠に不可能なのかもしれません。アキレスと亀のようにです。

 

「分かってほしくないところ」があることに気付く「ところ」の分割

 

 

 さらに、「これが分かっているのに何故他のこの部分が分からないのか」という新しい苦しみすら生まれることがあります。それは、「分かってほしくないところ」があるためでもあると考えます。

 さらに、仏教の哲学も踏まえて、私は「ひと」や「もの」という区切り方より、「ところ」と「こと」という区切り方を重視すべきだと考えたことがあります。

 仏教のたとえでしばしば言われるのは、車は車輪や箱の部分などのどれかだけが車の肝心な部分ではなく、全体が合わさっていて初めて「車」なのだということです。

 般若心経の「色即是空空即是色」では、ものは何もない「空(くう)」から生まれ、様々な特徴である「色(しき)」の集まりだという解釈になるそうです。

 そう考えますと、人や物も「ところ」の集まりで、それらが組み合わさる「こと」で成り立つとすれば、論理を整理しやすくなると考えます。

 『A LIFE』では、病院の副院長や弁護士という強者が、患者や看護師などの弱者を切り捨てて主人公の医師や院長やその娘(副院長の妻)の小児科医と対立しているような構図でしたが、その副院長や弁護士も子供の頃の、弱かった頃の苦しみを引きずっていること、小児科医や主人公でさえ別の弱者を守るつもりで看護師を苦しめてしまうこと、弱者の味方のつもりだった院長も副院長にとってはかつて自分を苦しめた実の父親と同じ台詞で苦しめる義理の父親、強者になっていたことなどが事態を複雑にします。

 それらの是非は複雑ですが、結局この物語は「強者対弱者」ではなく、それぞれの人物の「強いところ」と「弱いところ」の衝突だったと考えれば、分かりやすくなります。

 それらの「ところ」の分割が難しいため、たとえば主人公の沖田に共感することの多い若い井川に、別の医師が「井川先生は沖田派でしょう?」と言うなど、「弱者の味方のつもりのあなた達もまとまれば強者になる。そう認めて強者らしく振る舞ってほしい」という姿勢がみられます。自分達にも相手にも弱いところがある、と認めたくないために、相手の集まりにも強者としてまとまってほしかったのでしょう。それは、「強いところ」、「弱いところ」の分割が煩わしく、「強い人」という分類の方が登場人物にとって楽だという認識に囚われているためだと私は考えます。

 

 

「何も分かっていない」は「肝心なところを」という意味である

 

 「人の気持ち」という話題に戻しますと、「気持ち」にも「ところ」があり、「分かるところ」と「分からないところ」は必ずあります。「人の気持ち」を分かろうとするときは、「分かるところ」と「分からないところ」と「そのどちらを重視して、分かってもらえたか判断するところ」の3種類に分割されます。

 そして、「何も分かっていない」という言葉の定義も、「ところ」で説明出来ます。さらに、これまでの記事で取り上げた「気持ちを分からない」例の多くに当てはまります。

 まず、人物aが人物bのことを「何も分かっていない」と、b自身であってもなくても表現されたときに、文字通り「何も分からない」ことは有り得ません。

 少なくともbの存在は分かるはずですし、行方不明の人間の「気持ち」を推し量るのでもない限り、生死ぐらいは分かるでしょう。そのようにゼロから考え直せば、「分かるところ」は予想外に多くあります。しかし、重要なのは、「bはそれ以外のところを分かってほしい、肝心なところをaは分かっていない」ということなのでしょう。

 つまり、「何も分かっていない」は正確には「肝心なところを何も分かっていない」という意味なのです。そして、「何が肝心か」は本人にしか決められないところもあります。

 

 

 

「あなたは何も分かっていない」と言いつつ誉めるに値するのは、「分かってほしくないところ」があるから

 

 

 『鉄腕アトム』をリメイクした『PLUTO』では、「完璧なロボットは人間と同じく間違える。怒りや憎しみこそがロボットを育てる」と主張する天馬博士が、後任のお茶の水博士に「あなたは人工知能に関して何も分かっていない」と言っています。天馬は死んだ息子の代わりとして製造したアトムが、子供として模範的過ぎたことに煩わしく感じていたようです。そうして捨てられたアトムを引き取って、妹のウランなどの家族を与えたのはお茶の水でした。

 しかし、そのように主張する人物として珍しく天馬は、損傷したアトムをお茶の水が修繕しようとして目覚めなかったときに「見事な施術だ」、「何の問題もない」と話しています。

 アトムが目覚めなかったのは、かつて天馬の製造したロボットが複雑過ぎて目覚めなかったように、強い憎しみなどの偏りが必要だったと天馬は説明しています。お茶の水がそれに気付けなかったのは、ロボット兵団をお茶の水と天馬がそれぞれ「血を流したくない、ロボットでも」、「兵団ごときに私の人工知能は必要ない。私の人工知能はもっと気高く完全なものになるはずだ」と言うなど、反対する方向性が異なっていることにおそらく関わります。おそらく天馬は「お茶の水博士に比べて私は不道徳だが、だからこそロボットを発展させられる。憎しみをロボットに与えるように」とみなしていたのでしょう。お茶の水の「天馬博士、あなたは間違っている」という批判に、天馬は「間違う頭脳こそ完璧なのだ」と返していますから。

 そして、自分の不道徳なところを、天馬はアトムやお茶の水の生み出したウランに言い辛そうにしている様子もありました。

 つまり、「何も分かっていない」というのは、「分かってほしいところと分かってほしくないところがあり、後者の詳しい説明をしたくない」とも考えられます。

 

「顔色を伺うのを止めた」からこそ分かったこと

 

 

 『半沢直樹』で、実質的に左遷された銀行員が途中から「顔色を伺うのを辞めた」と言っていましたが、それによりかえって、伺っていた相手と口論してでも腹を割って話せたところもありました。「顔色を伺う」だけでは分からない「気持ち」、「ところ」もあるのでしょう。しかしそれで口論になったとき、相手に「(左遷されたあんただけでなく)俺は柱に打ち付けられた釘だよ!」と彼なりの苦しみも言わせており、それは「分かってほしくないと思っていたが、言ってみたら予想外に気の晴れることもあった」ところだったと言えます。

 

 

「心をのぞくな」という心

 

 

 そもそも、大抵の人間には「分かってほしくない」ところもあるはずです。そして文字通り「何も分かってほしくない」ことは有り得ません。仮にそうならば伝える意味すらありませんし、「私は嘘しかつかない」にも似たパラドックスになります。

 たとえば、『ウルトラマンガイア』のメザードや『ウルトラマンコスモス』のカオスヘッダーは、特定の目的のために人間の「頭の中」をのぞきましたが、された人間は目的を問わず、それに不快なものを感じていたようです。

 『ウルトラマンサーガ』のウルトラマンゼロは、自分を含むウルトラマンに不快感を示すタイガノゾムと一体化して後悔しましたが、その原因をあえて無理には尋ねず、ノゾムの自我を尊重していたのが、メザードやカオスヘッダーとは異なります。ただし、人間と一体化する全てのウルトラマンがそうしているとは限りませんが。

 カオスヘッダーも、人間やウルトラマンを憎みつつ、彼なりの平和を強制する善意があり、最終的に人間の「争いを憎む心」などまで理解して和解しました。しかし、それは人間の本来「分かってほしくないところ」まで分かったことで得たものかもしれず、ゼロ以外のウルトラマンはそうかもしれません。

 たとえば、「人の気持ちを分かろうとする」ために小説を読む人間もいるでしょうが、小説自体が「人の心をのぞく悪い文章」だと解釈する人もいるかもしれませんし、「小説にしてほしくない人の気持ち」は小説からは分からないでしょう。

 

 

「分かってほしくない」自分の「ところ」

 

 

 また、『ウルトラマンF』のダークザギは、『ウルトラマン』の世界の科学者を配下のダークファウストとダークメフィストに変えてその世界を攻撃しました。しかしザギは自分が別の世界のウルトラマンの偽物だと説明しなかったらしく、『ウルトラマン』の初代ウルトラマンなどの能力を複製した人間の変身した巨人を、配下が「ウルトラマンの紛い物」と蔑んだところ、自分のことではないにもかかわらず「貴様に何が分かる」と不要に罰しました。そのあとも、ザギはその巨人が強くなることに比べて「何故俺はこんなに無様なんだ」と憤っています。

 おそらく、ザギは「何が分かる」と言いつつ、その理由の詳細である「自分もウルトラマンの紛い物である」ことを説明したくなかった、むしろ「分かってほしくないところがあった」のでしょう。

 そう考えますと、「分かってほしいところ」、「分かってほしくないところ」の区別まで含めて「分かれ」と人は言いたくなるときもあるでしょうから、その無限の要求水準には、「分かろうとする」のも無意味かもしれません。

 

「分かってはならないところ」

 

 

 『ソリトンの悪魔』では、人間の科学技術の事故で知能が低く暴走した「悪魔」に襲われる人間に、近い体質で高い知能の「天使」とも言える生命体が味方しますが、その「天使」は「悪魔」を殺すことへの苦しみもあり、人間の主人公は「彼等にしてみれば、殺人犯になった家族を殺す協力をするようなものかもしれない」と推測しています。

 さらに、主人公の精神に「悪魔」の感情が流れ込み、周りに突然苛立ち「無差別大量虐殺」をしようという感情が発生しました。それは、先述した「分かろうとした」、「観測するのも危険な」「悪魔」の「気持ち」の中に、「分かってはいけない」危険な感情が含まれていたとも言えます。

 たとえば、『ウルトラマンネクサス』では人間を捕食するスペースビーストに立ち向かう人間が、現れたウルトラマンもビーストだとみなし、かばう主人公(ウルトラマンではありません)が上司の凪に「ビーストに感情移入しろって言うの?」と言われています。ウルトラマンは人間を捕食していませんが、凪にしてみれば「怪物の人間を食べたい感情など分かってはならない」ということでしょう。『ソリトンの悪魔』と同じ作家による『心臓狩り』では、登場人物が特異体質により、部分的な共食いの食欲に目覚める感情が描かれています。それは「分かってはならないところ」だとも言えます。

 

 

「分かる」と「変わる」

 

 『スクール!!』で、小学校を変えようとする民間人校長の情熱的な対策に、冷めた態度の若い教師は終盤で「あの人達の気持ちが僕には分かりません。こんな僕でも変われるんでしょうか?」と別の教師に尋ね、「変わりたいと思った時点で変わっているはずです」と返されています。

 「分かる」とは「何も分からない」状態から「変わる」ことですが、「分かろうとする」時点で「変わろうとして」はいるので「変わっている」とは言えます。しかし、それは「分かる」の必要条件である「分からない状態から変わる」の一部でしかなく、十分条件にはなりません。しかし、「変わった」点は同じである、とも言えます。

 このような禅問答のような悩みが、「分かろうとする」の煩雑なところなのでしょう。

 つまり、「分かる」とその微分とも言える「分かろうとする」、速度と加速度とも言える関係では、どちらも「x=0」から変化はしているのですが、その区別が曖昧なのです。sinxとその微分のcosxの組み合わせが波動で重要になるようにです。

 

 

 

「分かろうとした」かすら「分からない」

 

 

 『A LIFE』では、主人公の沖田が弱い立場の看護師の事情を知らずに冷たい台詞を言ってしまったあとにその事情を知って、「あなたの気持ちは伝わっていない」と言われて、「伝わった」、「伝わってない」という応酬になりました。

 『新世紀エヴァンゲリオン』テレビアニメ版では、武装する組織の司令である父親のゲンドウの要求で突然戦わされる中学生の碇シンジが、精神の世界で、「あなたはお父さんの気持ちを分かろうとしたの?」と言われ、「分かろうとしたんだよ!」と強弁しました。

 また、『A LIFE』の副院長の「マサオ」は、最終回で院長に追放されそうになり、主人公の「カズ」に「お前は良いよな、みんなに必要とされて!お前に俺の気持ち分かるか?」と叫び、しばらくあとにカズはマサオに「考えたけど分からなかった。けどお前だって俺の気持ち分からないだろう?学歴でも経営でもお前が上でさ。人の気持ちなんて分かんねえよ。でも理解しようって思うのが大事なんじゃないのか」と返しました。

 これらから私が言えるのは、「自分が分かろうとしたかすら、そもそも分からない」ことです。「伝わったか」、「分かろうとしたか」自体が「気持ち」なので、それすら「分からない」のです。

 

「分かる」ための善悪の前提

 

 

 そもそも「気持ちを分かれ」というのは、「悪い奴は良い奴の気持ちを分かれ」という意味だと私は推測しています。いくら何でも、犯罪の加害者の「気持ち」を被害者に「分かれ」とは、よほど加害者に事情がない限り言わないはずです。つまり、善悪がはっきりしているときにしか言えないのです。

 その意味で、弱者を守ることを重視する『A LIFE』では、看護師に対してカズは元々医師として成績が悪かったこともあり、「僕も学歴差別を受けたことはあった」とあとで説明し、「あなたの気持ちは分かる」、「僕も弱者のところはあったから分かってくれ」と言いたいのでしょう。互いに弱いところを主張して、「弱者だから善」として「分かってくれ」、「分かる」にしたのです。ところが強者に思えたマサオも、カズより成績が良かったにもかかわらず実の父親に「医者は100点を取れなければ0点と同じ」と責められて苦しんだ弱者だったと主張し、成績が悪くても褒められたカズの方が「強者だから悪」だと跳ね返したのです。そこでカズは「俺だって自分より成績の良いお前がうらやましかった」という意味で「気持ちが分からないのはお互い様だ」と言っているのです。この論理でマサオがカズとどうにか和解出来たのは、元々完全には嫌悪していなかったためであり、どちらが加害者であり強者かはっきりしなかったためなのでしょう。カズは外科部長の恩師の、実績のために患者の病気をごまかした不正を告発して外科部長に殴られたことがありましたが、その「不正をした強者」の「気持ち」を「分からないなりに分かろうとしろ」と言われれば、さすがにカズも腹を立てるでしょう。

 しかし、ゲンドウの場合は、基本的には彼の方がシンジに無理を強いる加害者であり権力を握る強者です。シンジは兵器のエヴァンゲリオンを乗っ取るぐらいでしか強者、加害者にはなれません。それで「お父さんの気持ちを分かろうとしろ」というのは、登場人物のほとんどがシンジよりゲンドウに近い組織の権力側であるために言えることです。また、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』では、ゲンドウと突然対立する側になった部下の1人のマリがシンジに「少しは世間を知りな」と言っていますが、多くの視聴者は「ならば説明が先だろう」と考えたと私は感じています。おそらく、マリなども含めて、「説明したくないこと」、「分かってほしくないこと」があり、テレビアニメ版のゲンドウもそうだったのでしょう。

 『リベラルとは何か』では、「社会的弱者の中には、自分をそうだと認めること自体が恥なので助けを求めないことがある」とあります。マサオやゲンドウやマリも、自分の弱いところ、苦しんでいるところ、出来ないところなどをむしろ「分かってほしくない」からこそ「そちらの方が分かろうとしろ」、「知りな」と言いたかったのかもしれません。

 『エヴァ』の「心の壁」であるA.T.フィールドは、ちょうど「分かってほしくないところ」だと言えます。

 

「分かってほしくないところ」の「目印」だけは「分かってほしい」

 

 「分かってほしくないところ」を選り分けろ、というのは、「何を分かってほしくないか教えてくれ」という返答を生むパラドキシカルなところもあります。

 『下町ロケット』TBSドラマ版の序盤で、娘が主人公に「私にはお父さんに言いたくないことがある」、「何だ」、「言いたくないこと言うわけないじゃん。馬鹿じゃないの」という会話がありました。

 しかしこれは、本にたとえれば、「この本を読むのは、あるいはネットに公開するのは禁止です」と伝えるためには、その題名だけは教えなければならないのに似ています。つまり「分かってほしくないところ」を教えるために、題名に当たる「分かってもらわなければならない目印」が必要なのであり、それも「ところ」の分割が重要です。

 「肝心なことを何も分かっていない」という批判の真意は、「分かってほしいところの目印に気付いて労わってほしい」、「分かってほしくないところの目印に気付いて触れないでほしい」という二面性を持つ「責めないでほしい」という意味だと私は推測します。

 「分かってほしくない」ところを伝えたいときにその「目印」を伝えたいように、「分かろうとしろ」とは、「分かってほしい」ところの本体や中身は分からなくとも、せめて「目印」だけは分かれという意味だと考えます。

 そしてその表現が難しいのは、「分かってほしいところ」の周りに、果物の皮や魚の骨のように妨害するところ、「分かってほしくないところ」、「詳しく説明したくないところ」があるのだと推測します。

 

「テレパシー」は「伝えたい声」にしか過ぎないときもある

 

 

 私は漫画などの「テレパシー」は「言いたいけれど言えない声」、「聞かれたくない声」に過ぎず、本当の「気持ち」にならない部分もあると考えます。

 『地球へ…』原作では、伝えたくないこともテレパシーで伝えてしまう情緒的になりやすい超能力者「ミュウ」に対し、訓練された人間のキースは、そのテレパシーを逆用して「ニセの情報」を送り込めます。

 また、『ウルトラマンデュアル』では、テレパシーによる攪乱があります。地球の人間社会を暴力で管理し、助けに来たウルトラマン達を逆に侵略者扱いに追い込む宇宙人が、「正義は悪に育まれる」、「我々のほとんどは真面目に侵略している」と主張していました。

 しかし、ウルトラマンの精神を堕落させるため、「正義とは何だ」というテレパシーを送り込んで動揺を誘っています。人間が自分達に怯えてウルトラマンに味方しにくくなっている状況を利用したようです。

 この「正義とは何だ」とは、確かに「正義」への疑いもあったでしょうが、結局は動揺させるための戦略、そうしなければ勝てないかもしれない自信のなさなどもあったとみられますし、それは「気付かれたくないところ」、つまり「分かってほしくないところ」であり、テレパシーとは、ある意味「分かってほしいところの目印」にしか過ぎないときもあるのでしょう。

 

 

「ところ」の分割で「分からない」を分ける

 

 ここで、私がこれまでの記事で挙げた「気持ちが分からない」の問題に、「ところ」、「分かってほしくない」などの視点を適用します。

 『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』でゴジラの骨によるサイボーグの「機龍」の整備士が、ゴジラと戦うように操作される機龍に「親身」に整備しても、「痛み」を分かっていても、「戦意がないこと」を分かっていなかったことがありました。

 『築地魚河岸三代目』で、魚問屋の仲卸の跡取りの少年が口にした「魚産業への不安」を、別の跡取りの「若」が「経済的に仲卸の需要が減っているから分かる」という趣旨で「共感」して、そもそも少年の前提の「環境問題による魚の供給の減少」という別の心配を分かっていなかったことがありました。

 『コントロール』では、「熱血漢」のような刑事が、殺人の被害者の遺族の「子供が死ぬ辛さ」を分かって、分かっていなさそうな心理学者を責めたのですが、その遺族の真意が「子供を殺した辛さ」だと分からなかったことがありました。

 これらの「肝心なところを何も分かっていない」人物には、「履き違えた善意」があるのも確かです。それを私は、完全には責められません。理解出来ないところはあっても、責め切れません。特に『コントロール』などの場合、「分かってほしくないところ」もあったために遺族は「気持ち」を伝えなかったのでしょうし。

 『ドラゴンボール超 ブロリー』では、悪の宇宙人を自認するフリーザが、かつての部下であり現在の敵のベジータへの憎しみを共有する部下のパラガスやその息子のブロリーを連れて来たとき、ベジータの強さを「彼等は色々な修羅場をくぐっています」と表現しています。

 しかしその「修羅場」の中には、フリーザがベジータの仲間の孫悟空に負けたことや命乞いして助けられたこと、共闘したこと、ベジータが徐々に「悪」でなくなったこと、パラガスとブロリーでは「悪」と言い切れないところもあることなどを「説明したくない」からこそ「色々」と表現したとみられます。それも「分かってほしくないところ」でしょう。

 『鋼の錬金術師』原作で、主人公の軍属の科学者であるエドワードが、軍の権力者などの危険な計画を妨害したいけれども人質を取られて言えないとき、軍人ではあるものの倫理観のあるオリヴィエに敵か味方か曖昧な態度を取り、「(詳しく言えないのを)察してくれ」と頼みました。それは、「今は分かってほしくない」ことと、「それを分かってほしくないことを分かってほしい気持ち」があるためだと言えます。

 

「分かってくれ」は「責めないでくれ」

 

 

 

 「分かってくれ」の真意は、つまるところ「その部分は責めないでくれ」なのでしょう。「その気持ちは分かる」は「そのところは責めないが他のところは責める」という意味なのでしょう。


2022年10月25日閲覧


 『ウルトラマンギンガS』では、そのあとのシリーズから増える「怪獣を倒して強くなる、得をするウルトラマン」がいるのですが、そのウルトラマンを、経緯は不明ですが「いつ脅威になってもおかしくない」と疑う人間がいました。そのときにウルトラマンのヒカルは「あいつの気持ちを知りもしないくせに」と怒りました。

 しかし、ヒカルは、ビクトリーが怪獣の能力を使うので怪しまれやすいことを理解しているかも曖昧でした。仮に理解した上でかばうならば、「怪獣を倒して得をするウルトラマンの気持ち」を「分かれ」は、「ウルトラマン自身の利己的、あるいは人間に不利益な部分もあるかもしれないが、それは見逃してくれ、責めないでくれ」という意味なのでしょう。

 『ウルトラマンメビウス』には「怪獣を食べる怪獣」がいましたが、その気持ちが人間への「悪意」か「善意」かは、根拠なしには難しいと言えます。

 

 「分かる」、「分かろうとする」の議論に必要なのは、「分かってほしいところ」、「分かってほしくないところ」、「その目印」であり、その点の前ではあまり区別に意味はありません。その目印を「分からない」ことを「分かろうとしない」と呼んでいることがほとんどでしょう。

 「分かってほしいところと分かってほしくないところ」の本体と目印に気付くかを「分かる」、「分かろうとする」と呼び分けているに過ぎないと言えます。

 

 

 フリーザは『ドラゴンボール超』や『超 ブロリー』で少しずつ悟空の甘さを分析したり、彼に合わせて戦闘を楽しんだりしています。悟空の気持ちを「分かりたくない」かもしれないし、ある意味で「分かっていない」かもしれないのですが、「分かろうとは」しています。しかしそれは「善人になった」ことにはなりません。

 

 よって、「分かろうとしていない」は「分からない」の一部として批判する権利はあっても、「分かろうとしろ」と命令する権利はないのかもしれません。「分かってほしいところ」と「分かってほしくないところ」があるために混乱するためです。

 「分かろうとしろ」とは、「この事実や推測の分岐点による、自分の持つ善悪や快不快の方向性の感覚にお前が合わせろ」という意味であり、無限に分岐点がある以上、同じ人間にならない限り不可能です。


過去や未来の自分に「分からないなりに分かろうとしろ」と言われればどうか


 そもそも、自分の過去や未来の気持ちすら「分からない」、「分かろうとしない」ことはあるでしょう。それを「後悔」、「予想が外れる」と言うのであり、そのとき、過去と未来の自分について「分かりたくもない」、「分かろうとしたくもない」感情もあるはずです。「分からないなりに分かろうとしろ」と言いたくなった場合は、「過去や未来の自分に必ず同じ台詞を言えるか、言われたらどう思うか」と考えれば整理出来るかもしれません。

 

 

 

まとめ

 

 「分からないなりに分かろうとしろ」とは、「分かってほしいところの目印と分かってほしくないところの目印に気付け」という意味であり、それを認めない限り、「分かろうとしろ」は混乱を招くと推測しました。

 

参考にした物語

 

 

 

特撮テレビドラマ

 

 

 

 

根本実樹ほか(監督),武上純希ほか(脚本),1998 -1999(放映期間),『ウルトラマンガイア』,TBS系列(放映局)

大西信介ほか(監督),根元実樹ほか(脚本) ,2001 -2002(放映期間),『ウルトラマンコスモス』,TBS系列(放映局)

小中和哉ほか(監督),長谷川圭一ほか(脚本),2004 -2005,『ウルトラマンネクサス』,TBS系列(放映局)

村石宏實ほか(監督),小林雄次ほか(脚本) ,2006 -2007 (放映期間),『ウルトラマンメビウス』,TBS系列(放映局)

坂本浩一ほか(監督),小林雄次ほか(脚本) ,2014 (放映期間),『ウルトラマンギンガS』,テレビ東京系列(放映局)

 

 

特撮映画

手塚昌明(監督),横谷昌宏(脚本),2003,『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』,東宝

おかひでき(監督),長谷川圭一(脚本),2012(公開),『ウルトラマンサーガ』,松竹(配給)

 

テレビアニメ

 

庵野秀明(監督),薩川昭夫ほか(脚本),GAINAX(原作),1995-1996(放映期間),『新世紀エヴァンゲリオン』,テレビ東京系列(放映局)

大野勉ほか(作画監督),冨岡淳広ほか(脚本),畑野森生ほか(シリーズディレクター),鳥山明(原作),2015-2018,『ドラゴンボール超』,フジテレビ系列(放映局)

藤田陽一ほか(監督),下山健人ほか(脚本),空知英秋(原作),2006-2018(放映期間),『銀魂』,テレビ東京系列(放映局)

 

 

 

アニメ映画

 

庵野秀明(総監督・脚本),摩砂雪ほか(監督),2012,『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』,カラーほか(配給)

長峯達也(監督),鳥山明(原作・脚本),2018年12月14日(公開日),『ドラゴンボール超 ブロリー』,東映(配給)

 

漫画

鳥山明(原作),とよたろう(作画),2016-(発行期間,未完),『ドラゴンボール超』,集英社(出版社)

竹宮惠子,2007,『地球へ...』,スクウェア・エニックス(小学館)

鍋島雅治/九和かずと(原作),はしもとみつお(作画),2000-2013(発表期間),『築地魚河岸三代目』,小学館(出版社)

荒川弘(作),2002-2010(発行),『鋼の錬金術師』,スクウェア・エニックス(出版社)

空知英秋,2004-2019(発行期間),『銀魂』,集英社(出版社)

浦沢直樹×手塚治虫(作),2004-2009(発行期間),『PLUTO』,小学館(出版社)

 

 

テレビドラマ

 

伊與田英徳ほか(プロデューサー),八津弘幸(脚本),2013,『半沢直樹』,TBS系列(放映局)

永井麗子(プロデューサー),奏建日子(脚本),2011,『スクール!!』,フジテレビ系列(放映局)

伊與田英徳ほか(プロデューサー),八津弘幸ほか(脚本),池井戸潤(原作),2015,『下町ロケット』,TBS系列(放映局)

瀬戸口克陽ほか(プロデュース),平川雄一朗ほか(演出),橋部敦子ほか(脚本),2017,『A LIFE』,TBS系列

貸川聡子(プロデューサー),村上正典ほか(演出),寺田敏雄ほか(脚本),2011,『コントロール 犯罪心理捜査』,フジテレビ系列(放映局)

 

小説

 

トルストイ(著),原卓也(訳),1972,『少年時代』,新潮文庫

梅原克文,2011,『心臓狩り』,角川ホラー文庫

小林泰三,2018,『ウルトラマンF』,ハヤカワ書房

梅原克文,2010,『ソリトンの悪魔』,双葉文庫

三島浩司,2016,『ウルトラマンデュアル』,ハヤカワ書房

殊能将之,2001,『黒い仏』,講談社

 

 

参考文献

佐藤勝彦,2006,『相対性理論と量子論』,PHP研究所
佐藤勝彦,2005,『〔図解〕相対性理論がみるみるわかる本 愛蔵版』,PHP研究所

池上彰,佐藤優,2015,『希望の資本論 私たちは資本主義の限界にどう向き合うか』,朝日新聞出版

高崎直道,1992,『唯識入門』,春秋社

中村圭志,2016,『教養としての仏教入門』,幻冬舎新書

デール・S/ライト/著,佐々木閑/監修,関根光宏/訳,杉田真/訳,2021,『エッセンシャル仏教』,みすず書房

小林道夫,2006,『デカルト入門』,ちくま新書

池上彰,2013,『これからの日本、経済より大切なこと』,飛鳥新社

富永裕久,2004,『図解雑学 パラドクス』,ナツメ社
足立恒雄,2000,『無限のパラドクス 数学から見た無限論の系譜』,講談社

中村元,2003,『現代語訳 大乗仏典1』,東京書籍

金岡秀友/校註,2001,『般若心経』,講談社学術文庫

中村恵美子,2008,『幾何学』,ナツメ社

ユークリッド(著),中村幸四郎ほか(訳),2011,『ユークリッド原論』,共立出版

斎藤憲,2008,『ユークリッド『原論』とは何か 二千年読みつがれた数学の古典』,岩波書店

デカルト(著),谷川多佳子(訳),1997,『方法序説』,岩波文庫

鎌田浩毅,2016,『地球の歴史 下』,中公新書

田中拓道,2020,『リベラルとは何か』,中公新書

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