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「気持ちを分かれ」と批判する前に、前提となる善悪を議論すべきではないか


 

 

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注意


これらの重要な情報を明かします。

特撮映画

1954年版『ゴジラ』

『ゴジラVSモスラ』

『ゴジラVSスペースゴジラ』

『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』

『ゴジラ×メカゴジラ』

『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』

 

 

 

ドラマ

『コントロール 犯罪心理捜査』

『おちょやん』

『A LIFE 愛しき人』

『わたし、定時で帰ります』

『下町ロケット』TBSドラマ版

 

テレビアニメ

『NARUTO』

『NARUTO 疾風伝』

『新世紀エヴァンゲリオン』

 

 

 

漫画

『NARUTO』

『築地魚河岸三代目』

 

 

 

 

 

 

小説

『ソリトンの悪魔』

 



 はじめに

 

  「人の気持ちが分からない」という言葉は、かなりの混乱を招きます。

 「出来る人は出来ない人の気持ちが分からない」、「そもそも分かるわけがない」、「分からないなりに分かろうとしろ」といった論争もあります。

 近年の作品では、連続テレビ小説『おかえりモネ』もその一つだと言えます。

 しかし、それらに煩わしいような感情も抱いた私は、幾つかの「気持ちを分かれ」、「分からない」という議論を整理して、とりあえずの結論を出しました。

 「相手の気持ちを分かれというのは、多くの場合は、悪い奴が良い奴の気持ちを分かって良い奴に近付けという意味なのであり、その善悪の前提が崩れるときもある。その善悪を気持ち抜きに議論してからにすべきである」ということです。

 ここから幾つかの作品を挙げます。

 かなりジャンルはばらばらですが、それだけ普遍的な悩みなのでしょう。

 

 重要な展開を明かします。ここから先を読む方はご注意ください。

 

 

 

 

「気持ちが分からないのはお互い様」は意味があるようで、あまりない

 

 まず、「人の気持ちを分かれ」という主張に、時折「そちらだって分からないだろう。お互い様だ」という反論も見られます。

 『A LIFE 愛しき人』最終回や、『おちょやん』、『わたし、定時で帰ります』などにありました(正確には、「簡単には分からない」、「相手の気持ちになって言っていない」などのずれがありますが)。

 けれども私はこれらに、火に油を注ぐような部分も感じ取っていたため、整理したいと考えていました。

 またその火が油で燃え上がるときは、話題の性質から仕方がありませんが、論理性が欠けてしまうので、さらに収拾が難しくなります。

 そこで、自ら「自分は相手の気持ちを分かっていない」と認めてむしろ歩み寄った物語を挙げます。

 

 

「何も分かっていなかったかもしれない」という自戒

 

 『NARUTO 疾風伝』では、様々な過酷な戦いをする忍者がいるものの、ほとんどは彼等なりに正しいことをしているつもりであり、犯罪者も事情があると描かれることがあります。

 ペインの「理想論を言うのは痛みを理解していないからだ」といった台詞もあります。

 大蛇丸が親を殺されたことで「永遠の命」にこだわり、人体実験などを行い自分の里を抜けたことに対して、かつての同期であり止めたがっていた自来也は、「大蛇丸がおかしくなったのは、親を殺されてからだった。わしはあいつに、何も分かっていないと言われた。その通りだったかもしれない。わしは親を殺されていないから」と述べています。

 では何故自来也が大蛇丸の「何か」を「分かってやれなかった」のかと考えますと、「自分の行動では埋められない外部条件の差異がある」ためでしょう。

 「親を自分の意思に関わらず殺された」状態に、自分の意思でなることは論理的に不可能です。その経験でしか生じない立場や痛みがあるのです。

 この「自分の意思や行動では埋められない外部条件の差異」は、出自や立場、体質などもあります。

 

 

 

 

 

 

「俺はお前のこと、何も分かってなかった」

 

 出自や体質の段階で異なる相手を「分かろうと」したものの、前提が誤っていたために根本的に「分かっていなかった」例が、『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』にあります。

 ゴジラシリーズは、人間の核実験により住処を破壊されたゴジラが、核による能力で日本を襲うのが基本的な物語です。昭和ゴジラシリーズ後期では味方になりますが。

 最初の『ゴジラ』1954年版でゴジラは、核と異なる兵器「オキシジェン・デストロイヤー」で体を溶かされて死亡しました。

 その続編(それこそ骨の描写が異なりますが)の『ゴジラ×メカゴジラ』では、新しいゴジラによる攻撃に対抗するため、初代ゴジラの残った骨に機械を組み合わせた遠隔操縦の兵器「3式機龍」を人間が開発しました。

 しかし、開発者の娘は、「ゴジラのサイボーグなんて可哀想だよ」と批判しました。

 子供や女性が怪獣と「分かり合おう」と主張するのは、『ゴジラVSモスラ』、『ゴジラVSスペースゴジラ』などにもあります。

 しかし、『ゴジラ×メカゴジラ』においては戦いにおける人間同士の和解が展開の主軸となり、新しいゴジラを追い払って「とりあえずのハッピーエンド」であるような描かれ方になりました。そのときに、機龍が暴走しているという不穏な要素を残しつつです。

 そして続編の『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』では、機龍の整備士の青年が、独特の「相手の気持ちを分かろうとする」姿勢を持っていました。

 彼は機械に愛着があり、機械に感情があるかのように主張して、熱心に整備しており、周りにも呆れられているとも取れる部分がありました。

 宗教的には、日本のアニミズム、物品に魂が宿る発想かもしれません。

 『下町ロケット』TBSドラマ版で、技術者が自分の製造した部品の認められないことについて、その部品に「お前ら、死蔵特許だってよ」と苦しそうに語りかける場面がありました。それに近いと言えます。

 また、整備士は自分の親戚の知り合いである妖精のような存在である「小美人」がモスラと共に「ゴジラの骨を返してください」と要求あるいは警告をしても否定的でした。

 ちなみに、『×メカゴジラ』での女性パイロットは、『東京SOS』では「機龍はもう戦いたくないのかもしれない」と推測していましたが、それ以上物語には関わりませんでした。

 しかし、整備士は新しいゴジラとの戦いで機龍の緊急の整備をする中、事故で内部に閉じ込められ、そのまま戦いになり加速度などの過酷な負荷に苦しみました。本来遠隔操縦であるため、人を乗せて戦う想定をしていなかったのです。

 そして暴走する機龍の「テレパシー」のような現象により、機龍=初代ゴジラの真意を、「そもそも戦いたくない」ということを知りました。

 そのときに彼が述べたのが「俺はお前のこと、何も分かってなかった」でした。

 これこそ、私が「相手を分かろうとする」という言葉の中に感じた違和感に繋がる重要な部分でした。

 

 

 

 

 

「悪い奴は良い奴の気持ちを分かれ」の問題点

 

 そもそも何故彼が初代ゴジラの気持ちを分からなかったのかと考えますと、単に「ゴジラの方が悪い奴だと思ったから」でしょう。

 おそらく、「人」に限らず、「相手の気持ちを分かれ」というのは「悪い奴は良い奴の気持ちを分かって良い奴に近付け」という意味なのでしょう。

 逆に「良い奴が悪い奴の気持ちを分かる必要はない。そんなことをすれば悪が感染る。してはいけない」という補足もあるかもしれません。

 

 「気持ちを分かれ」には、「少なくとも比較すればそちらの方が悪い奴だ」という前提の断定が含まれるのです。

 

 

 

ゴジラと人間の互いの認識

 

 

 

 ゴジラシリーズと照らし合わせれば、「悪い奴は良い奴の気持ちを分かれ」のある種の傲慢さが浮かび上がります。

 穿った表現かもしれませんが、ゴジラは無差別に殺人を繰り返しています。ゴジラに法律を守る義務はありませんから「犯罪者」にはなりませんし、人権もありませんからその意味でも「犯罪者」になりません。

 それに近いのが、小説『ソリトンの悪魔』です。

 『ソリトンの悪魔』では、海に密かにいた波動の擬似的な生命体「蛇(サーペント)」が、人間の新技術により意図せずに凶暴化し、重大な海難事故を次々と起こしました。

 そこで同じ起源で高い知能を持つ生命体の協力を得ます。しかし、一見コンピューターのように無感動なその知的生命体は、人間の危機に対応したいものの「サーペントと戦うこと」への苦痛を感じており、「彼等にしてみれば、殺人犯になった身内を殺す協力をするようなものかもしれない」と主人公は推測しています。

 ゴジラもサーペントも、人間の科学技術による犠牲者なのかもしれないと表現されることもあります。

 そして、ゴジラもサーペントも法律を守る義務も法律に守ってもらう権利も、人間ほどにはありません。

 「気持ちが分からないのはお互い様だ」も意味をなさないところがあります。

 ゴジラは自分が踏み潰したり焼き払ったりする人間の気持ちなど分からないでしょうし、分かろうともしないでしょう。

 人間も、自分達が核実験に巻き込んだり溶かしたり爆撃したりするゴジラの気持ちなど分からないでしょうし、分かろうともしないでしょう。

 「お互い様だ」といっても、ゴジラと人間の溝は埋まりません。

 乱暴に言えば、昭和シリーズ後期を除けば、ゴジラと人間は、お互いを「悪い奴」だとみなしている場合がほとんどです。

 ただし、ゴジラが核兵器に関する人間への恨みで行動しているかは判然としません。

 たとえば『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』のゴジラは、「太平洋戦争で犠牲になった人間の怨念」で行動し、核兵器を使ったアメリカ人ではなく、「戦争を忘れ去った」日本人を狙っています。

 これに限らず、ゴジラシリーズでゴジラを動かすのが核兵器を使われた恨みかは断定出来ません。

 しかし、ゴジラと人間に生物学的な差異があり、それぞれの行動で埋められない部分がある以上は、「気持ちを分かれ」の前提の「こちらが良い奴でそちらが悪い奴だ」という主張が解決しないというのは成り立ちます。

 私がこの文章の最初から「気持ちを分かれ」を「悪い奴は良い奴の気持ちを分かれ」と解釈して、「奴」といういささか乱暴な単語を用いていたのは、人間以外、空想の物語の宇宙人などの「人」の範囲も超えた部分への倫理を適用したかったためです。

 『東京SOS』の整備士が自分なりに機龍の気持ちを機械として分かろうとしたのは、おそらく「ゴジラみたいな悪い奴でも自分が努力すれば機械として人間を守る良い奴になってくれる」、「機械として苦しんでいる機龍も、自分ならそれを理解して整備して戦わせてやれる」という意味であり、「そもそも人間の方が悪い奴ではないのか」、「生物を機械と組み合わせるのが悪いことではないのか」、「戦わせること自体が悪いのではないか」という疑いはなかったのでしょう。

 

 

 

「俺には分かるなあ」と需要と供給

  また、『築地魚河岸三代目』原作では、魚問屋である仲卸の跡取りの小学生の克海が「魚産業に希望が持てないから継がない」と表現したときに、別の干物専門の仲卸で既に大人の「若」が、「俺には分かるなあ。俺だって消費者の干物離れや加工場からの小売店への直納なんかで何度あきらめかけたことか」と「分かろうと」しました。

 しかし克海の真意は、「そもそも魚自体が乱獲で減っているから絶滅しかけている」という意味でした。

 若の「魚産業」への不安は主に「経済的に仲卸への需要が減っている」ことであり、克海の場合は「環境問題により魚の供給が減っている」ことだったため、そもそも前提がずれていました。

 詳しく話さない、あるいは「それぐらい一部で全体を察してくれ」のような態度を取る克海も閉鎖的ですが、若は克海の「気持ち」を「分かろうとしている」ようで根本的に分かっていなかったのです。

 

 

自分と相手のそれぞれに埋められない差異

 

 たとえば、誰かが自分自身の全財産を焼き払っても、全財産を盗まれた人間の気持ちにはならないでしょう。切腹するのと一方的に殺されるのも、倫理的に異なるはずです。

 また、『東京SOS』で機龍の内部から脱出出来ず、過酷な加速度などの負荷を受ける立場になった整備士も、その「人間には本来分からない痛み」を体験して理解した面はあります。

 つまり、自分の意思で論理的に埋められない体質や立場などの差異は存在するのです。そこから生じる「気持ちの壁」の存在を認める必要があります。

 「ライバル」の語源は、川のリバーに繋がり、水を引いたり氾濫に対応したりするのを巡る利害の対立が原点だったそうです(注1)。

 

 

 

 これは、生まれつき場所で決まっている利害の対立であり、それを行動で埋められず、どちらが悪いとも断定出来ず、「お互い様」でも譲れない部分があります。

 ヘーゲルの哲学での「矛盾、対立、差異」もこれに関係するかもしれませんが。

 

 

 

 

善悪の逆転

 

 

 『コントロール 犯罪心理捜査』では、「善悪の逆転」と「気持ちを分かれ」の関連の示唆があります。

 大学の心理学の教授であり、礼儀や配慮に欠け、むしろ学問的に人を見透かして苛立たせるとも取れる南雲が、刑事の瀬川と協力し合うときに、「被害者の遺族」に無神経な言動をして「心理学者なのに、人の気持ちが分からないんですか!」と怒鳴られました。

 しかし、その真意はある意味で、「気持ちを分かる」の前提の善悪の逆転でした。

 南雲達のたどり着いた結論は、「通常ならば被害者の側として扱われる遺族こそ加害者だった」、「加害者だと思われた人間は部分的には冤罪の被害者だった」ということでした。

 つまり、「悪い奴は良い奴の気持ちを分かれ」という通常の主張に、「前提となる良い奴と悪い奴、特に被害者と加害者が逆であったらどうなるか」という疑問が加わったことで、「気持ちを分かれ」という主張の方向性が見えやすくなりました。

 瀬川にとって「気持ちを分かれ」の意味は「悪い奴は良い奴の気持ちを分かれ」だったのでしょう。しかし南雲は心理学者として、犯罪や「人が倒れても周りが多人数ではかえって助けない」行動を分析していました。そして、犯罪などへの憤り自体は皆無ではありません。その意味で、南雲の心理学は「良い奴が悪い奴の気持ちを分かろうとして役に立てる」ものだったのであり、瀬川とはその意味で逆なのです。

 

 

 

悪いことを薦めるわけではない

 

 

 ただし、「良い奴が悪い奴の気持ちを分かる」犯罪心理学が必要であるのと法律を破って良いかが別であるように、悪いと確定したことをしてはいけないのは私も否定しません。

 私の主張したいのは、「気持ちを分かれ」という主張が善悪の前提の履き違えによって悪いことを引き起こす場合もあるということです。

 

 

 

 

 

被害者と加害者

  『新世紀エヴァンゲリオン』では、地位や権力を持つ父親の判断で、未知の兵器に乗る過酷な戦いを強制ではないとはいえ要求される碇シンジの苦しみが重要になります。「乗るなら早くしろ、でなければ、帰れ」といった発言をされます。

 シンジは父のゲンドウに憤ることがありますが、「(逆に)お父さんの気持ちを分かろうとしたの?」と尋ねられたイメージの場面があります。

 しかし、基本的に負荷をかける加害者であるゲンドウの気持ちを、被害者であるシンジが分かろうとしなければならないというのは、むしろ理不尽とも言えます。

 「気持ちを分かれ(あるいは分かろうとしろ)」には、そのような問題点もあります。

 

 

前提の揺らぎ

 

 

 ゴジラシリーズでは、「人間が他の種類の生物を殺すのは悪いことか」という疑問があり、『NARUTO』シリーズでは「多くの忍者が従う規範、大蛇丸などが逆らっている規範は正しいのか」という疑問があり、その善悪の揺らぎが「気持ちを分かれ」の前提の不安定な部分を分かりやすくします。

 それらの善悪を議論するためには、生命、安全、財産、尊厳などの問題を「気持ち」抜きに取り扱う必要があります。気持ちの前提を議論するのに気持ちを用いれば、トートロジー(同語反復)になる危険性があります。

 

 

 

「義務と権利」の論理の限界

 

 

 また、善悪の基準の根本に、「義務と権利」の概念もあります。

 具体的には、借金をしている債務者、法律的に訴えられている側、労働や教育で何らかの指導を受ける側などは、相手に負荷をかけている分、義務があるのは当然です。

 私は「人の気持ちなんて分からない」と虚無主義的なことを主張しているかもしれませんが、そこまでを否定はしません。

 そして人間にはどうしても気の緩みや視野の狭さにより知識や判断力の不足という「愚鈍」や「怠惰」な面は生じてしまい、義務を持つ側にそれがあれば、権利を持つ側は激しく憤ります。それも当然です。

 しかしだからといって、全ての批判が許されるわけではありません。

 そのために金利の制限や弁護や労働基準法などの概念があるのです。

 けれどもそれは、相手に義務があるとみなしている側からすれば、「そちらの方がそもそも負担をかけているのだろう」という意識がどうしても生じ、「悪いそちらは良いこちらの気持ちを分かれ、こちらの立場になって考えろ」と言いがちになります。

 そこにも、善悪の前提の問題があります。

 

 

「あなたの気持ちは良い意味で分かりません」

 

 

 

 私は「相手を傷付ける人間は、相手の気持ちを分かっていないのか分かろうとしていないのか、その区別に意味はあまりないだろう」と考えたこともあります。そこから、気を遣うときに必要なのは、「むしろ良い感情だから分からないと認める」となりました。

 『コントロール』の南雲は、被害者と思われた人物こそ加害者かもしれないと推測して一見無配慮な言動をして、瀬川に「人の気持ちが分からないんですか」と言われた直後に、別の刑事に「あのような場に立ち会うのは辛いでしょう」と勘違いを含む気遣いをされたときに「お気持ちは分かります」と答えました。

 しかし南雲は、別のベテラン刑事の「人を見る目」は心理学と一致する部分もあるため認めており、刑事の全員を非論理的だとみなすわけではなく、おそらく刑事なりの自分への気遣いを、勘違いを含んでいたとしても肯定はしているのでしょう。

 つまり、「お気持ちは分かります」は、ある意味で自分と異なる、自分を理解していない人間に対する彼なりの気遣いだったのです。

 すると、「あなたの気持ちは良い意味で分かりません。あなたが私より優れた人格を持つか、私以上に立派な行動をしているからです」という気遣いも存在するかもしれません。

 ちなみに、『魚河岸三代目』の若が克海の「魚産業に希望が持てない」真意を分かろうとしたときは、「まだ子供だから実際に現状を見て、やーめた、と思ったってことでしょう」と推測していました。「子供は現実を大人より甘く見ている」、踏み込んで言えば「子供は大人より劣っている」という先入観があり、気遣ったつもりでも実際には足りず、『コントロール』の南雲が刑事に抱いた「お気持ちは分かります」が成立しないかもしれません。

 悪い意味で気持ちを分かろうとするのは「見透かす」と言えますが、良い意味で気持ちを分かろうとするのは「察する」と多くの場で表現されます。「お察しします」を「気持ちは分かります」と表現して、「本当は分からないのだろう」とすれ違うこともあると見られます。

 「自分の方が悪い奴だから良い意味で分からない」という謙虚さも存在するかもしれません。

 また、おそらく「お気持ちは分かります」は、場合によっては、「あなたにはそのような考えを示す権利がある、して良い、責めない」あるいは「私もあなたの立場なら同じように考えることはある」という意味もあります。

 それは、「あなたの人格は優れている、少なくとも劣ってはいない」とも言えます。

 単に、「気持ちは分かる」ではなく敬意が必要なのでしょう。

 

 

 

 

 

 

確定したならば

 

 善悪が確定したならば、私も「気持ちを分かれ」と言うかもしれません。

 その例外とは、多くの人間の安全や利益に関わるために、善悪が確定している場合を指すのでしょう。

 しかし、私がそうするのにも、本当は限界があると、今の私は感じています。

 たとえば、ゴジラシリーズや『NARUTO』は、人間全体の利益や自分の国や里などの人間の命だけ優先すれば善悪が確定するとは限りません。

 『東京SOS』の整備士は上司に「機龍は自分の意思で戦いをやめたがっています」と伝えました。『NARUTO』のナルトも敵の全てを否定するとは限らず、自分の里の幹部に「ペインを殺して、その味方の里も潰せば丸く収まるのか?」と問いかけています。

 それは、ナルトの里を壊滅させたペインも、かつて家族をナルトの里の忍に殺されたり、自分達の活動を裏切られたりしたというナルトの立場からは体験出来ない「痛み」を持っていたためです。

 それは、自分の側の人間の多くにとって確定していた善悪の前提、たとえば「敵を攻撃すべきだ」、「命令に従うべきだ」、「自分の選んだ仕事は敵を滅ぼしてでも貫徹すべきだ」という概念を崩してでも、対立する相手に気を配ったためです。

 それも含めて、「自分や身内が悪い奴かもしれない」といった広い視野を持たなければ、「気持ちを分かれ」を使えなくなります。

 

 

 

合意形成

 

 前掲した池上彰さんの書籍では、川をめぐる人間の対立の合意形成が扱われています。

 また、ある企業の経営をしていた人間に、「あなたは自分が買収する会社の人の気持ちを考えたことはありましたか?」と尋ねて、「ありませんでしたね」と返されたとあります(注2)。

 しかし、これも文字通り「合意形成のときは相手の気持ちを考えろ」というより、私が考える限り、「自分達が悪い奴かもしれないと疑え」という意味だと解釈しました。

 池上彰さんは、その経営者の合理性が相手の非合理性に合っていなかったと書いていますが、おそらくそれも、「善悪の前提」がずれていたのでしょう。

 また、買収される側の会社の人間も、さすがに私生活や趣味の内容まで、自社を買収する相手に考えてほしいわけではなく、あくまで「仕事上の善悪の前提」を考えてほしいのでしょう。むしろ私生活や趣味の中には、考えてほしくない恥ずかしいものさえ含まれているかもしれません。

 

 

 

 

まとめ

  「気持ちを分かれ」は多くの場合で「加害者などの悪い奴は被害者などの良い奴の気持ちを分かって良い奴に近付け」と使われており、その前提となる善悪が崩れたときに混乱を招くと結論付けました。

 私の主張は、「気持ちを分かれ」と批判する前に「何が良いことで何が悪いことか」という前提を「気持ち」を交えずに議論して確定させる必要があり、確定させる前には「自分達が悪い奴かもしれない」と疑う必要があるということです。

 

 

 

脚注

 

注1.池上彰 2014年:pp.136-139

注2.池上彰 2014年:pp.45-47 

参考文献

 

 

 

池上彰,2014,『池上彰の教養のススメ』,日経BP社

 

 

参考にした物語

 

映画

 

本多猪四郎(監督),村田武雄ほか(脚本),香山滋(原作),1954(公開日),『ゴジラ』,東宝

大河原孝夫(監督),大森一樹(脚本),1992,『ゴジラVSモスラ』,東宝

山下賢章(監督),柏原寛司(脚本),1994,『ゴジラVSスペースゴジラ』,東宝

金子修介(監督),長谷川圭一ほか(脚本),2001,『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』,東宝

手塚昌明(監督),三村渉(脚本),2002,『ゴジラ×メカゴジラ』,東宝

手塚昌明(監督),横谷昌宏(脚本),2003,『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』,東宝

 

テレビドラマ

貸川聡子(プロデューサー),村上正典ほか(演出),寺田敏雄ほか(脚本),2011,『コントロール 犯罪心理捜査』,フジテレビ系列(放映局)

八津弘幸(作),村山峻平(プロデューサー),梛川善郎ほか(演出),2020-2021,『おちょやん』,NHK系列(放映局)

瀬戸口克陽ほか(プロデュース),橋部敦子(脚本),平川雄一朗ほか(演出),2017,『A LIFE~愛しき人~』,TBS系列(放映局)

朱野帰子(原作),新井順子ほか(プロデューサー),奥寺佐渡子ほか(脚本),金子文紀ほか(演出),2019,『わたし、定時で帰ります』,TBS系列(放映局)

 

 

テレビアニメ

 

庵野秀明(監督),薩川昭夫ほか(脚本),GAINAX(原作),1995 -1996(放映期間),『新世紀エヴァンゲリオン』,テレビ東京系列(放映局)

伊達勇登(監督),大和屋暁ほか(脚本),岸本斉史(原作),2002-2007(放映期間),『NARUTO 』,テレビ東京系列(放映局)

伊達勇登ほか(監督),吉田伸ほか(脚本),岸本斉史(原作),2007-2017(放映期間),『NARUTO 疾風伝』,テレビ東京系列(放映局)

 

漫画

岸本斉史,1999-2015,『NARUTO』,集英社(出版社)

鍋島雅治/九和かずと(原作),はしもとみつお(作画),2000-2013(発表期間),『築地魚河岸三代目』,小学館(出版社)

 

 

小説

梅原克文,2010,『ソリトンの悪魔』,双葉文庫

 

 

 



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