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村上春樹『サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3』感想

 村上春樹が雑誌ananに連載していたエッセイ「村上ラヂオ」をまとめた3冊目。「いつも何かを書いていたい」自分が、まさに読むべき本だった。

書きたいことを楽しく

(ananのエッセイについて)相手が何を思うかなんてとくに考えずに、自分の書きたいことを、自分が面白いと感じることを、好きなように楽しくすらすら書いていれば、それでいいじゃないかと。というか、そうする以外に僕にできることなんてないじゃないかと。

本書7ページより

 わたしもこれで行くことにしよう。書きたいことを好きなように楽しく書く。そうする以外に自分にできることなんてないのだ。「すらすら」は書けないけれども。
 文豪とは違って、誰も読んでくれなくても、書くだけで自分は幸せなのだ。いや、書くことは呼吸することなので、書いていないと死んでしまう。ほんとうにnoteがあってよかった。読んでくださる方には何度お礼を言っても足りない。

文章に大事な要素とは

エッセイであれ小説であれ、文章にとって親切心はすごく大事な要素だ。少しでも相手が読みやすく、そして理解しやすい文章を書くこと。
 でも実際にやってみるとわかるけど、これは簡単なことじゃないです。わかりやすい文章を書くには、まず自分の考えをクリアに整頓し、それに合った適切な言葉を選ばなくてはならない。時間もかかるし、手間もかかる。いくぶんの才能も必要だ。適当なところで「もういいや」と投げ出したくなることもある。

本書20~21ページ

 わたしは教材ライターでもある。商業文を書くときには「読みやすく、理解しやすい」文章を目指すのは当然だ。だが、自分のために書くnoteであっても「わかりやすい」ように力を尽くしている。
 そのためには「自分の考えをクリアに整頓」し、「それに合った適切な言葉を選ばなくてはならない」のだが、「時間もかかるし、手間もかかる」。まったく著者の言うとおりだ。
 それでも、神様はわたしに「書け」と命じている。つまり、書くことに関してだけはいくぶんかの才能をもって生まれてきたと思っている。「適当なところで『もういいや』と投げ出したくなることもある」が、それでも、もう1回だけ推敲しようと読み直して手を入れる。ここだけは、プロの小説家と同じ矜持である。

自分の「スタイル」で

 他人にどう思われようと、批判されようと、そんなことはどうでもいい。「これが自分の言葉で、これが自分の文体だ」と確信できるものを用いることで初めて、心にあるものを具体的なかたちにできる。どんなに美しい言葉も、洒落た言い回しも、自分の感覚や生き方にそぐわなければ、あまり現実の役には立たない。

本書82ページより

 読者に対して親切な、「読みやすくわかりやすい」文章を目指すといっても、「自分の中から生み出されてくる」言葉や言い回しでなければ意味がない。自分の感覚、生き方に合ったもの。言い方を変えれば、ダブル村上のもうひとりである村上龍が「スタイル」と定義しているもの。自分のスタイルに合ったものを取り入れて、具体的なかたちにしていこう。そうでなければ自分が書く意味はない。
 
 最後に、文章とは関係ないけど、本書が長年の疑問への答えとなったことを書いておこう。

人にものを選ぶとは

 プレゼントを選ぶのがうまい人を見ていて思うのは、選び方にエゴが入っていないことですね。(誰かに衣服をプレゼントするとき)たとえ優れた服装のセンスを持っていても、多くの人は「この服は自分が気に入っている」とか「この服をあの人に着せてみたい」とか、自分がという気持ちが先に立つ。ところが見立てのうまい人は、自然に相手の立場に立ち、相手の気持ちになってものを選ぶ。こういうのは、身も蓋もない言い方だけど、きっと生まれつきの資質なのだろうな。

本書85ページより

 そうそう、そういうことなんですよ。著者は洋服を例としているが、服にかぎらずどんなものであっても言える。選ぶ人がその道のプロであっても、選んでくれたものを使わない、あるいは使わなくなってしまうことは多々あるのだ。
 外から見ればたしかに自分に合っているのかもしれない。「これが似合う。これを使っているところを見たい」という気持ちで選んでくれたのだと思う。親が以前つくってくれた服や買ってくれたものも、そうだったのだろう。だが、自分としては「うーん、ちょっとこれはあんまり好きじゃない」と、着なくなったり使わなくなってしまう。どこがどう気に入らないかは言えないのだが。
 これは、「選び方にエゴが入ってい」るからなんだろうなぁ。「相手の気持ちになってものを選」んだわけではなく、選ぶ人が勝手に、あの人にはこれを着せてみたいと思って選んだものだ。
 今わかった。「あなたに似合う○○を診断し、提案します」というサービスは、服や化粧品、アクセサリーをはじめとしてどこにでもあるけれど、「相手の立場に立」てないのなら、止めたほうがよい。
 そして、「相手の立場でものを選ぶ」というのは、「生まれつきの資質」なのであろう。わたしは著者と同意見だ。その資質を持っている人とは、たとえば「素直に育った人」がそうだと思う。くもりのない目で相手を見て、相手の気持ちまで汲みとることができる。そういう人は、素敵な贈り物ができるし、それをビジネスにしたときにリピーターが増えて繁盛する。
 対して、わたしのように変に卑屈なところがある人は、心から「相手の気持ちになってものを選ぶ」ことができない。知らず知らずエゴが入ってしまう。こういう人が圧倒的多数だろう。
 自分がそうだと悟ったら、人に物を贈らない方がよい。義理でどうしても、というときは食べ物や飲み物、いわゆる「消え物」にしよう。残るものは贈らない。お互いにそれがよさそうだ。


今日の久松   ずうっと校正刷りを見ていると、エンドルフィンが出てくるのか、途中から得も言われぬ幸福感に襲われる。

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