やさしい仏教の創造性を活かす方法

はじめに

 仏教は実在論が持たない創造性を持っています。

 物事には実体があると考えればそれは最初からあるのであって、作ったものではなく見つけたものでしょう。

 実体を作ったと言えば実体論者から疑問や批判や説明を求められるかもしれません。

 仏教で実体と相当する概念を因縁や中と考えてみましょう。

 「因縁を作った」「中を作った」と言っても特に疑義は出ないでしょう。

 ただ「因縁を作った」は日本語の言説として通用しても「中を作った」は一般的な日本語として受け入れられないかもしれません。

 「中」という概念自体が日常語ではないからです。

 「因縁を作った」よりは「因縁をつける」はより慣用句かもしれません。

 因縁よりは十二因縁生起、あるいは因縁生起が因縁よりも以前から元来あった仏教語だと思われます。

 すると因縁というものは元々「生起」する性質を持っているということになります。

 仏教では因縁は生起するのが当たり前です。

 「実体を生起する」と言わないのと対照的です。

 役に立たなくても大切なことはたくさんありますが、功利主義やプラグマティズムではないですが役に立たないより役に立った方がいいでしょう。

 仏教から想像力をつける方法を解説します。

第1章 非実在論の目から実在論を見る

 もし仏教で一番大切なのは何かと聞かれれば「因縁」や「縁起」はその候補に挙がるでしょう。

 仏教では三宝帰依と言う考え方があります。

 三宝とは仏、法、僧を指します。

 仏は悟った人、法は教義、僧は教団や教団員を指します。

 仏教と言うのは僧が悟って仏になるための教えです。

 僧が悟って仏になるのは因縁生起を理解した時です。

 ですから法、教えの中で一番大切なことの候補として因縁生起、略して縁起は最有力候補となります。

 ここで大切なのは因縁が生起するという性質です。

 決まった因縁しか生起しない、因縁の種類は決まっている、ある種の因縁は生起しても生起しえない因縁もあるのであれば因縁は実体と同じように見なせますので実在論と事実上変わらないことになるでしょう。

 実在論では実体というものが初めからあり、人間はそれを発見したり認識するものであるという論法や思考法になりやすい考え方です。

 これはやや固い考え方と言えて、教条主義的(ドグマティック)になりがちです。

 実体を創造できるのは神や特殊な能力を持ったものだけであるようなヒエラルキーが造られることもあります。

 宗教の1つの意味は世界に対する説明体系です。

 世界ができた理由でも、人間が存在する理由でも、自然現象を説明する理由でもいいですが何かを説明する機能があります。

 仏教のお釈迦様の特殊性はその様な世界の説明体系を逆になくしてしまったことにあります。

 輪廻転生や人間の実体の存在を否定できる考え方を考案しました。

 それが因縁生起です。

 更に実在論も因縁生起説も含めたあらゆる世俗的な思想を相対化する中道の理論を作りました。

 これらは大乗仏教では空論や中観論と言われます。

 中道や中観の中の理論は全ての自然、世界、社会などに何らかの形で関連する世俗に諦関係する論説を相対化するもので要するに例えば思考や行為に関する教条主義や世界や自然や人間に対する説明体系を絶対的な正しい、絶対的に確かであるとする主張を認めません。

 これらの理論は実在論に対するアンチテーゼとして使われたり、物事の分析や理解に使われると思いがちです。

 ただこれは歴史的経緯からそうなりがちですが実在論を意識し過ぎです。

 一旦因縁や中の概念をマスターしたならばそれを批判や理解や分析だけに使うのは消極的、受動的、後ろ向きで、それよりは何かを創造するために積極的、能動的、前向きに使うようにするべきです。

 仏教と言うのは仏、法、僧ですので仏になるための方法を僧に教えるという体系になっていますが、一旦仏になったのであれば、法を使って建設的、創造的なことを行うべきです。

 仏教の因縁や空、中道や中観や中の考え方は現代数学や現代哲学と同じものです。

 西洋文明が仏教に2000年後に追いついたわけですが、追い越した後の現代数学や現代哲学の発展は西洋文明が圧倒的でした。

 現代哲学が生産的であったかはよく分かりませんが現代数学は抜群に生産的でデジタルに関することは科学、技術、産業含めて現代数学のたまものです。


第2章 因縁をつける

 仏教では実在論は否定しません。

 しかし実在論にも創造性はあるかもしれませんが仏教的に創造的であるためには因縁生起論を用います。

 実体を作る、あるいは実体が変化するという実在論の要素を持つ哲学もあると思いますがそれだと仏教に特徴的なわけではありませんので因縁を用いた想像について考えてみましょう。

 人間にはリアリティや実体という考え方や感じ方が身に沁みついています。

 ですからこれを利用します。

 因縁の考え方を使ってリアリティや実体っぽさを出せればよい訳です。

 実在論における実体と対照的な言葉として因縁生起論における因縁を名詞化して実体と対照させて使って見ましょう。

 因縁を作る方法はずばり「因縁をつける」ことです。

 いろんな因縁を引っ付けて新しい因縁を作るわけです。

 芸術や創作活動ではリアリズムと言う考えがあって作品にリアリティを持たせるために色々な工夫をします。

 例えば妖怪を作ってみましょう。

19世紀のヨーロッパなどではこの世に存在しない生き物のミイラのような物を作って売るビジネスがありました。

人魚を作るために猿や人間の死体の上半身と魚のしっぽ側をくっつけます。

これが造り物と分からないように見せるのが職人の技術になります。

この合成した死体は干からびています。

ミイラのように加工してエキゾチック感を出したり由緒をつけたりします。

その生き物が捕まったのがより古い時代のことであるとすれば今は絶滅したかもしれない未知の生き物が大昔にはいたのかと思うかもしれません。

その地方の伝説を借用あるいは捜索してみると未知の世界へのロマン感が広がるでしょう。

お寺や旧家に大切に祭られていれば信憑性が高まる感じもあるでしょう。

グロテスクな感じに仕上げてみると非日常の感じを掻き立てられます。

この色々な工夫は因縁生起の考え方に基づいてみればリアリティを持たせるために因縁をつけているようなものです。

 因縁をつけることで人魚を作ってみましょう。

 世界中の人魚の伝承や伝説と関係付けて説明を受けると懐疑心も溶けていくかもしれません。

 かくして人魚の実体感を作っていくわけですが、こういった工程の一つ一つが因縁をつけていることになります。

 因縁をつけることで人魚と言う実体感を持つ実体に似たものを新しい因縁として造るわけです。

 これを因縁生起、縁起と言います。

 日本には古いものがたくさん残っているので古いお寺や古い物品などにその縁起がたくさん伝えられ残されています。

第3章 理解までか理解からか

 仏教の特徴として悟るのが目標で悟ってからどうするかについては言及がない点があります。

 因縁生起を理解した後、それで何かを納得して終わりか、それを使って何かしていくかに着眼してみましょう。

 それを使って何かをする場合には未だ一般的に知られていない因縁生起の考え方を普及啓発していくお釈迦様の様な行動が考えられます。

 それ以外には色々な因縁を作ったり改造したり消したり積極的に活用していくことが考えられます。

 因縁を作ることはいわゆる人との縁を作ることではありません。

 要素と体系を構築したり改造したり消したりするということです。

 それは部分的であることも全体的であることもあります。

 部分的な場合はあると便利な新しい概念を作ってみたり、既存の物事の意味付けを変えてみたり、反対したい言説を解体したり無意味化したりするのに使います。

 全体的な場合はある一つの学問分野の理論を構築したり、既にある学問分野の前提を変えてみたり、学問や社会常識の意味を反転させてしまうような価値観を流布して流行させたりします。

 これは既に現代社会で自覚的に行っている人々がたくさんいます。

 これを知っているか知らないかで人生はまるごと変わってしまいます。

 大は小を含むと考えると多分知らない人が損をして知っている人が得をします。


おわりに

 仏教的に言うと我々は普通、仮や戯の世界に生きています。

 実在論や実体は心理発達の過程で身につけられていくものですので実在論的な認識や実体の感覚を持たないまま空や中の概念を身につけられるのかどうか分かりませんがおそらくそういうはっきりした実例はないのではないかと思います。

 実在論は実体意識は仮や戯です。

 実在、実体、仮、戯は最初から事物が、あるいはその総体としての世界が存在することを想定しています。

 それに対して空や中、現代哲学の構造主義とポスト構造主義と同じものです。

空や中、現代哲学の構造主義とポスト構造主義は事物も世界も我々が創造する世界です。

自由に創造とまではいかないかもしれませんが、能力を高めれば高めるほど色々なものを創造できるでしょう。

例えば幾何学は古典幾何学はユークリッド空間という自明、すなわち説明の必要のない空間を前提にしていますが、現代の幾何学ではユークリッド空間は集合論や位相論から作り出した上でその上で幾何学を行います。

空間ごと人間がまず作り出すのです。

我々は限りなく自由に創造が許された世界に住んでいます。

実体と思われるものも部分的に因縁構成をかえてしまう「ずらし」という手法もありますし、解体してしまう「脱構築」と言う方法もあります。

実体と違って因縁は柔軟に生起消滅変形なにもかも自由自在です。

それを不遜と見る立場の人もいるかもしれませんが、これが随所に主となれ、と言われる仏教の主体性であり自由であり解脱であり涅槃であり極楽浄土です。(字数:4044字)

現代哲学を広める会という活動をしています。 現代数学を広める会という活動をしています。 仏教を広める会という活動をしています。 ご拝読ありがとうございます。