見出し画像

「去られるためにそこにいる」常に心に留めておきたい子育ての言葉

 娘を育てはじめて1年と5カ月がたちました。日々子どもと暮らす中で、ときどき「家族との関係の築き方」について考えることがあります。家族はいつもそばにいるから、うっかり優先順位が下がってしまうことがあるけれど、その関係の豊かさは、人生の豊かさに直結すると、実感するようになってきました。そんな中、先日 #ヘルスケアSHIP の対話イベントに登壇。盟友であるDr. ゆうすけと、親や子、パートナーといった「近しい人との関係性」について、とても楽しく話すことができました。

▼直前での対話依頼を快諾してくれたゆうすけくんには感謝感謝

 今回のnoteは、登壇でも触れた2冊の書籍について、感想をまとめようと書いてみました。

自分の育ち方の中で再現したいもの、したくないもの

 誰しも、育ち方は1パターンしか経験していません。親族の仲が良い人、親が2人以上いる人、大人数で暮らしていた人──。パターン自体は無数にありますが、自分が経験できるのは1つだけです。

 自分の育ってきた経過で、良かったことは取り入れて、嫌だったことは再現しないようにしよう。そうは思いつつも、親として、どうあればより「良い」のか。ついそう考えてしまいます。

 そんなときに読んだのが、精神科医であり臨床心理士でもある田中茂樹氏の著書「去られるためにそこにいる 子育てに悩む親との心理臨床」(日本評論社、2020年)でした。もとは、お会いしたことのある編集者さんが手掛けられた、同じ筆者の「子どもが幸せになることば」(ダイヤモンド社、2019年)を購入したのがきっかけです。2冊とも、今読めてよかったなと思える書籍でした。

 まず、秀逸なタイトルに惹かれました。「去られるためにそこにいる」は、心理学者エルナ・ファーマン氏の論文「Mothers have to be there to be left」からとっているそう。もう少し丁寧に、「母親は子どもに去られるためにそこにいなければならない」、「子どもが安心して去っていくのを邪魔しないように、母親は安定してそこにいなければならない」と言うと、より分かりやすいでしょうか。ただ「いつかは去られるんだよ」というだけでなく、「去った後も、本当に自立できるまでは、いつでも戻れる安定した居場所として『そこ』にはいないといけない」という2つの意味が、とても重要だと思いました(原著が「Mother」なので「母親」のまま書いています)。

近いからこそ気をつけたい「甘え」方の話

 書籍の中にあったエピソードを1つご紹介します。大きくなった子どもが一人立ちして実家を出て行く前日に、母親が思い出話を持ち掛けたところ、子どもが照れて拒絶したため、母は悲しい気持ちになって捨て台詞を吐いてしまった──というものがありました。子の拒絶による寂しさが、自己防衛反応による怒りに変わって捨て台詞を吐いてしまい、みんながちょっと悲しい気持ちで終わる。本当は、お互い別れを寂しがりながらも喜ばしいことであるという気持ちを共有したかったのに、一瞬で真逆の状況になってしまう。これは、近い関係ならではの反応かもしれません。

 パートナーや(大きくなった)子どもなどの近い関係だと、「言わなくても分かってほしい」とか、「相手が自分を気遣ってくれるのは当然」といつの間にか思ってしまうことがあります。本書にも、「相手が自分にそうしてくれるのは当たり前という甘えが出て、そうされなかったことに怒ったりする。思い通りにならず気に障る。文句を言うことを見つけてそこにかみつく」といった「甘え」について書かれています。

 「甘え」について私は、「家族だからと言って一切甘えるな!」という話なのではなく、素直な甘え方をしようということだと読みました。寂しさを、怒りによる自己防衛反応に変換せず、寂しさを素直に伝える。筆者も、

(去っていく子どもに対して)自分の弱さ、寂しさを素直に伝えられれば良かった。さらに、あなたは宝物であり幸せだったという気持ちを正直に伝えられればさらに良かった。そうすれば、この先の子どもの人生を支えるメッセージになっただろう

「去られるためにそこにいる 子育てに悩む親との心理臨床」(日本評論社、2020年)

と指摘しています。この状況に陥ってしまった母の後悔を、自分のことのように悲しい気持ちで読みました。

シンプルに気持ちや希望を伝えることの難しさ

 これは親子のコミュニケーションだけでなく、パートナーとのコミュニケーションにも通じるポイントだと思いました。自分の母は過剰に怒ることがあり、私はそこを再現したくないという気持ちがあります。私は今、プライベートで怒る機会はほとんどなく過ごせているのですが、まれにパートナーにイラっとしたとき、ふっと頭によぎるのは、恥ずかしながらすごくねちっこい文句だったりします。

 例えば夫が娘の食事介助をしてくれた後、食器などがそのままになっていたとき。平日は、保育園から娘が帰ってきて寝かしつけをするまでほとんど1人でやっていることもあり、『たまにやってくれたと思ったら、これは私が片付けるってこと? 一連の流れを全部やってくれないと私の負荷は減らないのに……』と思ったことがありました。

 でも、誰も「お前が片付けろ」なんて言っていない。言われていないことまで嫌な方向に想像して腹を立てるのは本当に無駄なことだし、できる人がやったらいいなと2秒後くらいには思いなおし、食器を片付けてからシンプルに「今度から食器も下げてね!」と伝えました。

 子どもに対してもパートナーに対しても、無言の期待をしないように気を付けて、シンプルに気持ちや希望を伝える。そんなコミュニケーションを心掛けたいと思いました。

 ただ「シンプルに伝える」のって、意外と気をつけていないとできなくなってしまうものかもしれません。どちらかが威圧的にコミュニケーションすることが普通になってしまい、そのまま関係性が固定されてしまうと、素直に誤りを認めたり、頼ったりするのが難しくなってしまいます。筋トレのように、自分の感情に流されないコミュニケーションをコツコツ続けていく努力をしたいと思っています(私のような人間は特に💦)。

子どもが何もしなくても、親は機嫌よくそこにいるべし

 もう1つ、本書によく出てくる話として、「小言を控える」というテーマがあります。「小言」とは、「行動の指示を含む言葉」のこと。親が望ましいと思う行動の指示は、「あなたはこうすればもっとよくなるよ」というメッセージを含んでいると説明されており、なるほどと思いました。小言の問題点は、「あなたはそのままではだめだよ」という意味を持つことにあります。

 本書に出てくるいろいろな例を見て、子どもが何もしなくても、親は機嫌よくそこにいること。あなたはここにいていい、そのままでOKというメッセージを暗に伝えること。それが重要なんだと思いました。長く生きている者として、「もっとこうした方がいいのに!」ともどかしく思うような場合でも、できるだけ伝えず(指示せず)、見守る姿勢を自分が守れるか考えると、想像しただけで難しそうです。実際に、4人の子どもを育てる筆者も、難しいことだとは認めています。

 大人になると、「知らなかったために失敗したくない、損したくない」という思いが出てくるのではないでしょうか。現に子育ても、子どもによって個性があるということは分かった上で、それでもどういうケースが多いのか、どんな対処法をしたらよかったか、どうすればいいか、すぐに調べてしまいます。だから、まだ自分で情報を取りにいけない幼い子どもに対し、良かれと思って「こうした方がいい」とか、近道と思われるもの、良いとされる行動を伝えてしまいたくなると思います。もうすぐ夏休みが終わるというのに、夏休みの宿題にまったく手をつけていなかったら、心は穏やかではないだろうし、我慢して見守れるか、ちょっと自信はありません。

 でも、子どもの頃の親の一言って、1つひとつが本当に大きくて、親は覚えていないような小さな一言でも、子どもの方は30年覚えていることもあります。良いことも悪いことも、容易に「呪い」になってしまうのが親子関係の難しいところだと思っています。

「ただそこにいる」とはどういうことか

 本書に出てくるエピソードで、「学校に行くのが怖い」といった子どもに対し、「学校に行きたいなら一緒に行ってあげるよ」といって一緒に登校していた母子の話がありました。母親は「指示」のつもりはなく「提案」のつもりでしたが、親の気持ちを推し量る子であれば「母は僕に学校に行ってほしいんだ」と気付くし、「行きたいなら一緒に行ってあげるよ」は「一緒にいってあげるから、学校に行きなさい」と言っているのと同じことになってしまう、というところにはっとしました。

 筆者との面談をへて母親がその促しをやめた結果、子どもはいったん学校に行かなくなくなりました。ですが、さらに数日たつと、元気が回復したのか、子どもが自分から「明日は学校に行ってみようかな」と言い出しました。そのとき、「でも何で休んでたの?って友達に聞かれたらどうしよう」と言ったことから、母親は想定問答集を作って子どもと練習をしたそうです。翌日、子どもは登校しませんでした。

 子どもは自分の不安を口にしただけなのに、親はどうやってその不安を取り除くか、ただちに行動してしまっています。これについて筆者は

不安になるたびに親にどうしたらいいか教えてもらわないといけなくて、親のいない学校は怖いところのまま。親としては何かしたい気持ちはやまやまだが、目の前の子どもの不安に寄り添い、どの方向に動き出すのか見守る。即効性はなくても、この先の子どもの人生で役立つ力が育つ

「去られるためにそこにいる 子育てに悩む親との心理臨床」(日本評論社、2020年)

と説明しています。子どもは「どうしよう」と言っているだけであり、「どうしたらいいか分からないから何とかしてほしい」とは言っていない。「ただそこにいる」とは、「子どもの不安を感じながらそこにいる」ことなのだと語られていました。難しそうすぎる……!

 子どもが不安や恐れを感じていることに、「親が」耐えられなくて、ついつい指示をしてしまう。子どもが他人から「いい子ですね」「うまく育っていますね」と評価されることを望んでしまう親の気持ち。ひいては「良い親だ」「ちゃんと子育てができている」と、自身の不安を他人に解消してもらおうと思ってしまう親の弱さ。子育てとは、親自身が自分の不安や弱さに耐え、越権行為をしないことに耐える修行のようだと改めて思いました。

ポジティブな言葉も呪いになるなら、どんな言葉をかければいいのか

 本書で印象的だった内容として、「好きなことをしていいよ」「自分で決めていいよ」と言う言葉、さらに言えば「幸せに過ごしてくれれば何でもいいよ」という、一見「良く」見える言葉すらも、「好きなことをしろ(できれば親を喜ばせるものを好きになれ)」「幸せそうな振る舞いをしろ」と、子にとっては暗に指示が含まれる言葉だということが新鮮な気づきでした。

 じゃあどんな言葉をかけたらいいのか? 具体的な言葉は、『子どもが幸せになることば』の方に書いてあります。カバーのそでに書かれているコピーには、『子どもはもともと、元気な存在です。元気でいさせてあげるだけで「幸せになるためにどうするか」を自分で探して、動き始めます。』とあります。

 幼少期から高校生くらいまでのいろんな時期に遭遇しがちな場面で、「言いがちなことば」と「信じることば」の対比になっています。子どものためを思って言ってしまいがちだけど、実は親が目先の安心を得ようとしていて、子どもの元気を奪う言葉「言いがちなことば」。そして子どもの元気を引き出し、親自身の気持ちもらくになることば。そして子どもの幸せな自立につながることば「信じる言葉」。歯磨きをいやがったとき。食べ物をこぼしてしまったとき。そんなときの声がけが対比で紹介されています。

 「どうやって子どもを笑わせようか、どうやって喜ばせようかと、それだけを考えてのんきに育児を楽しんでもいい。その方が、子どもは幸せになるし、親も育児の時間が楽しくなる」と、こちらも前向きに勇気づけられる書籍でした。

基本方針を念頭に、できる範囲で実践へ

 ちなみに『去られるためにそこにいる 子育てに悩む親との心理臨床』の方は、一度目に読んだ時は、一瞬在宅医療の話が始まったりして、幅ひろな印象がありました。これはあとがきを読んで、雑誌「こころの科学」の連載をまとめた書籍だと知り、合点がいきました。高齢夫婦の外来の話や認知症がある方とのACPの話なども出てくるので、在宅医療の診療所を運営している私にとっては身近で共感のできる話ばかりでしたが、子育てに役立つ話をたっぷり読みたい!という気持ちで読むと、親子間の話以外のことも出てくるのでとまどうかもしれません。そこだけご注意ください。

 「どうすればいいか」というより、「どうあればいいか」を考えようというのが筆者のスタンスです。とはいえ、書籍では「親は行動を支持する言葉や小言を控え、子どもがリラックスできる家庭を目指す。リラックスできる家庭で子どもの元気が回復し、自発的な動きが出るのを見守る」というシンプルな基本方針が繰り返されます。「分かっているけど難しいんだろうな……」という思いはよぎりますが、繰り返すように筆者自身も親であり、現実の難しさについても語られています。行うは難し、でも念頭に置いてあるだけで行動は変わるはず。ときどき読み返したい書籍でした。

▼ちなみに、対話イベントを主催した #ヘルスケアSHIP は、来年2023年1月末まで新規メンバーを募集中です。と最後に宣伝しておきます。

▼前夜祭として他のメンバーと1時間ゆるっと話したTwitterスペースでも後半は近しい人との関係性について話しています。800人以上の方に聞いていただきました。


この記事が参加している募集

読書感想文

これからの家族のかたち

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?