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「時間を溶かす」のは誰だ

先日、「時間が溶ける」という言葉を目にした。確かInstagramの投稿で「○○は時間が溶けるのでやりません」というように使われていたと思う。「時間が溶ける」というのは若者言葉だそうで、「時間がどんどん過ぎていく」という意味だそう。若者言葉を伝聞形式で書いてしまう私は既に若者ではないということなのだろうか。

毎日、ネットでも本でもたいてい知らない言葉に出くわすが、時間が溶けるという言い回しは、どこかおもしろいというか、不思議な感じがするので、初めて見たその時、つい声に出して読み上げてしまった。

普通に「時間が過ぎる」「時間がなくなる」と言えば、どこか淡々としていて、あまり切迫感がないように感じられる。単に情景や状況を言葉で表しているだけのように感じられる。だが一方、「時間が溶ける」と言えば、大切なモノが徐々に形を失い、消えていくようで切迫感というかどこか儚さを覚える。溶けるという比喩は実に巧みに、時間の貴重性を言い表しているなと感じる。若者言葉とは言えど奥が深い。


「時間が溶ける」という表現が若者の間で生まれるには、やはり若者の時間に対する意識が強く表れているなとも感じる。「タイパ」という言葉が流行っているように、若者は時間に対する意識を強く持っていると考えられる。「Z世代」などとよく言われるが、今の若者は時間に対する意識が強い。若者というと曖昧なので10代、20代くらいの人々と考えてもらうとよいかもしれない。以前、書いた新書に関する私の記事を参考程度に。


色々な議論はあろうが、上記の記事の中にも書いたように、結局は身の周りのやることや情報、選択肢が多過ぎるのである。スマホやタブレットからたくさん情報や通知が流れてくるし、サブスクサービスやネットショッピングなども選択肢が多過ぎて、情報を処理しきれない。さらにSNSや動画配信サービスなどは次々と好みに合わせてオススメや広告を持ち出してくる。

そんな状況にあればそりゃすぐに時間は溶ける。今までに無いくらいの情報や通知が来たら、処理できないのは当たり前である。時間がいくらあっても足りないくらい、我々の多くはSNSやデジタルデバイスに時間を奪われている。


ここで私が興味深いといつも思うのは、「じゃあSNSの頻度落とし、やデジタルデバイスの使用を控えよう」とはならずに、あくまで「時間が溶ける」「タイパが悪い」などと外的な要因に理由を見出そうとする点である。時間は誰しも同じように過ぎていくし、映画も動画も本も作り手が意図や気持ちを持って作り上げたモノなのである。それを自分の自分の時間の無さを、自分の行動の内省ではなく、身の周りのせいにしてしまうのはどうかと思う。

答えとしては簡単である。個人差はあろうが、浴びるように得ている情報や通知を制限すればいいだけである。何かに費やす時間を減らせば、その分新しく時間を生み出すことができる。しかし、答えはシンプルであるが、それがもはや難しくなっているのかもしれない。もう自分の行動は変えられないというくらいに依存や中毒になってしまっている、もしくは自分が変わっても社会がそれを無かったことにしてしまうくらい飲み込んでくるという実情もあるかもしれない。デジタル社会の慣性にはもう抗えないのかもしれない。

時間が溶けるとは言うが、溶かしているのは紛れもなく自分だ。また、タイパが悪いわけでも無い。選択肢の多さや情報は多い方が良いと今までは切望してきたはずだ。それらを言えば言うほど、自分の哀れさや自己管理能力の低さを露呈することになる。確かにデジタル社会は手強い。だが、その中で都合の悪いことがあった時に安易に時間やコンテンツのせいにしてはいけない。そこでそれらを消費し、その時間を生きているのは紛れもなく自分自身なのだから。

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