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置かれた場所で咲けなかった私へ。

高校生の頃。

当時50代くらいの、担任だった女性の先生から渡された、連絡帳のようなものに書いてあった言葉。

置かれた場所で咲きなさい

『置かれた場所で咲きなさい』渡辺和子著/幻冬社

生まれて初めてこの言葉に触れた時

私は高校を休みがちだった。


高校生の頃の解釈


『置かれた場所で咲きなさい』という書籍があることを知らなかった無知な私は、その言葉を、担任の先生からの言葉として受け取った。

その後、書籍のタイトルであることを知った。


しかし
最初に担任の先生からの言葉だと認識してしまったために、
「咲きなさい」という言葉遣いから
どうしても非難の香りがした。

さらに心の余裕もなかったため

毎日学校へ行っていない自分と
時々学校へ行っても生き生きとしていない自分を責められているような気がした。

同時に
「あなたは与えられた環境で、咲けていない。」
という解釈をしていた。

そのため
どのような意図で、なぜ今、先生がこの言葉を私に送ったのかと疑問で、毎日その理由を考えていた。
そして、どうしてもその本を読む気にならなかった。


とても厳しい先生だったため

授業へ出ていないことも
部活動も休んでいることも
学力が低下していることも
卒業に必要な単位数のことも

学校を休んでいること自体も。

何もかもが、先生を不安にさせているようだった。

気遣う言葉と優しい笑顔の奥に
焦りと非難が滲み出ているように、私には見えていた。


その後、なんとか学校へ通い、試験を受け
卒業することはできたものの

高校の中での生活が「置かれた場所」だとするのなら
「咲けている」とはとても言い難い高校生活だった。


今の解釈


今なら、少し違った解釈ができる。

与えられた環境で、自分にできる最善を尽くそう。
きっと最後には、幸せになれる。

柔らくて、優しくて、
でも少し力強くて、頼もしい言葉。


しかし、今。
自分はどうだろうか。


今の状況に不満を抱くことはあっても
最善を尽くしているだろうか。

そもそも、“与えられた環境”というのは
自分で“選んだ環境”ではないのだろうか。

だとしたら
“置かれた場所”というのは
“自分が望んでいた場所”なのかもしれない。


高校生の頃もそうだ。

私は自分で「高校へ行く」という道を選び
通う高校を選び
部活動を選び
一緒にいる友達も選び
1人の高校生として生きていた。

そこで咲くことができていない花だったのだとしたら

努力が足りず、最善を尽くせていなかったのか。


…いや、そんな風には思いたくない。
当時の私は私なりに、最善を尽くしていた。

できることはやっていた。
できないことは、どんなに頑張ってもできなかった。

過去の自分を、今の自分が責めても
過去の自分が不憫になるだけで
誰も幸せにならない。
…やめよう。


ここで。


今になって
この言葉が再び、私の頭の中に浮かび上がってきている。


今の私は、置かれた場所で咲けているのだろうか。


花は、咲く場所を選べないだろう。
それでも、とても美しく咲いている。


この世界で、この時代だからこそ

環境を選ぶ選択肢があるということ
そこで頑張るか、諦めるかの選択肢もあるということ

これだけで、すごいことなのかもしれない。


ここで、精一杯、全力で頑張るんだ。

それでもダメだったなら、場所を変えればいいんだ。

場所を選ぶ選択肢が、自由があるのならば。

そもそも、その自由がないのなら
そこから離れることができないのだから。

我慢するのではなく
無理するのではなく

どんな環境でも、最善を尽くそう。
そこで、幸せを見つけよう。
きっと最後には、美しく花が咲くように、輝いてるはずだ。


…そんな風に今、感じている。


『置かれた場所で咲きなさい』


なお、これまで一度もこの本を読んだことがない。

そのため、この言葉が本来どのような意味を持つのか
本ではどのように語られているのかは、わからない。



…今ならば、素直に読めるだろうか。

あの時担任の先生が私に伝えたかったことが、わかるのかもしれない。



2024.1.29

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