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〈精神〉を想像せよ──モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』 読書感想・後編

読み人のまさきです。

前編からだいぶ間が空いてしまいましたが、モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化』 の読書感想、渾身の後編をお送りします。

モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化』文藝春秋

前編は、精神の変遷を捉えるにあたり、キーワードとなる「錬金術」とは何なのか、そして、デカルトという哲学者がどのように時代を変えたのかについてまとめました。

(前編はこちらからどうぞ)
〈精神〉の歴史的変遷を辿る──モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』 読書感想・前編

この本の中盤では、いよいよ「精神とは何か」に迫っていくことになります。それではどうぞ。


■私に世界を介入させるもの

早速、本から引用してみたいと思います。

個々の精神を小さなサブシステムとして含む、広大な〈精神〉がある。この〈精神〉は神にたとえることができるでしょう

これはベイトソンの言葉です。つまり、われわれ個人の精神と、広大な精神(「神」や「大いなるもの」と言ってもいいかもしれません)が、入れ子構造になっていると考えられます。イメージとしては、マトリョーシカのような構造でしょうか。

このような構造を踏まえて、さらに読み進めると、こう書かれています。

フロイトは、自我の結晶化がこのように比較的最近の現象にすぎないことに気づいていた

前編では、デカルトの発見により、自我が生じたことで時代が変わり、人間の意識が変わったと述べましたが、この自我というものは比較的最近の現象に過ぎないということです。

なぜこの現象が起きたかというと、現実の世界、すなわち環境から不快な刺激を受けた結果として、自我は結晶化を強いられるということです。

産業革命などによって現実が機械化・物質化し、それによって人間が不快な刺激を受けたため、耐えられなくなり、防御の鎧として自我が必要になったということですね。

自我が生まれる以前は、「自分は何者か」というような意識はなかったわけです。今となっては、その状態がどんなものだったのか想像がつきにくいですね。

現代では、精神分析の分野で、人間には意識と無意識があることが受け入れられていますが、意識と無意識についてもこのように書かれていました。

身体と無意識がひとつであることをライヒは臨床の現場において立証した

ライヒは精神分析家の名前です。彼は、「無意識が身体である」と立証したと書かれています。

確かに、「身体知性」とも言いますよね。私はコーチングの仕事をしていますが、思考ではなく、五感や直感、身体に働きかけることで何か気づきが得られることも多く、身体に聴くことも大切なスキルとして使っています。

例えば、歩いているとアイデアが浮かびやすいのも、身体の声を聴いているという意味では同じだと思います。

どうやら、精神を理解するには「身体」が重要なキーワードのようです。

例えば、ダンスという表現方法があります。言葉では伝えられないことを表現したくて踊るわけですね。これは私たちにも理解できることです。つまり、身体が知っていることを表現したいから踊るわけです。思考ではない何かが踊らせていると考えると、そこには無意識が作用しているのではないかと考えられますよね。

こんなことも書いてありました。

自我はそれ自体ではエネルギーの源泉を持っていない。無意識こそがその存在の基盤なのだ。細胞の中の細胞核のように、自我もまた〈精神〉の中のひとつの収縮点である。そして、〈精神〉とは、身体全体によって、五感すべてを通して得られた知の総体である。(中略)脳とは思考の源泉ではなく思考の増幅器ではないだろうか、知が生じるのは脳においてではなく身体においてであって、脳はただそれを拡大し整理するだけではないだろうか

なかなか理解するのも大変ですが、「精神」というものが少し見えてきた感じがします。

精神とは、頭も身体も総動員した知の総体だというわけですね。自我が生じている状態は、思考、つまり頭だけで考えている状態だとすると、それだけではエネルギーを発揮できないわけです。意識だけでなく、無意識、身体、五感すべてが統一されていないと、自我から真の自己にはなれない。精神というのは、そのエネルギーの源泉そのものだと理解できます。

日本にも武道や茶道などの伝統や、能や舞踏などの芸事があり、これらは精神性が高いものと感じますが、おそらく人は、頭と身体が見事に一体化しているような状態を見ると、精神性が高いと見なすのではないでしょうか。この辺りはまだ抽象的で感覚的な話ですが、精神の理解において身体性が重要であることを覚えておきたいと思います。

さらにその先には、こんなことが書かれています。

身体と無意識がひとつだという事実は、「客観的」知識などというものは実はありえないこと、そしてあらゆる本当の知識は他者とそして対象とかかわり合う関係を必然的に生み出すものであることを教えている

ここも読み解くのが大変ですが、身体の解放には自然も含めた他者が必要であると言っているのだと読みました。自分だけで身体の解放を行うのは困難であり、自然や他者との関わりが重要なのです。

そして、こう書かれています。

私の言う〈精神〉とは、要するに、世界と身体との結びあわさったものにほかならない

精神とは、世界と身体がつながったものであり、自分自身に「世界」を介入させるものだと理解しました。精神を言葉で理解するのは難しく、語るのも難しいですが、実感を伴った精神の理解に近づいている気がします。

■グレゴリー・ベイトソンの精神論

続いて、いよいよグレゴリー・ベイトソンの記述について触れていきたいと思います。

ベイトソンの著作は、私自身まだ読んだことはないのですが、あくまで著者モリス・バーマンが『デカルトからベイトソンへ』の中で語っているベイトソン論を参照する形で考えてみたいと思います。

前編でも書きましたが、ベイトソンの偉業の一つに、ダブルバインド理論の提唱があります。ダブルバインドとは、矛盾を感じながらもその場から逃れられない状況を指します。要するに、選択肢が2つあってもどちらを選んでも不利益を被るような状況で、かつどちらかを選ばざるを得ないという精神的な苦しい状況をダブルバインド状態と言います。

ベイトソンは、ダブルバインドの状況に苦しんで精神病を患った患者に対して、患者本人ではなく家族全体を調べ、ケアする必要性を説きました。

これは画期的なことだと思います。その場から逃れられない状況があるなら、その場に何か問題が起こっていると考えるべきです。われわれはしばしば患者本人の問題に焦点を当てがちですが、そのような状況に直面しているのは、あなたに原因があるのではないかというアプローチだけでは問題の本質を捉えきれません。個人も全体の一部であり、その全体に問題があるからこそ個が痛むという現象が起きるのです。

これがベイトソンによるダブルバインド理論の捉え方です。この考え方は、環境に目を向けることの重要性を示しており、非常に重要な指摘だと思います。

ダブルバインドからの脱却、つまりどのようにしてこの状態から抜け出せるかについて、本書では以下のように述べられています。

少なくとも個人のレベルでは、「創造性」がダブルバインドからの脱出口になることが多い

さらに、

ダブルバインドからの唯一の抜け道は、新しい、健康な行動様式を可能にしてくれるような、より高次のレベルの全体論的意識へ飛躍することだろう

この全体論的な意識への飛躍は、創造力を働かせることだと、ベイトソンやモリス・バーマンは考えています。

これに関連する考え方として、私が好きな本で、近内悠太さんの『世界は贈与でできている』があります。この本でも、ダブルバインドについて触れられており、そこから逃れるためには、われわれがすでに様々なものを受け取っていると感じ取る力が必要だとされています。それを促進するのは、想像力であると、近内さんは述べています。

私は、ベイトソンの言う「創造力」よりも、近内さんの「想像力」のほうが、なんとなく腑に落ちる気がしています。おそらくその想像力の働かせ先というか振り向け先が、精神なのではないかなと感じます。しかも、先ほど広大なシステムという表現もありましたが、かなり高次の精神へと想像を働かせる力が重要ではないかと私は読み取っていました。

では、その高次の精神、広大なシステムというものはどういうものなのかについてさらに考えてみたいと思います。本の中では、このように書かれています。

社会的組織も政治的組織も川も森もすべて、〈精神〉を持った生きものだ

われわれ個々の人間がサブシステムとして含まれている、より大きなシステムにおいて、精神がどのような特徴を持ち、その中で自分の精神がどのような影響を受けているのかを考えることが重要だと思います。

特に地球の環境問題が叫ばれている中で、地球という大きなシステムがどのような精神を持ち、その精神に対してわれわれ個々のサブシステムがどう影響を与え、受けているのか、またどう影響を与え合えるのかをイメージすることが重要です。

この辺りは非常に感覚的な領域であり、精神というものが得体の知れないものとして扱いづらいと感じることもあります。しかし、こうした大きな精神のケアをすることが、いずれ自分自身に還ってくるという意識で、どれだけわれわれ一人一人が自らの人生を全うすることができるかが問われているのだと思います。

モリス・バーマンは、ベイトソンの功績をこのようにまとめています。

ベイトソンの著作においては、〈精神〉が従来の宗教的コンテクストから解放され、現実の世界における具体的・動的な科学的要素(プロセス)であることが明らかにされている

ベイトソンの功績として「科学的」という表現があり、この点については私もまだ理解が必要だと感じていますが、福岡伸一さんの「動的平衡」の考え方に近いものがあるのではないかと思いました。「〈精神〉は、変化を通して変化を免れる」という表現は、まさに「動的平衡」を想起させます。精神はシステムを生命として維持し、継続させるために存在するものだと理解しました。

その意味では、文化もまた精神と言えるかもしれません。例えば、ある地域に伝わる文化というものは、その地域というシステムが維持し継続していくために必要なものなのです。

私が特に好きな一文が次の文章です。

人間の文化というものも、自然史のなかのひとつのカテゴリー、いわば「人間と自然の間の半浸透膜」として捉えられるようになるだろう。自然を支配することではなく、自然のなかに人間が調和することこそが大事だと誰もが考えるだろう

なんと美しい表現でしょう。こういう文章がモリス・バーマンの凄さです。

先ほど、精神というのは「世界と身体との結びあわさったもの」という表現がありましたが、文化も精神として捉えるととても理解しやすいと思います。

■私なりの現実への道筋

最後に、この本から得た知恵をどのように現実に生かせるかについて、私なりに考えてみたいと思います。

この本を通して得たものは、精神という実体が捉えづらいものが、どのように存在するのか、そのイメージがしやすくなったという点です。精神を想像する力がついたとも言えます。

この本では、「精神は、世界と身体との結びあわさったもの」と考えられていたので、精神と交流するためには身体や自然の声を聞く実践が必要だと感じます。

具体的な実践として思いついたのが、農作業や森林作業です。先日、ボランティアで森林整備に参加した際、共有地の森をみんなで整備する中で、身体を動かし、木や土に触れる作業が、まさに「精神を満たしてくれている」ように感じました。これは、世界と身体が結び合わさることで、精神が喜んでいる感覚があったのだと思います。

農作業では、収穫物を食べることで生活も満たされ、一石二鳥の喜びを感じられるでしょう。最近、家庭菜園や市民農園をする人が増えているようですが、こうした喜びを感じる人が増えているからかもしれません。私も家族と一緒に農作業にもいつか挑戦できたらと思っています。

また、私はコーチングを提供しており、対人支援の立場からも多くのヒントを得ました。たとえば、人が精神的に、特にダブルバインドの状態に苦しんでいるときは、本人の声に耳を傾けることは当然重要です。しかし、それだけでなく、彼らがどのような環境、例えば家族や職場などに身を置いているのか、その環境が何を語っているのかにも意識を向けることが重要です。特に、健康的な精神を維持するためには、適切な居場所に身を置くことが非常に重要だと感じます。

本人が所属するシステム、すなわち社会やコミュニティを感じながら、自分自身がどこにいるとよいのか、自分の才能をどのように活かせばよいのかを考える機会を提供していければいいなと思っています。学びの機会や場づくりを通じて、こうした問いに取り組む手助けをしたいです。

「適切な居場所」に関しては、國分功一郎さんの『中動態の世界』の考え方や、國分さんが研究対象とするスピノザの「自由」の考え方にも共感しています。いずれこのテーマも取り上げたいと思っています。

我々人間が精神をより高次のレベルに引き上げ、精神性を磨くためには、大きなシステムや世界をどのように感じ取れるかが重要です。モリス・バーマンやグレゴリー・ベイトソンは、ダブルバインドからの脱出には創造力が必要だと述べています。私は同時に、想像力や直観力が重要だと思っており、それらの力を鍛える方法も探求していきたい分野です。

想像力や直観力を発揮するには、身体や他者との協働が鍵となるでしょう。身体を使って五感を豊かにし、他者との関係性の中で共感を感じ取ることが重要に違いありません。これらのテーマについて哲学的に探究しつつ、現実の生活にも取り入れていきたいと考えています。

以上、前編・後編にわたってお送りしてきた『デカルトからベイトソンへ』の感想をこれで締めくくりたいと思います!

長文をお読みいただきありがとうございました。

それでは、また次回、別の本の感想でお会いしましょう。

ありがとうございました。

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