Masafumi Kawachi

フィンランドAalto University修士課程卒。一般社団法人Deep Care…

Masafumi Kawachi

フィンランドAalto University修士課程卒。一般社団法人Deep Care Lab代表理事/公共とデザイン共同代表。祖先・未来世代・山川草木などをケアできる想像力を育むための活動を、手さぐりでおこなっています。

マガジン

  • 雑考堆肥

    日々のこころのもやもやと雑感を堆肥化してく

  • WONDER story

    • 15本

    いのちのワンダーをめぐり、多様な実践をおこなっている方々へのインタビューを物語として綴る

  • PROJECT

    • 15本

    Deep Care Labのプロジェクトやイベントのレポート

  • PUBLIC & DESIGN|公共とデザイン

    • 61本

    企業・自治体・共同体と実験を共創するソーシャルイノベーション・スタジオ「公共とデザイン」が運営するメディアです。クリエイティブ視点でガバナンス、民主主義、市民参加などの理論と実践例をお届けします。 プロジェクトのご依頼、登壇や研修、協業などのご相談はサイトのお問い合わせからどうぞ。 https://publicanddesign.studio/

  • 人間性の再想像

    考えを紡いでいった先に、ぼくなりの思想の織物が出来上がれば儲けもの。2020年より、もっぱらのテーマを人間性の再想像と称し、現代から未来に必要な人間性を思索。

最近の記事

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あらゆるいのちへのケアする想像力を。Deep Care Labの設立のお知らせ

先日、Deep Care Lab (DCL)という、一般社団法人を立ち上げました。川地真史と田島瑞希の2名による共同創業となります。「あらゆるいのちへのケアする想像力をはぐくむ」というパーパス(存在目的)を掲げ、複雑な課題に対峙するため研究と実践をかさねていきます。 本稿では、設立にあたりどのような問題意識をもっているのか、何を大事にしていきたいのか、なにをやっていくのか、をご紹介できたらと思います。 <私>と半径2mがよければ、それでいい現代100年後の地球はどうなって

    • 生活と芸術のあいだの行為を考える: わたしにとってのサッポロ一番はなにか

      東京に出張できている。そういえば会社をつくったばかりのときは、東京にいくたびにアポをいれたり、人に会おうと意気込んでいた。大した営業心なんてぼくにはないので、つづかない。最近はいくつか展示を回ることがおおい。 昨日は、渋谷の「共棲の間合い」展にいってきたのだけど、そこではまさに生活と芸術のあわいに位置付けられるような思想が貫かれていたように思う。 村上慧は、代々木公園で拾った大量の落ち葉を搬入して、落ち葉で足湯を作っていた。大きな木枠のなかに落ち葉をかきいれ、米ぬかと水を入

      • ごっこのような。失われる想像力。

        昨日仕事でやっていたワークショップのなかでも、こどもの力って半端ないんですよ、ほんとに。っていう話が出てきた。こどもが育てた植物や野菜を地域の人にこどもが手渡したり、メンタルもからだも疲れている大人に渡したら、グッとくるよね、なんて話がでていた。 こどもは社会の中で守られなければならず、一人前でない。そんなこども観がいまだ強くもあるが、それと同時に、こどものちからを見つめ直そうという運動もあちらこちらで起きているように感じる。 それは、これだけ「こどもに頼らないといけない」

        • エネルギーをかけるとは、共に苦しむこと

          躁鬱をもち、落ちてるときはひたすら過眠してしまい起きられない。起きられなくてバイトの面接にもいけないし、スーパーでの買い物もうまくできない。『生きてるだけで、愛。』には、そんな主人公・寧子の様子が描かれる。 寧子とひょんなところから同棲している菅田将暉が演じる彼・津奈木もまた、小説家を目指していたのにゴシップ記事を書いて日々を過ごす。毎日、家で寝ている寧子にお弁当を仕事帰りに買ってくる。 焼きそばとカツ丼を買ってきて、寧子が食べると「何これ、つめた!」「外、寒かったから」と

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        記事

          生活と芸術のあいだの行為を考える

          最近はデザインということばよりも、もっぱら芸術のことをかんがえることが多い。仕事でおてらにて芸術祭をやろう、となっているのでそれもあるのだけど、やっぱり生きる営みから切り離せないと感じる。 じぶんはふとした瞬間に「死にたい」と感じたり、こころが追いつかなくて、からだが動かなかったりすることがままある。これはぼくの固有の問題でもありながら時代の空気としても、似たような生きる大変さを抱えるひともいるのではないかと思う。 こうやって、ものを書くのも毎日おこったことや、感じているこ

          生活と芸術のあいだの行為を考える

          稲川淳二や模様替えやイマジナリーフレンドからみる、生きるわざ

          最近は、ずっと技や技法ということについて、考えている。ずっと考えている、という表現をすると、四六時中ずっと寝食のあいまにも研究しているすごさ、みたいなものが滲みでる。けれど、密度はうすく、それでも長い期間にわたって、ぼんやり自分の身体の内側にうずまいていたり、外側をふわふわ漂っている。そんな感じだ。 そういうテーマは大体、自分にとって向き合わなければ前に進めないものがおおくて、ふとした瞬間に目が向いてしまうキーワードとして、タグ付けされている。 妻はテレビっ子なので、一緒

          稲川淳二や模様替えやイマジナリーフレンドからみる、生きるわざ

          日記や記録を書くなかでの、どうしようもなさ

          昨日は朝7時すぎに家を出た。東京・下北沢で11時から打ち合わせの予定だった。少し余裕をもって着いておこう。そう思って、早めに家をでた。朝おきて、急いでトーストを焼いて買ったばかりのマーマーレードジャムの瓶をあける。瓶ものの調味料やらをあけるときには、やたら力がいるものもあるが、小洒落て落ち着いた青みのラベルシールが貼られている上品ぶっているジャムはやたら簡単にあいた。ほぼ力を入れてないんじゃないかくらい簡単にあいたから、一瞬すでに誰かがあけたのでは..なんて疑念もよぎった。妻

          日記や記録を書くなかでの、どうしようもなさ

          ないなら、つくることで生き延びる

          世界に道具にされてしまう、という強い言葉が頭のなかに反芻している。 労働の歯車と化すこと、働けないものは道具として役に立たないと、勝手にどこか思ってまってはいないか。子どもを産めないのであれば、生殖器として機能しない、といったような政治家の発言。 仕事を辞めて2年間、留学していた間は、とにかく不安でしかたなかった。自分が働いてないから、社会に価値を生み出せていないのではないかと思った。その不安は、道具としての価値を帯びない自分はいてもいいのだろうか、という不安でもあった。と

          ないなら、つくることで生き延びる

          魂を傷つけることと、おっさん穴にすぐ入ること

          漫画『バガボンド』が大好きなのだけど、特に主人公の宮本武蔵の幼少期の「おっさん穴」のくだりがとてもいい。武蔵は天下無双を目指して、強者をどんどん切っていく。ただ切ったものたちからの怨念があったり、終わらない戦いの無限連鎖のようなものに絡み取られていく。 そんなときに、昔、山の中でただ無心で刀を振るっていたときの記憶を思い出していく。小さな洞穴で武士の白骨死体の傍らで、ただ愉しくただ刀を振るう。人を斬り、天下無双に近づくために振るっていたのではない次元で、刀を振るうことそのも

          魂を傷つけることと、おっさん穴にすぐ入ること

          暮らしの技の消失と、じぶんという存在の萎縮

          鷲田清一さんの『生きながらえる術』を読んだ。生きながらえること、いきいきと生きること、死なないこと..そのためにいろんな「わざ」や「すべ」を身につけていくこと。じぶんのことばになりきらない関心に対して、鷲田さんはいつもうまくことばをあてがっている。 実存的な不安は、歴史の中で先人がどうだったのかは知らないが、現代社会ではこれまでにないくらい渦巻いていると思う。ただ生きててそれでいいのかなと思ったり、働いていて仕事を通じて社会にかかわり、価値をもたらしていることで安心が得られ

          暮らしの技の消失と、じぶんという存在の萎縮

          反逆のあらわれとして行為の崇高さに宿る狂気

          guca owl というラッパーのDifficultという曲に、 「とっておきの暴言の為に、真面目な本を読んだりするんだ この世界が真っ直ぐなら俺も真っ直ぐにやるよ」と、こんな一節がある。 この世界はまっすぐじゃない、ということだ。だから捻くれ、はみだし、抵抗しないと、世界にすでに存在する歪な型に当て込められてしまう。 ものすごい小説や芸術作品にふれたとき、そこから「狂気を感じるなあ」といった”かんじ”が浮かんでくることがある。 例えば、作家の村田沙耶香さんがとても好きな

          反逆のあらわれとして行為の崇高さに宿る狂気

          日々に蠢く無数の感情とふるまいを

          「本当にその日を生きる」ってどういうことだろう、と思う。朝起きると、冬の朝はほんとうに暗いことを知る。夜明けまでにこんなにも時間がかかるのかと知る。もうすぐ、冬至だなと思って調べたら、明日だそうだ。 ねむたい目をこすりながら、ベッド脇のスタンドライトを灯す。人工的な光は、この時間に起きると目を突き刺してくるようだ。 「本当にその日を生きる」ってことは最近ふとよく考える。それだけ、毎日が慌ただしく、するすると日常が流れていってしまう気がしていて、師走だよなあ。 レイチェル・

          日々に蠢く無数の感情とふるまいを

          身体と死という有限性から、一瞬を汲み尽くす

          有限性、という言葉はいろんな角度から見直されるべきかもしれない。限りがなければ、人は思うように生きていけない。 フロムが『自由からの逃走』で書いていたのは、そういうことだ。個人が法権的社会の中で階級的なものから解き放たれ、自らの生き方を模索する中世。無限の情報に溢れて、何者かにならなければと逼迫したプレッシャーが蔓延する現代。 最近みた『すばらしき世界』という映画では、殺人罪で13年刑務所にいた三上という中年男性が、娑婆にもどり、なんとか生きようとするが、日本社会での復帰

          身体と死という有限性から、一瞬を汲み尽くす

          終わることで更新される関係性

          昨日、終わりや別れ、死をテーマにしているスタートアップの方とお話しをしていた。彼は、離島の集落に住んだことから、なくなっていく集落がたくさんあるけど、当人たちは少なからず負い目を背負っている、と言っていた。それは「自分たちの代で終わらせてしまう」負い目だそうだ。 でも、中にはそれを一つの自然の摂理だね、って捉えて、受け入れられているひともいる。この終わりと別れへの向き合い方が、とても大切だと感じて、会社をつくったという。素敵だなと思った。 亡くなったひと、終わったものごと。

          終わることで更新される関係性

          仏のいへになげこめば。「手放す」からはじまる、「受け取る」とケア

          受け取るって、やってきているものに気づくことでもある。昨日は、バトンを受け取ることについて主に書いた。ぼくらはいつだって、多様な刺激ーまたは、呼びかけcallと言ってもいいかもしれないーにさらされている。その呼びかけcallに応答responseするのかは、その呼びかけを聴き取り、それを受け取る=引き受けようと思えるか。それを引き受けた上で、その人なりの応答の仕方が生まれていく。その複数の応答の仕方には、創造性が宿る。 前回の終わりに宗教性と受け取る、ということを書いてみた

          仏のいへになげこめば。「手放す」からはじまる、「受け取る」とケア

          受け取るためには、気づくこと。贈与としてのバトンを受け取る。

          何かを「受け取る」ということは、とても日常的な動詞であると同時に、宗教的な位相まで深みを持ちうる。 郵便物を受け取る、メッセージを受け取る、好意を受け取る、プレゼントを受け取る、フィードバックを受け取る、バトンを受け取る…。 こうして用例を並べてみると、それらが向こう側から「やってくる」ものだということがわかる。そして、やってきたときに受け取ることが難しい類のものもあれば、比較的受け取りやすいなというものもある。 郵便物を受け取るのは、サインをすればいいからとても簡単だ。し

          受け取るためには、気づくこと。贈与としてのバトンを受け取る。