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暮らしの技の消失と、じぶんという存在の萎縮

鷲田清一さんの『生きながらえる術』を読んだ。生きながらえること、いきいきと生きること、死なないこと..そのためにいろんな「わざ」や「すべ」を身につけていくこと。じぶんのことばになりきらない関心に対して、鷲田さんはいつもうまくことばをあてがっている。

実存的な不安は、歴史の中で先人がどうだったのかは知らないが、現代社会ではこれまでにないくらい渦巻いていると思う。ただ生きててそれでいいのかなと思ったり、働いていて仕事を通じて社会にかかわり、価値をもたらしていることで安心が得られること。

以前は、だれもが複数の技法を身につけていた。魚を捌く、漬物をつける、酒を作る、うつわを修理する、農具をつくる。もちろん今でもこうした技をもっている人たちは存在する。魚屋や酒造、陶芸作家..といった職業において、市場を介してサービスを提供している。しかし、”以前は”といったとき、これらのわざはもっと日々の中に存在していた。そして、それらの技を交換しあっていた。本の中でそんなことが述べられている。

新しいことはここには書かれていないし、感覚的にはわかる。しかし、鷲田さんはそれを「だから勤労とは別の、生活の場所でも、じぶんがここにいる理由、いていい理由、いなければいけない理由を見失うことはなかった」 (p.99)という実存的な意義につなげて書いていた。

経済とは、さまざまなかたちでのやりとりだ。カールポラン二ーは、互酬・交換・再分配という3つから経済の様式を説いた。暮らしの中でのわざ、というのは市場での交換を超えて、贈与の域にはいる。そこでは、つねに等価交換不可能な余剰や過剰がしみだしていく。

自分の体ひとつまともに思うように動かせず、声さえ出せず、まったくのでくのぼうになってしまっている

という舞踏集団・白虎社のダンサー青山美智子さんのことばが途中で紹介される。身体は、常に複雑な世界ー他の生きものやひとびととの接触と絡まり合いーとかかわる媒介となる。その身体すら、ままならない。”まともに思うように動かせず”というのは、やわらかで自由な動きができなくなっていること。”なってしまっている”というのは、以前と比べているのだろう。
わざには、身体が欠かせなかった。魚を捌くにも、おいしい漬物をつけるにも、その微細な感覚をつうじて、世界とまじわることが必要だった。「体を使って何かを作ること、ずっとここに、生きることの基本」があった (p.108)。

生きながらえる術とは、身体をつうじて、何かをつくる行為だった。しかし、それがなくなり、消費者への生成を意義なくされている現代のぼくらには、まともに道具やサービスを使うことすらできなくなっていると述べられている。

このことは「使う」ことの痩せ細りをも招いた。道具は人がじっくり使いこなすものではなくなり、「使う」はお金を使うことに縮こまっていった。「使う」という のは何かを手段として利用するだけのことではない。人は物だけでなく他の人も使うが、それは簒奪や搾取ばかりではない。おんぶしてもらったり、張れさせてもら ったりもする。人びとはたがいのそうした深い依存、深い交感から身をもぎ離して、それらにじかに触れることを怯えるようにさえなっている。

p.111

「じぶんの存在の萎縮」という印象的な表現があった。
じぶんという存在が、消え掛かっている。半透明になっている。宙ぶらりんになっている。小さくなっている。読書、ということばが読むと書くがセットになっているように、読むことは新たに書くことでもある。読む、という行為自体が受け身で消費的ではなく、読むを通じて新たな意味を生成していく創造行為でもある。

おなじように、本来はなにかを「使う」といった行為も、創造的だったはずで、例えばふろしきはとても状況に応じてその人が使いたいように使える無数の可能性をひらいてくれる。用途は限定されていない。その場にあるものでなんとかする、賄いの実践 (ブリコラージュ)だ。しかし、消費的な”使う”はお金を使うだけで、対象と深い交感がない、関係が結ばれない。それは自分が自分だけで完結し、萎縮につながる。

なぜか。それは、じぶんが生きているという実感や、じぶんというリアルは、「身体と他の生きものや人たちのそれらが生身であいまみえ、交感するなかで、時間をかけて形成される」ものだから。その交感やかかわりがなくなると、じぶんにとってのリアル=手触りが消失していく。

芸術は既成のレシピやマニュアルから解き放たれるにとどまらず、「じぶん」から離れる技術をも意味することになる。物との関係、他の人た ちとの関係が変わるということは、とりもなおさず「じぶん」が変わるということでもあるのだから

p141

芸術は「アート」ではなく「わざ」や「すべ」に近い。固定化された確固たるじぶんなんてなくて、ぼくたちは他のひとや他のもの、どうぶつや植物たちとの関わりのなかで、または過去や未来とのかかわりの中に、じぶんを見出す。

じぶんから離れ、まわりとの関係のなかでじぶんが生成変化していく。そう考えると、何かを気にかけたり、手を入れたりすることで、その対象とのかかわりのなかに、じぶんの履歴や痕跡が見出されるようになる。

具体的に考えてみると、昨年は実家の愛犬がなくなった。そのとき、物置から小さい頃に愛犬がよくあそんでいたフリスビーやドッグフードを詰められるゴムのおもちゃが出てきた。そうしたものが、愛犬と時を過ごして、遊んでいたぼくの若い頃の記憶をも引っ張り出して現在によびもどした。それによって、過去のじぶんの痕跡が見出されるのだ。

過去のじぶんが生きた履歴は、今の時点での愛犬との関係性をつくりかえていく。愛犬ともに過ごした時間からいかによろこびを受け取っていたのか、じぶんがいかに支えられていたのか、を思い起こし、感謝とともに供養できる。フリスビーやおもちゃは仏壇に置かれ、亡くなって悲しいばかりだったその時点から、亡くなったあともともにある存在へと変わっていく。

つまり、ケアすることで新たな関係が立ち上がるということは、じぶんから離れ、じぶんが変わる、という技法でもある。関係が変わる、ということは何よりラディカルなことかもしれない。それまで大嫌いだった他者が唯一無二の親友になったら、その人の世界は大きくいっぺんするのは想像に難くないように、関係が変わるとは新しい世界が生まれること。

萎縮しはじめているじぶんの存在に対して、身体と他の生きものや人たちのそれらが生身であいまみえ、交感すること。それ自体が生きる術であり、昔は複数のわざが暮らしに根ざして、そうした人や他のいきものと手をかけあうことを支えてきた。

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