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生活と芸術のあいだの行為を考える: わたしにとってのサッポロ一番はなにか

東京に出張できている。そういえば会社をつくったばかりのときは、東京にいくたびにアポをいれたり、人に会おうと意気込んでいた。大した営業心なんてぼくにはないので、つづかない。最近はいくつか展示を回ることがおおい。
昨日は、渋谷の「共棲の間合い」展にいってきたのだけど、そこではまさに生活と芸術のあわいに位置付けられるような思想が貫かれていたように思う。

村上慧は、代々木公園で拾った大量の落ち葉を搬入して、落ち葉で足湯を作っていた。大きな木枠のなかに落ち葉をかきいれ、米ぬかと水を入れてかき混ぜる。キュレーター/企画担当者が、毎日かきまぜ、お世話をしているらしい。そうすると、落ち葉表面の微生物が葉っぱを分解していく過程で熱が発生する。おとずれた人々は、靴を脱ぎ、ビニル袋に足をすっぽりくるんで、落ち葉の中にそのまま足をダイブさせる。温もりを感じることで、無数の微生物の蠢きを感じる。展示会場がまるまる、落ち葉にあふれている様子だった。

室内と室外の境界や、ギャラリーと家の境界を問いかけるような作品だった。何より印象的だったのは、ギャラリーに入った瞬間にもわっとしたコンポストのような腐敗したような臭いが押し寄せてきたことだった。「あれ、ここギャラリーだよな?」と一瞬おもった。

折本立身のパン人間は、有名だそうだが初めて知った。フランスパンを10本ほど、顔にくくりつけ「パン人間」となり、数人ときには数十人で練り歩くパフォーマンス。彼の他の作品は、アートママシリーズとよばれていて、アルツハイマーの母を介護するなかで作品化していくものがおおい。うち一つには、小型テレビで数台で母の映像を流し、生活用品あれこれをおきたて並べているもの。中には入れ歯や身代わり念珠など、ギョッとするものもあった。一つひとつのものが、生活臭がした。そのひとが生きてきた歴史を感じた。言うなれば母の生きた日常のなかのものや記録をただ集めただけだが、なんだかいかがわしいというか、ずしっとした雰囲気を纏っていた。

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滋賀県のやまなみ工房は有名だが、その利用者である酒井美穂子さんは、インスタントヌードルの「サッポロ一番しょうゆ味」を毎日一袋とっては、1日中こすった音を楽しんだりして、持ち歩く。

その日の終わりにスタッフがそれを保存する。そうして1000を超えるサッポロ一番が壁中に貼り付けられ展示されている風景が展示室に広がる。周りからは理解できないが、毎日の擦れたあとのシワの微妙な形から、その日の感情や酒井さんの状況変化は如実にあるという。それはある種、喋ることない酒井さんの声の発し方ともいえる。そして、1日中はなさないくらい大切な何かを握りしめて、日々を過ごすという生き方に圧倒される。サッポロ一番は酒井さんにとっては離したくないし、離せないんだとおもう。そこまで大切に話し難い関係が、そこにはある。

哲学者・近内悠太さんの近著『利他・ケア・傷の倫理学』には、他者の大切にしているものを大切にすることが、ケアである。そう定義されている。この展示は、酒井さんにとっての大切さを、まさに大切にしていた周囲のひとびとの関わりの記録でもある。サッポロ一番を大切にする酒井さん、それをまた大切にするスタッフやご家族たちとの関係性の可視化でもある。そんなプライベートなものを本人の承諾があるのかわからないが、展示することの是非はあると思う。

とはいえ、この作品がもつ力は本展示のなかでも群を抜いていたように感じる。作品、というとこのギャラリーに展示されているから作品に成っただけである。酒井さんはただ生活をいつも通りおくっているだけ。

前回、芸術は両儀的であって、傷や暴力性をもち変容を促す触媒でありつつも、癒し自己を保つための術でもある、とかいた。サッポロ一番と関係をもつ酒井さんは、自身にとっては後者に近いものを感じるけれど、それに勝手に芸術性を見出せない鑑賞者はそこの何に芸術性を見ているのだろう。
酒井さんのただの生活が、ただサッポロ一番をこする行為に、その行為そのもの以外の目的はない(本人にとっては異なるかもしれないが)ような純粋で崇高さを見てとっているのではないか。そして、それが自分はただ生活している。それのどこがどう切り取られたら、こんな作品に見えるようになるのだろう?というぼくらの当たり前に、毎日の日々に亀裂をいれる。あんなふうにいきたい、と欲望させられる自分が確かにいた。

ただ生活をする。この酒井さんの作品の衝撃は、作為や作品化する意思を超えたところにある。もちろんそれは、作品として提示されないと、周囲には伝わらないわけだけど。小説的に自分の日常を書いたりするのは、自分の日常をある種の劇だと見つめ直すことにつながる。ただ、それは後からしかわからない。後から「実はわたしの日常は芸術だった」と過ごした過去を訂正していく。

それによって、自分の生活が芸術化されていくことは、ひとつの救いをもたらすように思える。だって、これを芸術作品にできるな、と思いながら生活するのもそれはそれで違うじゃないか。別に「作品を見せる」必要はアーティストでない限り、不要だから。でも、生活は実は芸術だった、と気づき直せること自体がうまく生きていくために大切な術だなと感じる。そんな芸術たる生活をしているのか?と酒井さんの作品はそれでも突きつけるのだけど。

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