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日々に蠢く無数の感情とふるまいを

「本当にその日を生きる」ってどういうことだろう、と思う。朝起きると、冬の朝はほんとうに暗いことを知る。夜明けまでにこんなにも時間がかかるのかと知る。もうすぐ、冬至だなと思って調べたら、明日だそうだ。
ねむたい目をこすりながら、ベッド脇のスタンドライトを灯す。人工的な光は、この時間に起きると目を突き刺してくるようだ。

「本当にその日を生きる」ってことは最近ふとよく考える。それだけ、毎日が慌ただしく、するすると日常が流れていってしまう気がしていて、師走だよなあ。

レイチェル・カーソンのある夏の夜の空を見上げた際に感じたこと。毎日の中で、見過ごされていることに目を向ける。

わたしはそのとき、もし、このながめが一世紀に1回か、あるいは人間の一生のうちにたった1回しか見られないものだとしたら、この小さな岬は見物人であふれてしまうだろうと考えていました。けれども、実際には、同じような光景は毎年何十回も見ることができます。そして、そこに住む人々は頭上の美しさを気にもとめません。見ようと思えばほとんど毎晩見ることができるために、おそらくは1度も見ることがないのです

レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』

しかし、本当にこの岬においてこの夏の夜空は「みようと思えばほとんど毎晩見ることができる」のだろうか。何十年に一度のなんたら彗星のニュースは数年に一回くらいの間隔で、耳にするような気がする。そんなときに、夜の帰り道に、多くの人が空を見上げて写真をとったり、指を差したりしている様子を見かける。それを見過ごしたら、次は何十年・何百年後なので、一生に一度しか見られないかもしれない。

レイチェル・カーソンはこの夏の夜空がとても忘れられない、と書いている。引用した文章の少し前に、彼女は「もしこれが、いままでに一度も見たことがなかったものだとしたら? もし、これを二度とふたたび見ることができないとしたら?」と、自身に問いかけている。それは、”美しさに目をひらくひとつの方法”なのだ、と。

同じ空でも、同じ空ではない。その日の湿度や気温や天候、季節、その日にあった様々な出来事と自分のこころの状態と。そんないろんなものごとが重なり、織物のようにその空が風景として現れる。その意味で、この夏の夜空は紛れもなく、その日その瞬間しか見ることができないものだったはずだ。

ささいなことに疲れてもう全て投げ出して遠い島にでも行ってしまおうと思う日もあれば、疲れていてもこのような毎日を送ることができてとても幸せだと噛み締める日もある。そうしてやっぱり、粛々と働いている。これらを働いてばかりの日々だと思うことは簡単だけれど、どんな日も、いろんな日である。この身体で、この感受性で、さまざまな時間を過ごしている日々だ

ヒコロヒー「直感的社会論」:日々働いてばかり、なのかどうなのか?

最近よんだ、ヒコロヒーの連載エッセイがとてもよかった。こんな具合に、ある日はこうで、ある日はちがう。ということを淡々と羅列している。そうなんだよ、同じ出来事があっても感じることはちがう。朝7:30までものを書いて、1Fに降りて、ラジオ体操をする。そこから朝はトーストを焼いたり、コーヒーを温めて、少し朝ごはんを食べる。歯を磨いて顔を洗って、髪を整え、余裕があれば近所のお寺に参拝をして、座禅を組んで、デスクに向かう。

ここまでは、比較的じぶんが保てる。しかし、これ以降はもう流れていくように仕事をして、気づいたら夕方にはもう暗くなる。その間に、たくさんのことを考えて、感じているはずだけど、どれだけの感動があるかと言われたら、なかなか答えるに窮してしまう。まあ、そんなものかもしれないと思う日もあれば、それで本当に生きていると言えるのか、と思う日もある。それでも、ヒコロヒーが言うように、これを「働いてばかりの日々」だと自分でまるめたくはないんだよな、と思う。その日の経験は、その瞬間にしかないはずなんだと、どうも忘れがちになっている。

久しぶりにあう友人とは「最近どう?」と雑な会話のはじまり方になることが、たまにある。「最近どう?」なんて聞かれても、なんて答えたらいいのかわからないくらいに、最近という日々を「働いてばかりの日々」だとか「忙しい日々」だとか、ラベルを貼ってしまうことで、無数にある一瞬が見えなくなってしまうことは、心に留めておきたい。日々のなかに無数の感情が、ふるまいが、蠢いているんだ。

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