生活と芸術のあいだの行為を考える
最近はデザインということばよりも、もっぱら芸術のことをかんがえることが多い。仕事でおてらにて芸術祭をやろう、となっているのでそれもあるのだけど、やっぱり生きる営みから切り離せないと感じる。
じぶんはふとした瞬間に「死にたい」と感じたり、こころが追いつかなくて、からだが動かなかったりすることがままある。これはぼくの固有の問題でもありながら時代の空気としても、似たような生きる大変さを抱えるひともいるのではないかと思う。
こうやって、ものを書くのも毎日おこったことや、感じていることを書いておかないと、生きる実感がさらさらと日々に流れて消えていってしまうような気がする。または、書くことで生きた現実をもういちど掴み直すために書いている。こうした時間がないと、じぶんがいなくなってしまう気がする。そんな恐れもあるし、じっさいに書けば少しは世界は捨てたもんじゃないし、生きてても大丈夫か。そう感じる。昨日あったことを、かいてみるだけでこころが楽になる。
こうして、書いてみると何気ない朝の30分だって多くの行為や情報が詰まっていて、今日はこんな1日だったな、と噛み締められる。そうやってさらさら流れる生に対して重さを乗せていく。多くの人はここまでしなくても、十分寝る前に今日もいい1日だったと少し思い返すだけで、明日の希望がもてるものなのか、どうなのか。わからないけど、これはぼく自身がなんとか生きていくための生きる方法のひとつだ。
冒頭にもどるとこれは決して「デザイン」とはよばれない。ただ、日記を書いてるだけだし、いわゆる社会性は皆無であって、私的な日常の断片以上のなんでもない。アートというカタカナことばには、どうにもホワイトキューブの作品を連想させてしまう響きがまとわりつく。でも、芸術ということばはそうでもない。鶴見俊輔が『限界芸術論』で述べているのは、生きる習慣の中にある芸術のかたち。
彼はいわゆる美術作品としての純粋芸術 (クラシック音楽のコンサートやピカソの絵画)・大衆的なメジャー文化にかかわる大衆芸術 (ハリウッド映画)・芸術と生活があいまいになる領域にある限界芸術 (民謡やticktock)といった分類を打ち出す。限界芸術の中には、身振りや手振りなんてものすら、芸術であると考えられたりする。祭りや手紙、落書きもそうだ。
とはいえ、芸術ってただ生活することそのものなわけでもない。日常生活で完結するわけでもなく、ただ生きることから少しはみ出てしまう、外側に連れ出してしまう「脱出性」が芸術の様式からもたらされる経験にはある。それは、手紙をかいているときに宛先との関係の来歴やこれからを想像することで、直線的にすすむ時間が、ふと凝縮し過去と未来がここにある時間の混在になったりするようなものかもしれない。
それが、書く営みにも、祭りでぶちあげているときにもあって、いつも通りの日常をいつも通りに生きるわけではなく、揺さぶってしまう契機がそこにはやはり含まれているもののはずだ。
ぼく個人の芸術観でいうと、矛盾におもわれるふたつの性質が矛盾せずに同居しているものだととらえている。ひとつには、ある固定化されたものごとや関係に亀裂をうみ、破壊してしまう芸術。ゆえに新たな関係の可能性を生み出すちからをもった営みでもある。これは傷・暴力性・変容性などのキーワードが周囲にある。もうひとつには、その人が生きる上で不可欠であり、尊厳や意義を感じさせ、なんとか生きていくための術や営みとしての芸術。これは癒し・ケアなどのキーワードが周囲にある。
ぼくが冒頭の日記のくだりで書いていたのは、後者のノリがちかい。でも、書く中でふとした瞬間の傷に出逢ってしまうこともある。それは行為のなかで、自分の中にいる受け入れたくない他者=自分の外側にふれてしまうから起こる傷かもしれない。だから、限界芸術ってのも、よくわかってはいないけど、ただ手紙を書いたり、祭りをしていれば限界芸術だね、ってな感じではないと思う。その営みの最中で、または時間をかけて何が起こっているのか、どうその営みが営まれているのかが大切ではないか。つづきをまた書く。