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魂を傷つけることと、おっさん穴にすぐ入ること

漫画『バガボンド』が大好きなのだけど、特に主人公の宮本武蔵の幼少期の「おっさん穴」のくだりがとてもいい。武蔵は天下無双を目指して、強者をどんどん切っていく。ただ切ったものたちからの怨念があったり、終わらない戦いの無限連鎖のようなものに絡み取られていく。

そんなときに、昔、山の中でただ無心で刀を振るっていたときの記憶を思い出していく。小さな洞穴で武士の白骨死体の傍らで、ただ愉しくただ刀を振るう。人を斬り、天下無双に近づくために振るっていたのではない次元で、刀を振るうことそのものに理を見出していたあのときの記憶。

「天下無双とは、ただの言葉」であって、すでに自分は到達していた。その感覚はぼくも、小学生のときにひたすら怪物の絵をノートブックに書き殴っていたり、頭の中で空想長編漫画をつくっていたときに感じていたものに近いような気がする。それは、身体にはのこっている。でも、今、それと同じ感覚で生きられているのか、と考えると多かれ少なかれ失われている。

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昨日おはなしをした方は、「本当にやっている実感」ということを追い求めて、事業を営んでいた。その方も、小さいときに感じていた感覚が失われ、それを求めてなにかをつくる行為に惹かれ、日々を生きていた。
都市林業の取組みをしている方だ。普通、林業といえば山や森の樹木を木材として製材して流通させていく。ただ、都市にも樹木はたくさんある。街路樹や、校庭の木など。それらは、だいたい雑な剪定をされて傷んだり、樹形が変形してしまって、切ったらゴミとなっていく。

ただ、近代建築がその土地の文脈や固有性ではなく、建築家の表現といった我から出発していることに違和感を持ったため、その土地にあるものでやることを突き詰め、自分たちで樹木をケアしながら、ただの風景になっている樹木を「使う」ことで、まちの風景が変わっていく。「あの樹木はどう活かせるんだろう」といった視点になっていく。そしてそれはその土地やまちに生きた樹木をパッチワーク的に用いて、自然なかたちとして立ち上がっていく。そこへのこだわりを強く持っている方だった。

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事業の取り組み自体もとても素敵だったことはさることながら、お話をしていくなかで「自分がやっていることは、そこにあるものを生かして、使っていくことで、人々がそれ自然だし、いいじゃんと歓んでくれること、それがいい。とてもシンプルだ」と語っていた。でも、そのシンプルな良さが、ただそのままでは伝わらないこともある。

そんなときに、周りからはそれが「遠くから来た木材を使わないでいいので、輸送にかかるCO2削減にもなる」「サスティナブルだ」と大きな言葉で物語が作られたり、別の意味に翻訳されたりする。そんなことが自分の「本当にやっている実感」を遠ざけてしまう、という話をしていた。自分が自分の魂に嘘をつかないように、ただ自ずとそういうことでしょ、と感じていることから言葉を吐き出していた姿にぼくも震えるものを感じた。

『楽しいことをするのではなく、することを楽しむ』というモードは、遊びそのものであって、そこには行為の崇高さを感じ取ることができる。このただ崇高で美しい生き方を見出し、そこに嘘や大きな言葉をいれないこと。それを、話を聞いたその人は「芸術力」なんじゃないかと言っていた。

これまた、「芸術力がいまの時代には必要だ」なんて翻訳や語り口にしてしまうと一気に陳腐なものになってしまう。それでも、ぼくが日々、自分の会社でやっている思想と経済の両立を考えていくときに、流されてしまったり、大きな言葉でくるんでしまうこともあるときに、それは現実的に社会を動かしたり、ある世界観を広げたり、仕事を作るためには必要かもしれないが、それは同時に自分の魂に傷をつけている行為でもある。

ぼくの根底にあるのは、かく生きたい、かくありたい、という欲望であって、決して社会を変えたいわけではない。魂と芸術・技法といったことを強く灯火としていたい。それがないと「おっさん穴」には二度と戻れなくなってしまう。そして、こうやって書き留めていること、それすらもまた、囚われになってしまいかねない。

『おっさん穴に帰りてえ いや それすらもすぐにただの言葉 帰りたきゃ帰りゃいい いつでも帰れる 今ここで 動け 揺さぶれ 言葉を振り切れ 今のど真ん中にいるために』

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