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不気味で避けたいものにこそ潜むじぶん

いつだったか、実家の和室の端っこに、白っぽいきのこが生えていた。小学生か中学生くらいのころだったと思う。

突如、家に侵入してきた謎のきのこに、当時はシンプルにキモっておもった。じめじめしている空気が漂う、湿気が高いからきのこが生息しやすい環境になっていた。(ある種類の)きのこにとっては棲みやすい生息環境が、ぼくら家族にとって望ましい環境では、必ずしもない。

またこのあいだ、畑に行ったらじゃがいもが土に植る茎に、泡だまりができていた。これまでは放置しておいたけど、気になって泡をかきわけるとたくさん虫がでてきた。調べてみると、アワフキムシという種類が泡を隠れ蓑にしながら、茎の中の栄養を吸っているらしい。気持ち悪いなあとおもった。畑にはいろんな虫がきていたり、カエルが草陰に隠れていると嬉しくなるが、いち種類が過剰にいると、こわいなと思ってしまう。

ちょうど昨日、ランドスケープの専門の方と、都市の森づくりについて話していた。ぼく自身、都市と自然を分けるのではない、都市にも自然はあるし、都市も自然の一部として見立て直すことで生態系として捉え直すことが大事だなと思う。

ただ、その方が話してたのは、都市の森と往々にして語られる場合、たとえばエディブルガーデンなんかはそうかもしれないが、綺麗すぎるのだ、と。公園の延長であり、自然に触れられる環境が身近にあること自体が重要ではあるものの、人のよしあし・心地よさだけでコントロールしていく、文字通り都市化された森になっているのではないか。そんな話をした。その時に、荒れた土地、荒廃した空き地、じめじめして鬱蒼な空気は避けられてしまう。

身体的な感覚を大事にしよう、ってのは最近どこかしこでききはじめる。ただ、身体は決して賢くないこともまた、大切ではないか。というか、身体で感じる気持ちよさではなく、気持ち悪さにこそ、感じ取ってそのまま避ける・ねじ伏せるのではない付き合い方の知恵が求められるのではないか。
ぼくも、目の前の他者の今ここに向き合うことだけではなく、目の前の他者をとりまいてる関係の拡がりに目を向けることも大切だったとき、それには見えていないもの、見ようとしていなかったものだけではなく、見たくないものとの付き合い方こそが一番困難なように思われる。

多様性だといいながら、メキシコに旅行にいったときに、夜道で向こうから屈強なメキシコ人が歩いてきたときにはやっぱり身体がちぢこまるし、家の中でのキノコには抵抗がある。じめじめ、不浄、汚さ、おぞましさ、不気味さといったものには、自身の外側=他者性がつまっている。それが自己の価値判断をぐっとせまられるからこそ、これまで通りじゃない関係に分け入ってしまうようになるのか、どうなのか。また、それには何より清浄でいたいじぶんなんてまやかしだ!と突きつけられるこわさもある。多様性を尊重している私、自然をケアして大切にしている私、社会的にいいことを言ってるしやっているよな私。嘘じゃんってなるから。ぼくもそうだし、いいやつだじぶんって思いたいから。

これは人にも自然にも通ずる、けっこう異なるものとの出会いは本質的に、おぞましさにあふれている。発酵食文化が豊かな土地ではいいにおいも、海外のひとから見たら、くさいと感じてしまうかもしれない。そういった、両面がある。

身体は賢くないといったけれど、どうしようもなく感じてしまう怖さに敏感になることは大切だとおもう。そこからはじめるしかないのだから、飲み込みきれないけど、味見してみようくらいのテンションでいけるといいな。

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