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稲川淳二や模様替えやイマジナリーフレンドからみる、生きるわざ

最近は、ずっと技や技法ということについて、考えている。ずっと考えている、という表現をすると、四六時中ずっと寝食のあいまにも研究しているすごさ、みたいなものが滲みでる。けれど、密度はうすく、それでも長い期間にわたって、ぼんやり自分の身体の内側にうずまいていたり、外側をふわふわ漂っている。そんな感じだ。

そういうテーマは大体、自分にとって向き合わなければ前に進めないものがおおくて、ふとした瞬間に目が向いてしまうキーワードとして、タグ付けされている。

妻はテレビっ子なので、一緒にすんでからは、ご飯をたべながらテレビを見ることが増えた。一人で生きているときには、テレビすらなかった。特にいくつか影響されてバラエティを見るようになった。『踊る!さんま御殿』は、シンプルに面白い。今週は、アスリート達がゲストであつまり、いろんな話をしていた。

その中で、興味深かったのは各々の調整法、とでもいうべきものだった。例えば、東京パラリンピックで水泳にて金メダルをとった木村 敬一さんは、試合前日に稲川淳二の怖い話をきく、と言っていた。意味がわからない。ぼくも試合っていっても、学生時代の部活程度だけれど、余計な不安や心配事が増えそうだなと思った。音楽を聴く、とかはよくありそうだけど、稲川淳二はおもしろいなと思った。

また、フィギュアスケートの高橋大輔は、競技のための調整法として語っていたわけではないが、ホテルにいったら絶対にソファやベッドの位置を動かして模様替えをする、という。自宅でも、過剰なほどの頻度での模様替えをするので、自宅に訪れる友人はいつも部屋が変わるなあ、と感じるらしい。これもとても面白くて、そうせざるを得ない何かを感じる。試合や競技とは関係ないように見えて、関係あるのかもしれない、そう思わせる何かだ。

当然試合の遠征で、ホテルに滞在することは多いと思う。そこで、どこか自分の身体の外側にあると感じてしまうよそよそしさを纏った「出来物の空間」を、位置を変えることで「自分の空間」に仕立てているのではないか。それをしなければ、落ち着かないのかな。でも、自宅まで頻繁に模様替えするっていうのは、なんなのか。全くわからないが、近い感覚の一つとしては、定期的に本棚の整理をすることで、今じぶんがこっちに行きたいのかもしれない、といった方向性を示してくれる本のキュレーションにぶち当たることかもしれない。

それが、今の精神状態や、うずまいているが言語化できない何かの写し鏡になっている。本棚を整理し、特にお気に入りの場所に置く本を選定しなおすことで、都度自分の状態をモニタリングする。それも一つの生活の知恵であり、技法だよなあ、と思う。

今週はちょうど『創作者の体感世界』という横道誠さんの新著をよんだ。南方熊楠から岡本太郎、新海誠、米津まで、天才とよばれる人々を発達障害の特性の観点から読み解く本。

その一人として村田沙耶香さんのことが書かれていた。西加奈子さんとの対談の発言やインタビューの発話が引用されていた。そのなかで、子どものころから、30人くらいのイマジナリーフレンドがいる、という話をしていた。確かに、村田さんの作品はイマジナリーフレンドが実際に描かれているものもあり、納得だった。中には、地球人の体をなしてないフレンドもいる、といったことも書かれていた。全く異なる、社会の規範どころか地球の外側にいるある種の超越。そんな地球外生命と連帯することが生き延びる技法だった、と著者はみている。

すごいことだなと思う。そうしないと、正気が保てない。自分の中に複数のフレンドとしての他者がいて、ともに生きていかないと、社会的なあたりまえに押しつぶされてしまう。そんなところから、つくりあげるようになったのだろうか。空想といってしまえばそれまでだが、そのフレンドたちは多分、本当に存在するんだと思う。

ここ最近、仕事で岩手県の遠野の方とやりとりしている。6月には初めて遠野に行く。妖怪や伝承、民俗学は詳しくないがとても好きなので、楽しみだ。そのやりとりしている方と話していて、遠野は山に囲まれ、移動できなかったために、妖怪や物語を生み出すことで、なんとか厳しい環境の中でも愉しみをつくりだしたのではないか。妖怪や伝承は、そうしたある種の生き抜くためのテクノロジーなんじゃあないか。と、語っていた。

生きるための芸術、技法、テクノロジー。ことばはなんであれ、自分にとってのそれを、ひとつずつ積み上げていくこと。それは時にとても固有の仕方・方法になりうる。稲川淳二をきいたり、模様替えを執拗にしたり、イマジナリーフレンドをつくるといったように。その固有の方法にこそ、その人のかけがえのなさがまた生じるようにも思う。

アスリートの調整法、なんてこれまで関心を持ったことがなかった。テーマとしてはよく話題に上がるようなものだと思う。けれど、それをある種のその場をやりくりする「わざ」であり、自分が正気で生きるための技法だという視点でみたときに、急に興味がでてきた。すでにある無数の意味が、こうやって更新されていく歓びは、その辺におちている石ころを拾った感覚。その小さな石ころを拾い集めることで、この世界が生きるに値するものだと感じられる。

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