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こたへあわせ


 みなさま、みなさま、毎度、毎度、ご愛読ありがとうございます。吉成学人です。災害級の猛暑の中、こまめな水分補給を忘れずにお過ごしください。

 さて、前回7月25日に、以下の記事を公開しました



 実は、この記事の趣旨は年間読書人こと田中幸一さんにはありません。現代ロシアのプロパガンダの手法に基づいてコンプロマット(中傷情報)をするとどうなるのか、と云う実験記事になります。ちょうど、ロシアの国営メディアではこう云う感じの文章がいっぱい出てくるのでお試しで書いてみたわけです。ちなみに、中傷対象は吉成学人になります。記事内容はシンプルな構造で吉成学人には必ずマイナスな印象を与える単語をくっつけて、田中さんにはポジティブな印象を与える単語をくっつけています。読者に善悪二元論的な構造を植え付ける内容となっています。
 実際、公開してわずか1週間ぐらいでいいねが9つも付き、58も閲覧者が出ました。私はnoteはろくに更新しないので、だいたい1週間で多い記事では閲覧者数は20以下が当たり前なのですが、それよりも圧倒的に多いです。





 この記事の主目的は、吉成学人に対するマイナスな印象を持たせるのが目的なので、マイナスな印象を持たせるような言葉を多用してみました。文章の構造も陰謀論チックに書いてみました。いろいろな詭弁を混ぜながら、オルタナティブな言説を組み上げたわけです。なので、反応は上々で公開してわずか1時間後に、ヤマダヒフミさんがコメントを寄せてくれました。



 この記事自体は2万字くらいですが、半日で書き上げました。田中さんの記事をベースにしながら、ロシア擁護の議論やそれっぽい事象をペタペタ貼り付けただけなので、大変楽ちんでした。キリル総主教の説教の翻訳みたいに一々訳文の妥当性、内容の信憑性のファクトチェックと云った作業をほとんどしていないので、サクサク書けましたね。これを一日一本ぐらい絶え間なく書いていけば、それなりにビューは稼げるのかな、と思いました。noteはアフィリンクは載っけられないのですが、他のサイトブログなら載っけられるので閲覧者数が一定程度出ていればクリック数で収益化できるなと思いました。陰謀論は大変ありがたいものです。

 あっ、ちなみに、私自身、現在は田中さんのことはほとんど興味を失っています。と云うか、例の批判記事(?)も記事を書く前日に読んだばかりです。だって、パターンがだいたい読めるので読む気が湧かなかったわけです。ロシアについて重点的に書いていく別ブログを作成しようかなと思い、noteのアカウントをどうしようかなと考え、実際にエゴサーチをしたところ、田中さんの記事が出てきたので、実際に読んでみたわけです。


 


 思った以上にナイーブな内容で読んでいて正直、笑いが止まりませんでしたね。いやー、たったこんだけの情報で深読みができるのはなかなかすごいものがあります。なんか「通知が来ない」とか「陰口を叩いている」とか書いていました。あっ、記事にリンクを貼らないと「通知」って来ないんすね〜。知りませんでした。何ヶ月も更新していない他人の記事に張り付いていたので、てっきり毎日監視しているのでわざわざ告知をせんでも良いだろうと思っていました。noteはツイッターと違ってブロックしても、記事は読めるんで、タイトルもわざわざ「年間読書人」とか「田中幸一」とか目に付きやすいのしたのでエゴサすればヒットするしょと思っていました。ついでに、別の記事のコメント欄をのぞいてみると結構盛り上がっていたようです。





 一応、補足で書いていくと、去年の11月に田中さんのコメントのやり取りをして当初、「うわー、この人、やべーな」でした。ご自身が創価学会員のご家庭で育ったので「宗教二世」と呼ぶことを「差別だ!」「権威主義だ!」「社会学は傲慢だ!」と批判してきました。批判自体は構わないのですが、私が引用してきた資料や議論をまともにチェックした痕跡がなく、他の二世(脱会者を含む)を「差別を内面化している」などと罵倒し、代わりに「褐色肌の白人」とか「男か女かよくわからない人」のようなよくわからない被差別者をこしらえ出し、「二世」と呼ぶこと自体が「差別」と云うわけのわからない議論を仕出しました。まぁ、はっきり云って、「宗教二世」自体はアイデンティティの問題に関わるので、ご自身は「二世」と呼ばれるのが不当だと思うならそれで構わないのですが、二世を名乗っている他人を罵倒したり、よくわからない被差別者をこしらえて自分のアイデンティティだけを尊重しろ、と云うのは人権の観点から問題があります。なにより、去年からジャーナリストや専門家が問題視しているのは人権の問題ですが、どうもその観点では議論をするつもりがないようでした。とりあえず、私も記事では引用したのでその場で謝罪するかたちで納めたのですが、田中さんが一体なぜこんなことを云い出したがるのかを調べるために過去の言動を追ってみました。

 最初調べたときは、「宗教」とか「社会問題」「差別」のような問題になんらかの関心を持っていて何かしら業績があるのかと思っていたのですが、代わりに出てきたのは文学の話ばかりでそれもアンチミステリーと云ったかなりマニアックなジャンルの話ばかりでした。しかも、一部の人には「殺してやる」とか「これは警告だ」と云うような物ものしいことを云っていたので、「ヤバいね」と思っていたのですが、収集した資料を並べてみると、「あ、こう云うキャラで通してきた人なのね」と云うことがわかりました。それっぽいことを云って目立ちたがる人なのね、と云う結論に落ち着きました。

 当初は、収集した資料をもとにそれこそ10万字くらいの批判記事を書こうかなと思っていたのですが、別の用件ができたのでお蔵入りになりました。知り合いに陰謀論にハマる人が出てきたので、田中さんにリソースが割けなくなりました。ぶっちゃけたことを云うと、あれやこれやファクトチェックして書いてもしょうがないやと思ったわけです。過去の事例を調べても、こうなったときは取り合わなかったり、ブロックするのが恒例行事になっているので、じゃあ、私もそれにならおうと云うことで今年の2月にブロックすることにしました。

 そうしましたら、その日のうちに田中さんは「ブロックされた〜」と云うタイトルの記事を公開したので、おっ、わかりやすいお人だ、と思いました。内容もだいたい想像がつくので読む気も出ませんでした。その後、令士葉月さんがコメントを寄せてくれたので、彼の記事を読んでみたところ、田中さんに暴言を吐かれたことに傷心していたことがわかりました。正直、私の手持ちの資料もかさばっているので、じゃあこの人なら役立てそうじゃないかと思ったので、連絡を取ってメールアドレスの交換を申し込んだのですが、ご本人から「彼の人となりは資料を読まなくてもわかるのでけっこう」と云う趣旨のメールをいただいたのでそのままお流れになりました。

 その後、1ヶ月ぐらい放置したあと、カマかけたらまた反応すっかな、と思ってコメント欄を更新させてみたところ、また記事を書き出しました。このときも、田中さんの記事内容はだいたい想像がついたので読まずに、令士葉月さんの書いた記事から内容を類推できました。



 ちょうど、本ばかり読んでいてまったく記事を書いていないのと株式会社ユーザーローカルが提供するAIテキストマイニングの性能を確かめたかったので、腕鳴らしも兼ねて収集した資料をベースに実際に彼が語っていた言説を並べるだけの記事を書いてみたわけです。記事の大部分が元々書く予定だった批判記事の文章をリサイクルしたもので、10万字から1万字くらいに削ってサクッと読めるような仕上がりにしました。
 まぁ、この時点で私自身は特に批判する気もなく、目立った論考やら論争をまとめてピックアップしただけで、あとは読者のみなさんがご判断下さいと云う感じで書きました。記事の最後に、noteでトラブルに見舞われた人たちが一定数いるのでnote運営も自由放任にしないでちゃんと対応しないとエライことになりますよ、と云う文章を挿入しました。ちなみに、挿入した理由は特に深い意味はなく、田中さんとはあまり関係がないのですが、note運営に苦情を上げている人が一定数いるのでついでに書いておいたほうが良いか、と云う感じでくっつけたわけです。


 


 そうしたら、かなりの反響があってコメント欄に書き込んでくるBook Wormさんやヤマダヒフミさんのような擁護記事を書く人が出てきました。資料を並べただけの私の記事に過剰な反応をする人たちが出てきたので、じゃあ、意見論評を書いた記事を書こうかと云うことになりました。これもあんまりやる気が出ず、否定論も肯定論もあんまり乗る気がしなかったので、エビデンスに基づいて書くことに徹しました。




 あとはまぁだいたい済んだでしょうと云う感じになったので、ロシア関連の書籍を読む作業に戻り、ロシア正教会のキリル総主教の説教の翻訳記事を何本か上げたわけです。もっとも、このnoteアカウント自体、ロシア関連の情報を専門に発信するために作ったわけではないので、別ブログを作ってそこで翻訳とか乗っけようかな、なんかいろいろアカウント持っているとかさばってめんどくさいな、FBのアカウント消して通知が来なくなってすっきりしたのでnoteのアカウントも消そっかなー、と思ってエゴサーチしてみたところ、田中さんの記事が出てきて読んでみたところ、想像以上のお笑い文章だったので、これ使ってロシアのプロパガンダの実験に使えそうと思ってリサイクルしてみたわけです。いやー、それにしても皆さん、他人のコンプロマットがお好きですね。こりゃ、ロシアが付け込めるな、と思いますた。




 ついでに、まったくの余談ですが、田中さんの書いた記事内容を補ってあげると、私が「代読ダイアローグ」を廃業すると書いた記事は田中さんのことを意識していませんでした。だって、お客さんじゃないですもの。なんで一銭も払わない人のことを廃業する記事に書かねばならないんすか(笑)。ちなみに、記事の中で「頭がパーティーな人や脳内を快楽物質に支配されている人、秘密ノートにでも書いて人さまの目に触れないようにしなければならないしょうもない妄想の類」と書いた部分で想定しているのは、FBでみかけた投稿です。
 例えば、韓国語教室の広告に対して「キモい」とか「ハングルは存在しない」「日本から出ていけ」と云ったヘイトスピーチコメントや外国人がマスクをしている画像に「日本はパンツを履く文化だと思われています」と云う投稿を何本も上げたり、「日本は外国人に乗っ取られようとしている」「男が女湯に入ってきてもトランスジェンダーだと名乗ると拒否できない」「地球は平面だ」と云う主張をすべて聖書にあるからと正当化したり、トランスジェンダーの記事に「こいつには悪魔がついている」と云うヘイトコメントをしたり、明らかに機械翻訳を通した不自然な日本語で「ウクライナは堕落している」「ロシアは素晴らしい」「欧米はクソ」と真偽不明の偽情報を拡散している人たちを想定しています。
 ちなみに、FBには通報機能があるので、何度かこう云う類の投稿を削除するように求めたのですが、まったく反応がありませんでした。おかしいなと思って、『フェイスブックの失墜』と云う書籍を読んだところ、運営がまともに機能していない実態を理解しました。と云うよりも、FBの問題は何年も前に指摘されていたのですが、「言論の自由」の名のもとに免責され続けていたようです。
 なお、FBのアルゴリズムは感情が伝播するように実験が極秘に行われていたそうです。実験結果からポジティブな内容の投稿をみせられ続けた人はポジティブな感情になって投稿内容もポジティブになり、ネガティブな内容の投稿をみせられ続けた人はネガティブな感情になって投稿内容もネガティブになったそうです。要は、人間の感情をアルゴリズムを利用すれば操れることが実証されたわけです。単に商品を売るだけなら問題はありませんが、それが選挙のような社会的に重要な決定を下すさいにはどうなるのか?利用者の政治的志向性は貴重な情報源になります。上手く利用すれば、投票結果に影響を与えることができます。そう云うリスクに対する企業倫理はどうなっているのか?書籍を読む限り、FB運営はあまり深く考えてこなかったことがわかります。なので、安心して下さい。誰も田中さんのことなんか誰もみていませんから。


 


 あと、さらに補足してあげると、「マガジン 生を忘れるな」で安冨歩さんの著作書評の連載を持ちかけたのは私ではありません。ご依頼主の野口大介さんの発案です。何度か、依頼を受けているうちにご本人から何らかのかたちにまとめたいとご要望があったので、私はAmazonのKindle出版はどうすか?と持ちかけたのですが、野口さんはnoteのほうが良いと云うことでマガジンの連載となったわけです。野口さんの記事を読めばわかるはずなのですが、手間だったのですね。
 ちなみに、安冨さん自身、自分がリベラルと括られることに違和感を持つと思いますが、反安倍・自民党と云うことでリベラルとみなされるのは興味深いものがあります。ちょうど、フェミニストの立場からリベラル批判を行っていた上野千鶴子が今やリベラルの旗手とみなされ、中国ではリベラル派の思想家として受容されているのと似ていて勘違いは興味深いです。




 

 あと、私は何本か過去に、安冨さんの著作への好意的な内容の書評を書いています。マガジンでも基本、好意的な内容の記事を書いています。ただ、現在は彼女の議論や概念を手放しで喜べないなと思っています。

 例えば、安冨さんが言論人として有名になったのは、2011年に発生した東日本大震災のさいの知識人の言論を批判した『「原発危機」と東大話法』ですが、現在の私は同書の内容に同意できない点が多々あります。安冨さんは福島第一原発事故が発生したのは安全性をごまかした「東大話法」のせいであり、香山リカや池田信夫、原子力学者などの知識人の議論はそれに当たるとみなしています。そして、「東大話法」の背景にあるのは自らの立場を守るためにはありとあらゆる手段を講じても構わないとみなす「立場主義」であると看破しています。自分の「立場」を守るために、「東大話法」のような詭弁が繰り出され、そのせいで原発の危険性が不問に付されて一部の批判的な研究者以外は東京電力をはじめとする「原発村」に都合の良い言説が流布し、その結果、原発事故を起こしてしまったと批判しています。しかし、安冨さんは問題は原発村や知識人だけではないとみなしています。曰く、日本人は多かれ少なかれ「立場主義者」なのだそうです。
 同書の第4章の「福島の人々が逃げない理由」と云う節では、知人から聞いた話と称して東京から関西へ避難してきた人が「明日はゴミ当番だから」と云う理由で放射能が降り注いでいるかもしれない東京に帰ろうとしたと云う話を紹介しながら、福島県民が逃げないのは「ゴミ当番」のような「立場」を失うのが嫌だから「逃げない」とし、日本人にとってなによりも「立場」が大切なのだ、だから多くの日本人は「立場主義者」なのだ、と結論づけています。この「ゴミ当番」の逸話はいたく気に入っているそうで、10年後に刊行した『生きるための日本史』の第3章でも同様の話を引用しています。

 安冨さんの議論はエーリッヒ・フロムが提唱し、その後の社会学や政治学で何度も議論されてきた「権威主義的パーソナリティ」の焼き直しとも読めます。フロイト左派であったフロムはナチスがドイツで支持された理由を「権威に盲従する人々の心情にあった」と分析しています。つまり、ナチスのような権威主義的政治体制を支えているのは、権威に盲従する人々の心情であると云うわけです。安冨さんは複数の著作でフロムの著作を何度も引用し、自身も影響を受けたと語っているので同様の議論をするのは当然と云えます。それこそ、「日本人はお上の云うことをすぐに信じてしまう、お上信仰の国民性だ」「日本人は欧米人と比べて集団主義の村社会で和を乱す人を許さない」「日本人は自分よりも上の地位にいる人間に忖度してしまう」と云うような言説はどこかで聞いたことがあると思います。ちょうど、戦前のドイツ人がナチスに盲従したように、震災前の日本人も原発は安全だと盲信してきた、と云う「権威主義的なパーソナリティ」が浮かび上がってきます。「立場主義」とは「日本型権威主義」と言い換えても良いかもしれません。この議論の前提になるのは、大多数の日本人がまったく同じ心情を持っていると想定していることです。

 しかし、実際の3・11の研究ではっきりしているのは、日本人はまったく同じ心情を抱えておらず、むしろ地域間の格差が大きいことが指摘されています。

 東日本大震災の復興過程を分析したアメリカの研究者・D・P・アルドリッチの『東日本大震災の教訓』を読むと、安冨さんが議論するような「日本型権威主義」は海外ではポジティブな評価を受けていると指摘しています。曰く、日本は社会的に政治的に安定していたからこそ、世界史的な大災害も乗り切ったとみなされています。大災害が発生した場合は、国民と政府の間で信頼関係がなくてはなりません。被災者救助や支援、復興なども行政と地元の人たちが協力し合ったほうが効率的です。それこそ、中国のように政府に批判的な意見を表明しただけで取締を受けるようなこともなく、ハイチのように政府の力が弱くて災害が起きても為す術もなく、インドのように政府が地域に信頼されておらず民間に頼らざるを得なかった状況と比べれば、日本は死者数は1万5000人台で済んでいます。そのうち、約1万人は宮城県に集中しています。実は、福島県は東北被災地で一番死者数(1600人台)が少ない県になります。福島県は原発事故で帰宅困難な地域を抱えていますが、死者数でみれば圧倒的に少ない被害で済んでいます。多くの国が震災後に救助や支援などの対応が上手くいかず、建築基準など守らせることができずに数十万人単位の死者数を出しているのと比べれば、「日本型権威主義」は非常にまともにみえます。



 それこそ、中国やロシアのように政府による報道監視が行われ、物理的な弾圧が加えられることもなく、民主的な選挙によって政府の指導者が選ばれているので、日本人が「権威」に従うのは民主的なプロセスが徹底しているからだ、とみなされているわけです。欧米のような大規模なデモや暴動も起きないため、多くの日本人は現状に満足しているとみなされているわけです。

 しかしながら、とアルドリッチは付け加えます。一見すると、安定しているかのようにみえる「日本型権威主義」「村社会」のような「日本特殊論」は現地の状況を無視していると指摘しています。

 まず、日本人が自分よりも上の地位の相手に反抗せずに従うと云う「権威主義的パーソナリティ」の持ち主ばかりならば、なぜ石巻の大川小学校で死亡した生徒の遺族が市と県を相手に何十億と云う賠償金を請求したり、原発事故で被害を被った住民たちが東京電力経営陣に対して刑事訴訟を起こしたり、原発事故への抗議で首相官邸前に何万人ものデモが行われたのか、と疑問を投げかけています。「権威」に盲従して信頼している人ばかりならば、自治体や大手企業、政府を訴えたり、抗議をするはずがないからです。




 また被災地の復興過程もまったく同じではないことが指摘されています。死者数でみれば、宮城県がぶっちぎりなのですが、今や震災のさいに話題になるは原発事故があった福島県ばかりです。アルドリッチは宮城県が福島県よりも復興がスムーズに進んだのは中央とのパイプが強固だったからだ、と指摘しています。宮城県は東方最大の都市の仙台があり、人的な交流が盛んです。そのため、宮城県に所属している自治体は自分たちの意見を政府にダイレクトに届けることができ、地域の実情に合った独自の復興策を練り、復興予算もより多く引っ張ってくることが可能だったと指摘しています。一方で、岩手県や福島県は宮城県と比べると、中央とのパイプが弱く、政府になかなか意見を伝えられず、政府が用意した復興計画を予算獲得のためにしぶしぶ受け入れざるを得ず、そのことがかえって復興が被災地域にとって望ましいものに繋がらなかったと云います。

 さらに、実際の世論調査などから決して日本人が無条件に政府を信頼しておらず、むしろかなり政治に対して不信感を抱いていると指摘しています。震災の直後は民間の意見を反映させる動きが政府の内部で存在したものの、自民党政権になると民間の意見をあまり聞かず、中央政府によるトップダウンで政策決定をしていったことがかえって不信感を招いたと云います。投票率の低下、原発再稼働への根強い反対意見などが挙げられています。

 私は仙台市在住で3・11で被災した身からすれば、安冨さんよりもアルドリッチの分析のほうがしっくりきます。と云うよりも、学問的方法論に基づけば、アルドリッチのほうが正しいと云えます。 震災直後に書かれた安冨さんの著作と震災から数年後の復興過程を描いたアルドリッチの著作を比較するのはアンフェアとお叱りを受けそうですが、安冨さんは震災10年後にしるした『生きるための日本史』でも同様の議論を展開しています。アルドリッチが原書を刊行したのは2019年で、邦訳は2021年です。アルドリッチの議論では多くのエビデンスが提示されています。本人が被災地で直接調査を行ったさいのデータも収録されていますが、基本は公開情報に基づいています。しかし、安冨さんの著作ではアルドリッチのようなエビデンスが提示されていません。代わりに、知識人や東電、政府への不信感に基づいた情緒的な議論が目立っています。もちろん、3・11直後に刊行された書籍の多くは東電や政府、原発事故を起こした日本社会への不信感に満ちたものが多いのは当たり前と云えますが、人からのあやふやな伝聞情報を根拠にするのはいただけません。客観性が乏しく、反証が難しい議論をしていると陰謀論や宗教に限りなく近づいてしまいます。

 実際、安冨さんは薄々その点を理解している節があって、同書の第5章では「原発に反対する人がオカルトに惹かれる理由」と云う節を設けて、陰謀論との差異化を測っています。それと同時に「原子力のオカルト性」と云う節を設けて、原発推進もある種の不合理性を抱えていると指摘しています。同書の最後には『「日本ブランド」の回復へ』と云う節まで設け、同書の続編にあたる『幻影からの脱出』の最終章では「なでしこジャパンの非暴力の戦い」「四川地震の日本の救助隊」などの海外で活躍した「立派な日本人」たちを取り上げて「日本的なもの」を称揚しています。同書の末尾は「日本ブランドをいかに回復させるか」と云う前作と同じような「日本ブランド」の回復こそが原発事故後の日本の取るべき選択だ、と結論づけています。「東大話法」や「立場主義」のような「日本的なもの」を散々批判してきたにも関わらず、具体的な政策提言の場合は「日本的なもの」を称揚するのはなかなか矛盾しているのですが、震災直前の混乱期においては一定の安心感を読者に与えたとも云えます。

 もっとも、安冨さんは原発事故以前に刊行した『生きるための経済学』『経済学の船出』では、「経済学は反証不可能な議論を前提にしている」と指摘し、学問と宗教はさほど距離感がないと主張しているので取り立てて奇妙ではないです。その後の著作でも、親鸞や論語、老子など宗教にまつわる思想に対して好意的な内容の書籍を刊行し、「科学と宗教は矛盾しない」と述べ、自身を「合理的な神秘主義者」と称しています。要は、彼女の議論にはたぶんに、宗教のような反証不可能な前提が含まれているのですが、そのような彼女に対して「宗教批判者」「無神論者」と自己規定されている田中さんが好意的な文章を寄せるのは興味深いです。

 あっ、あと追加で加えると、陰謀論のような反証不可能な議論にひかれるのは、思想の右左関係ないことが実証されています。人間は多かれ少なかれ、自分の志向や思想、党派性に合った情報や言説を好んで選択して物事を解釈したがることが証明されています。もっと云うと、政治的な知識の有無は重要ではなく、むしろ政治的な知識がたくさんあって政治に関心が高ければ高いほど、陰謀論に惹かれやすいと云う実験結果まで出ています。
 政治学者の秦正樹は『陰謀論』でリベラルな志向の持ち主でも、「選挙制度そのものに不正はあると思うか」「与党が勝つように仕組まれていないか」のような根拠不明な言説を受け入れてしまうことを指摘しています。秦は逆説的ですが、「政治に関心を持たずに、目の前の生活で満足しているならば陰謀論が入り込む余地はない」と結論づけています。陰謀論は確証バイアスを補強するさいに大いに役立つわけです。
 実際、陰謀論は右派や保守の専売特許ではなく、リベラルでも安冨さんの例を見ればわかるように根拠があやふやな言説を語る人は一定数存在します。それは日本に限った話ではなく、保坂三四郎『諜報国家ロシア』ではKGBやFSBのような諜報機関の人間たちは政治工作の一環として偽情報やコンプロマットを補強させる陰謀論を敵対勢力に流しつつ、自分たちも陰謀論的世界観で物事を解釈してしまう思考の癖があると指摘しています。
 またアメリカの研究者・ジョゼフ・ユージンスキーは『陰謀論入門』はアメリカの学会では共和党の政治家や支持者の主張する陰謀論ばかりが取り上げられていて、民主党やリベラル層が「陰謀論を信じない理性的な人たち」として描かれがちな点に疑問を呈しています。実際、反証不可能だったり、根拠があやふやな言説を唱える人たちはリベラル側にもいて、バーニー・サンダースのような大物政治家やポール・クルーグマンのようなノーベル賞受賞者でも陰謀論とみなされてもおかしくない言説を主張している事例を上げています。また政府が陰謀論を過度に恐れるあまり、陰謀論者を取り締まろうとすることで本当に陰謀が起きてしまった事例も上げてしまいます。ロシアの諜報機関のように相手の何気ない一挙手一同が自分たちへの攻撃と捉え、結果的に陰謀論者の主張が現実に起こってしまうわけです。確証バイアスに基づいた予言の自己成就と云えます。

 なので、田中さんがネットで知り合った程度に過ぎない相手に、ブロックされただけで「似非リベラルだ」「こいつは権威主義者だ」と云うような謎のプロファイリングを行い、自身に批判的な記事を書いている人とやり取りをしただけで「こいつらはグルに違いない」「知性の浅さが露呈している」と思ったり、単に事実を並べただけの記事をみただけで「こいつは自分に批判をされたから逆恨みでこんな記事を書いた」「自分をnoteから追い出そうと攻撃を加えている」「こいつは卑怯な人間だ」「人間性の卑しさがにじみ出ている」と云う風に対人論証をするのはさほど奇妙ではありません。実際、田中さんの言説に促されて「吉成学人は陰口を叩いている」「吉成学人は批判されたから逆恨みしているに違いない」「吉成学人は権威主義者に違いない」と一度も会ったこともないのに、私の人物評価をして下さる方が続出しているので、「あー、面白いねー」「人生楽しそうだね」と云う感じです。

 まぁ、この記事を読んで「いや、わざわざこんな文章を書いていると云うことは本当は批判されたことを根に持っているに違いない!」「自分がよくわからない学者や議論を引用しているので権威主義者に違いない!」と思うのは自由です。別に私は他人の思考までいじる気はないです。そして、残念ながら、今の私は田中さんにも皆さんにも興味がないのです。大変申し訳ない。実験のサンプルにちょうど良いやとしか思えません。

 そろそろ疲れてきたので、さようなら。

最近、熱いですね。