《2024年》 07/22(月)吉祥寺ブラック&ブルー 08/03(土)京王永山 FREE As BIRD 08/09(金)阿佐ヶ谷 天 08/24(土)松戸 cafe &diningリンネ 09/20(金)池尻大橋 music bar FUZZ 11/24(日)京都 京都 西院Ooh-la-la ※ほとんどのライブがご予約がなくても入れますので直接ご来場ください。 前売等で金額が変わる、または来場数に上限があるなどの場合は演者もしくはライブ会場へご予約の連絡をお願いいたし
何年か前に売れることを諦めた。 諦めたというよりも、目指すところが“売れる”とはかけ離れてるんだなと気がついた。 歌を歌う。 何故歌うのか、というのを他人に理解できるよう説明しなきゃいけない環境がずっとあった。 その上、適当にした説明を実行しなきゃいけない圧があった。 歌ってチヤホヤされたい。チヤホヤされたいならこうしなきゃ、歌うならこれをやんなきゃ、あれができてないなら努力が足りない、これが理屈なんだからまずはそれをやれ。 それはとてもとても中身のない会話だったなと思
好きな先輩バンドマンがいる。 一緒に呑んでると最後は喧嘩みたいになる人だけれど、彼の弱さやひたむきさ、根性、人情、そういう全部が憎めなくて好きだ。 彼のことは便宜上、先輩と呼んでいるけれど、あまりそういったタイプの尊敬の念はない。何というか、こう、剥き出しで言い合える仲。 つまり戦友という言葉が合うのだ。 戦友は他にもいる。どんどん増えてく。 ライブハウスで全力を出して、まだまだ先を見ていると自然とそういう切磋琢磨してくれる人達が集まってくれる。 もちろん最悪な演奏をして
この世界のことを考えた時に、歯が浮くような言葉が出てくる。 世界を想えば想うほど、馬鹿みたいな言葉が生まれる。 音楽をやろうと想う気もちって、とてもアホなものだと思う。 惨めで、くだらなくて、みっともない。 だからこそ人間らしいなと思う。 私は音楽が好きだ。 それは、生々しさを知ってるからだと思う。 歌を歌う。 真剣に歌うって、すごく難しい。 誰かに響くように、誰かに受け止めてもらうように、そうやって歌う。 それってワガママだけど、大切なことだと思う。 歌を歌う僕らのワ
お酒を飲む。 飲む必要もないと思う。 でもお酒を飲む。 たぶん、お酒を飲んだ方が素直に真面目に話ができるから、だから飲む。 だらしないとか、心配だとか、色々言われるけれど、缶ビール開けてる時にしか語れない物語りってきっとあると思うのよ。 いや、綺麗事かもしれないけどさ。 大人になると、社交辞令からそつのない対応まで色々と身に付いていく。 仕方ないことだと思う。 嫌でも身に染み込んでくるものだし、逃れたくても社会性というものはそれでもあるんだから、仕方ない(仕方ないって嫌いな
外が晴れてたので菖蒲を眺めに行きました。 チャリンコで川沿いを走って、地元の人達の協力で成り立ってる近所の菖蒲園へ向かう。 平日のお昼前、河川敷には草野球のグラウンドがいくつも並んでいる。1つおきに誰かしらおじさんがいる。1人おきに上半身裸である。 なぜ平日の昼間に河川敷(とくに草野球グラウンド)にいるおじさんは半裸なのだろうか? あのグラウンドが試合で使われない日は半裸のおじさんの懸垂の予約が入るのだろうか。 私のチャリンコの横をシュッとしたスポーツバイクが数台走り抜けてい
早朝の祇園四条、観光のベストスポット。 インバウンドだなんだかんだで静かな京都のイメージが薄れていたのだけど、早朝ってのはいいですね。お店も開いてないけど、人もいない。 平らに広がる街の先に見える低い山。 鷺が点々といる川。 古い建物と新しい建物が渾然一体になっている。 通りをひとつ曲がれば若い人達が解釈した京都がウインドウに並んでる。 その隣に長いことここで看板出してるんだろうと思われる喫茶店がある。 歴史と観光と品格と田舎がモザイクみたいに並んでる。 ブラブラしたい。
ほれ見たことか、連日文章を書くなんて言って、三日坊主ではないか。 と己に言いながらスマホを手にしました。 あれこれやりたいことがあるのに脳みそに暮らす得体の知れない影が僕の脳のシワにアイロンをかけるんです。 だから僕は日に日に馬鹿になっているのです。 ただいま京都に向かっています。 本当はもっと告知して、デモ音源作って、とか考えていたんですけども、全然できませんでした。ごめんなさい。 京都に向かう夜行バスに乗り込む前に一緒に暮らしてる3歳の姪っ子と夕ご飯を食べて来ました
さきに言っておくと、観光のことは私は初心者である。ただ、東京に住んでいると色々目についてしまうのだ。 日本が経済的に弱くなって来たので観光客が増えたみたいだ。 SNSやニュースでマナーの悪い外国人観光客が取り沙汰されてる。 いろんな対処が必要になるんだよなと思うんだけど、日本が経済的に豊かだった70〜80年代、あの時いろんな国を荒らした人達がいただろうなとも感じた。 なんてったって売買春合法の日本人ですから(一部の人へ向けたただの皮肉ですよ)、金さえ払えば非人道的行為もO
前に、反出生主義者ですか?と聞かれたことがある。 私は反出生主義(生殖は非倫理的だという考え方)ではない。 私がよく愚痴っているのは、生殖や生殖行為が社会システムとして組み込まれてるのが気に食わないということだ。 キリスト教もそう。経済活動もそう。人間を歯車や機械のように扱って、それが正しいことだと言ってくる。 宗教も資本主義も一から十まで全て間違ってるとは思わない、だが一から十までその通りなわけでもない。 女は子供を産んで〜〜男女は種族の繁栄を〜〜とそれっぽいことを言ってる
時間がない、時間がない、時間がない。 忙しそうに西へ東へ走り回って、休みの日はひたすらに眠る。 それが人間の暮らしなのだそうで、それなら私は人間じゃなくていい。妖怪にでもなろうか。あ、水木しげるもこんな感じだったのかな。などと思いながら文庫本を開く。 時間がなくとも読みたい本は増えていく。 目が見えるうちにあと何冊読めるのかとか、効率のいい読書とか、そういうことを考えてしまうのがナンセンスなのだ。 コスパ(コストパフォーマンス)とかタイパ(タイムパフォーマンス)という言葉
先日、公開シンポジウムというのに行ってきた。 自分がTwitterでフォローしている大学の先生が話すとのことで気になったので行ってみた。 世界遺産と観光についての話で、もちろん私は専門外だし興味があるわけでもないのだけどこれが面白い面白い。 頭のいい人達の話ってこんな面白いの?と、思うくらい面白い。 ネパール、南インド、ヨルダン、京都の話を聞きながら大学生でも専門家でもないアロハ着た女(ニアイコール尼神インター渚)がにやにやしてしまうくらい、面白い。 いやぁ、いいものを見
少しずつ変わっていく自分への寂しさと諦めがある。 それはつまり世界からの自立なのだ。 昔は(昔というほど前ではないが)“老いる”ということへの恐怖があった。 それも社会の価値観に沿おうとする自分の無意識の努力が招いた恐怖なのだと思う。 今は考えなくなった。自分が“老いる”ということに執着していないと分かったからだ。 でも相変わらず社会は執着しているから、「おばさん(笑)」とか、「もう歳だからね(笑)」などなど言われる。 その言葉をその人は自分自身にも言っているのだろう。自分を
悪ふざけでこういった文章を書くと下心ありありなのに「いや別に今泉が珍しくnoteを更新したから見に来ただけだけど?」ってテンションのファッキン糞野郎が沸くんですけども、言いたいことはそういうことではなくて、ライブのことですね。 長く過ごした吉祥寺からは遠く離れた東の地で暮らす日々。 素敵で可愛らしい日々ですよ。 とても、充実してます。 それでも私に貼り付いて消えてくれないものがあります。 希死念慮、と呼ぶのは少し角ばっている感じがしますね、それに見えるような漠然とした不穏な
誰かが僕を求めているのかもしれない。 そんなこと、くだらないままごとの台詞なんだろう。 それでもその台詞を信じたくなる。 それくらい、魅力的なことなのだ。 どこかの誰かに必要とされること。 それはロマンチックでエキサイティングだ。 今年はたくさん人が死んだ。 私が四六時中一緒にいた人じゃない。 年に数回、下手すれば数年に1回、会うような人。 それでも物悲しいものは物悲しい。 知ったような口を利いて、我が物顔で泣いたりなんてできないけど、でも、その人のほんの少しでも生
遠い遠い 背の低い草がびっしりと生えている土地 離れた所にいる牛がその草を喰む 肥料の臭いに顔をしかめながら 開けた窓を閉めない 遠い遠い 世界の端っこには 綺麗な山並みと平らな地面がある 牛飼いの彼の顔はよく見えない 僕は何をするでもない 風向きが変わって今度は湿気った土の臭いがしてくる 雨が降るのかもしれない 僕は何をするでもない ちょうどいい高さの流木を探して枕にして 青緑の大地に流れ着く木々を眺めてる 空は曇っても草原は溌剌としてる 逆さまになった太陽が土の下