歌うことと売れること(駄文)

何年か前に売れることを諦めた。
諦めたというよりも、目指すところが“売れる”とはかけ離れてるんだなと気がついた。

歌を歌う。
何故歌うのか、というのを他人に理解できるよう説明しなきゃいけない環境がずっとあった。
その上、適当にした説明を実行しなきゃいけない圧があった。

歌ってチヤホヤされたい。チヤホヤされたいならこうしなきゃ、歌うならこれをやんなきゃ、あれができてないなら努力が足りない、これが理屈なんだからまずはそれをやれ。

それはとてもとても中身のない会話だったなと思う。
我に帰って考えた時に、私が歌いたいと思うのは衝動なのだとあらためて感じた。
歌ったうえでどーのこーの(チヤホヤされるとか、賞賛されるとか)は付随するもの、おまけでしかなく、メインじゃない。
でもメインのところを言葉で相手が理解出来るように話すのはとても難しい。

歌いたいと思う衝動は魂のビブラートである。ブルブル震えてる。その波紋が外へ出てきただけだ。

歌ったり踊ったりしたくなるのは原初的な細胞レベルのものであって、売れるだなんだの社会的な超近代(この100年内くらいを表す造語です)の価値観なわけだ。
“歌いたい”という衝動の円の中の隅っこにチラリと売れたいという円があるだけで、それがどんなに膨らもうと“歌いたい”という円の大きさを超えることはない。

技術や知識でマウントを取られることに怒りや憤りを感じて、真正面から反論していたけれど、そこは私の舞台じゃないんだとわかった。
マウント取られようが何しようが、私はステージの上で魂を露わにしているのだから、同じように露わにしてる人とだけ向き合えば良い。

見てくれる人達だって同じだ。その魂の輪郭を感じて真剣に解釈してくれる皆さんに、私は全力を見せるだけだ。

それが歌うことだ。
売れようが売れまいが、全て後の世の人が勝手に判断してくれりゃいい。その時には私は耄碌してるか死んでるかなんだから、どうでもいいことなのだ。

言葉に何をのせるのか、
例えば“希望”と言う言葉の持つ力に引っ張ってもらうのか、その言葉の物語を語るのか、その言葉の引力を見せるのか、その言葉の不和を知らせるのか、その言葉の脆さに向き合うのか。歌うと言うのはそういうことだ。

今ある刹那の社会に認めてもらうよう頑張るのか、何百年か後の人に通ずる価値観を表すのか、そういう違いが売れるどうのこうのの話にはある。

真剣になればなるほど浮世離れして、地に足のつかないことを言う羽目になるけれど、それはライブで説明がつく。
良い歌を歌って、良い言葉で話せばいい。

ライブで歌うものが全てだものな。

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