コペルニクスから始まった現代科学
「薔薇の名前」以後の14世紀半ばから15世紀半ばまで、ヨーロッパはイギリス王とフランス王との百年戦争に入る。この騒動の中でのペスト(黒死病)のパンデミックと農民の反乱。ようやく落ちついた1473年、ポーランドでニコラウス・コペルニクスが生まれる。「天動説から地動説」という科学の大きな転換期について概説する。(小野堅太郎)
街灯のない時代、夜は闇に包まれる。満点の星空を見上げて、眠れない古代の人々は星を見て夜を過ごした。それはまるで天空の壁が大地を覆うようであった。これは神話における天地創造に影響した(エジプト神話、中国神話)。紀元前には既に定期的に同じ星が夜に現れることを知り、1年が365日、月の満ち欠けが30日周期の12回からなる事を発見し、天文学は未来を予測する占星術となった(詳しくは下の過去記事参照)。
古代ギリシャでは、アリストテレスが直感的に「地球を中心として宇宙が回っている」と天動説を唱える。紀元後にプトレマイオスが星の動きを正確に測定すると、ほとんどの星は円軌道を描くが、いくつか変な動きをする星に気づく。彷徨い惑う星「惑星」は地球を中心として回転するものの、別の小円軌道「周転円」も二重に併せ持つのだと説明される。それから1400年以上、「周転円」についてはっきりとモノ申す者は現れなかった。
と、ここまでがコペルニクス以前です。
1453年の百年戦争終結後、封建領主は没落してヨーロッパは絶対王政となっていきます。同年、あのビザンツ帝国(歯科医療の歴史外伝②を参照)がオスマン帝国の侵攻により壊滅し、ギリシャ人学者が大量にイタリアのフィレンツェに流れ込みます。前年には、グーテンベルクが既に聖書の活版印刷を始めています。12世紀は図書館を利用した一部の知識人だけの学問ルネサンスでしたが、今度のルネサンスでは本の流通という情報革命により「文化」再生として民衆にまで広がっていきます。そんな中、コペルニクスは生まれたわけです。
幼くして両親を失ったコペルニクスは、後見人の叔父と同じく司祭になるために地元のクラクフ大学(現在のヤギェウォ大学)自由学芸七科へ通います(1491年)。在学中の1493年には「新大陸を発見したコロンブス」がスペイン王国に帰ってきますので、大航海時代になっています。航海では星から位置を知る必要があるので、天文学の需要は高まっていました。コペルニクスは4年で卒業して司祭職に就いたものの、翌年にはイタリアのボローニャ大学で法学を習いに留学します。この時に天文学者ノヴァーラに弟子入りし、天体観測を習います。1500年に卒業したものの、翌年に再びイタリアのパドヴァ大学に留学し、二年間医学を習います。そして、同国のフェラーラ大学にて法学で博士号を取得して、故郷に帰ります。コペルニクスは12年間も大学に通う中で、天文学だけでなく、様々な学問を修めてきたわけです。
叔父の後押しでフロムボルク大聖堂の参事会員となっていたので、この地に天文台を建設します。そして、1510年、「コメンタリオルス」と呼ばれる仲間内の小冊子の中で「地動説」を主張します。
他の記事でも繰り返し語っていますが、科学において「経験」は重要な研究の動機づけと理解(納得)に繋がりますが、それは現代科学とは異なります。アリストテレスは「ある生物がこんな形をしているのは、こうするのに便利だからだ」と考える人でした(目的論)。これは、現在の学問の中でも重要な考察方法(生物学では生理学的意義)としてよく語られます。
しかし、後にダーウィンが「ある生物がこんな形をしているのは、生息環境の中でその形でないと生き残れなかったからだ」と言い出します。こちらが現代科学です。例を出すと、「キリンの首はどうして長いの?」という質問に、「高い木の葉っぱも食べられるから」と答えたのでは「首が長い理由」を全く説明していません。つまり、ダーウィン以前は生物の形が違うことの理由を誰も説明できなかったのです。
ですから、この世界が始まったときに神がすべての生き物を作った、という暫定的な答えが広がり、アリストテレス哲学はキリスト教と融合して(スコラ学)、科学の聖典となり続けたのです。当時は「神の存在を示す最大の科学的根拠」でした。アリストテレスを含めた古典的な学者・医者の言説に異議を唱えることは「異端」として排斥されたわけです(アリストテレスが、それを望んでいたとは思えませんが)。
アリストテレスの物理学考察としては「重いものが早く落ちる」「星が大地を回っている」と直感的な考察が書き記されていました。これらはいずれも近代科学では否定されています。1326年に教会から破門されたフランチェスコ会修道士「オッカム村のウィリアム」は言います。「ある事柄を説明するのに多くの仮説を付け加えるべきではない。」と。有名な「オッカムの剃刀」です。そう、コペルニクスは気づいてしまったのです。地球が自転して、太陽の周りを公転していると考えればプトレマイオス説のような謎の仮説(周転円)を組み込まなくても星の動きを説明できてしまうことを。科学が目的論から脱却し、「論理性」に基づき始めたのです。
1543年にコペルニクスは亡くなりますが、死の間際に「天球の回転について」という地動説集大成の書物を残します。その後、ブラーエ(1546-1601年)、ケプラー(1571-1630年)、ガリレオ(1564-1642年)、そしてニュートン(1642-1727年)と受け継がれて天体の動きが解明されていきます。まさしく、コペルニクスは科学を現代科学へ押し上げた人でした。
16〜17世紀はすごい時代です。医学界ではヴェサリウスが解剖学を現代レベルまで引き上げます。解剖の理解により外科学が発展していきます。生理学ではハーベイが、血液は循環していると主張します。パラケルススが医学に錬金術を取り込み、医化学の概念を作り、生薬などの処方に鉱物を使うようになります。哲学ではデカルトです。多くの科学者たちは古い体質の大学に見切りをつけ(というか追い出され)、外に会員制アカデミーを作り、その中で活動するようになっていきます。宗教でも革命が起きました。マルチン・ルターによるプロテスタント会派の誕生です。活版印刷によりラテン語ではない聖書が多くの人の手元に届くようになり、「聖書」を最も重要なものとします。対抗するように、フランシスコ・ザビエルらによる世界布教を目的としたイエズス会が誕生し、戦国時代の日本へ科学が流れ込んできます。
ようやく西洋と日本の交流が出てきました。そろそろ日本の科学史にも触れていこうと思います。
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