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「図書館」から大学設立へ:歯科医療の歴史外伝②

 11世紀までの図書館と学問の歩みについて前回の記事にまとめました。いよいよ12世紀の「大学設立」の話となるのですが、この時期のヨーロッパにおけるお国事情とキリスト教事情が複雑に絡みます。どこまで搔い摘むことができるかわかりませんが、説明していきます。(小野堅太郎)

 4世紀に遡ります。313年、ローマ帝国はキリスト教を公認し(ミラノ勅令)、ユダヤ教の聖地でもあったエルサレムがキリスト教でも聖地と認定されます。このころから、ローマ帝国は大きくなりすぎたのか、東西に分裂を繰り返します。フン族のヨーロッパ北方への侵攻により、そこに住んでいたゲルマン民族(後のイギリス、ドイツ、ノルマン人)が大量に南下してきます。このゲルマン人達により、分裂した西のローマ帝国は5世紀には消滅します。

 残った東ローマ帝国では、529年に非キリスト教的学校はローマではすべて閉鎖されることになったため、教員がペルシャへと流出してしまいます。7世紀になってムハンマド(イスラム教の開祖)が登場し、イスラム帝国が拡大してきます。638年、イスラム帝国はペルシャ・サーサーン朝を敗り、エルサレム(ユダヤ教では滅亡したユダ王国の首都で神殿のあった聖地(嘆きの壁)、キリスト教ではイエス・キリストが死刑になり復活した聖地、イスラム教ではムハンマドが天に上り神と面会した聖地)も統治下におきます。東ローマ帝国は、イスラム帝国およびゲルマン人に押されてどんどん領地を減らしていき、最終的にローマの支配権を失ってギリシャとその周辺のみを支配することになります。後で出てくる新しいローマ帝国とごっちゃになるので、この時期以降の東ローマ帝国は「ビザンツ帝国」とも呼ばれます。

 ここら辺はニケイさんの歴史記事を参考に。めちゃくちゃわかりやすいです!

 西ローマ帝国を消滅させたゲルマン人たちは、それぞれに国を形成していたわけですが、8世紀ごろからフランク王国が力をつけてきます。国王ピピン3世は教会保護の姿勢を取り、教会への寄付文化がヨーロッパ各国に広がっていきます。そうして、ピピン3世の息子カール1世が主権を握り、イスラム帝国の侵攻を退けるようになってきます。これを気に入ったローマ教皇は、なんと、800年にカール1世を皇帝(西ローマ帝国の?)とします。ローマ教皇の影響力がいかに大きくなっていたかを象徴する出来事です。イメージとしては、旧西ローマ帝国領地に最も影響力のある教会外の人を決めた、という感じでしょうか。フランク王国はカール1世の死後に分裂して、現在のフランス、ドイツ、イタリアの原型となっていきます。

 一方、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)ですが、9世紀のバシレイオス1世の時代から盛り返します。もちろん、カール1世がローマ皇帝であることを認めませんので、二帝時代となります(日本でいう南北朝時代?)。こちらでも、ローマ教皇の影響力を示す逸話があります。8世紀にも一度、聖像破壊(イスラム教からキリスト教の偶像崇拝を指摘されたのがきっかけ)でにローマ教皇と揉めていますが、この9世紀にもフィリオクェ問題で再び揉めます。キリスト教は5世紀頃から分裂してきていました。フィリオクェ問題では、東ローマ側「正教会」の聖職者フォティオスが、ローマ教皇側の「カソリック教会」と教義解釈で揉めたのです。バシレイオス1世はローマ教皇との和解のために正教会の聖職者フォティオスを罷免してしまいます。この揉め事により、キリスト教は後に、西方教会(カソリック教会)と東方教会(正教会)に大別されていくことになります。

 というわけで、10世紀ごろには、ローマ教皇側の強い影響力のある新しいローマ帝国(二帝)という感じでヨーロッパの支配関係が出来上がります。そして有名なカノッサの屈辱(1077年:Wikipedia参照)です。ローマ教皇とローマ皇帝の奇妙な上下関係が最も浮き彫りとなった事件だと思います。日本の歴史の天皇と幕府(征夷大将軍)の関係に似ています。これ以降、教皇派と皇帝派との熾烈な駆け引きが行われるようになります。皇帝たちからすれば、信じる宗教のトップを傀儡にして大義名分を得ながら支配権を強めていきたいわけです。 

 1096年、第一回十字軍の遠征がはじまり、エルサレムでキリスト教徒とイスラム教徒の争いが200年近く続くことになります。戦争によって文化の流入が起こり、科学や医学の必要性が高まります。一度流出したギリシャ学問が一気に再輸入され、キリスト教圏にてアラビア語書物のラテン語への翻訳がはじまるわけです。その学問の場がキリスト教の「修道院」でした。図書館が併設され、修道僧たちが翻訳と写本を行ったわけです。翻訳者としては「クレモナのジェラルド」という人で、イベリア半島(現在のスペイン)のトレドで多くの書物をアラビア語からラテン語に翻訳しています。

 ここで最も権威ある学者として取り上げられたのが「アリストテレス」です。膨大な著書、ありとあらゆる分野(哲学、分類学、科学、政治学など)に渡っています。医学の分野では「アヴィセンナ」です。アヴィセンナとはイブン・スィーナー(略名)という名前のラテン語での呼び名です。ラーゼス(アル・ラーズィー)アブルカシスもそうです。翻訳時にラテン語名に変えられ、そして広まっていったのです。

 これにて、4世紀にペルシャへ移行した古代ギリシャ・ローマ医学は、アジア医学と融合して、中世ローマ時代に再び戻ってきたわけです。

 そして、カソリック系キリスト教修道院から大学が生まれます。とはいっても、いきなりポン!と生まれません。学生と教員が集まって次第に形成され、自治権をもってきました。世界初の大学と言われるのが、イタリアのボローニャ大学です。1088年創設ともいわれていますが、実際のところよくわかっていません。少なくとも12世紀ごろには法学校として機能していたようです。1170年頃にはノートルダム大聖堂の付属学校からパリ大学が創設されます(特許状は1200年、こちらを世界初の大学とする話もあります)。13世紀には、ヨーロッパ各地にいくつもの大学ができてきます。図書館という世界中の「知」を集め、神について(神学)、教会について(教会法学)、そして医学についても研鑽が深められるようになったわけです。

 かなり端折ったので、皆さんに伝わっているかどうか心配です。次回から12世紀ルネサンスでの大学創設と科学についての話になります。あー、いつ日本の話にいけるのかなぁ・・・。


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