学びは教養となり、娯楽を増す:ウンベルト・エーコ「薔薇の名前」から学ぶ①

 14世紀ルネサンス。舞台は1327年11月末、北イタリアのベネティクト会修道院。異端の疑いのあるフランチェスコ会とアヴィニョン教皇庁からの両使節団の会談が控えていた。教皇庁と対立する皇帝側の調停役として、イギリス出身フランチェスコ会修道士「バスカヴィルのウィリアム」とその弟子である見習い修道士(ドイツ出身)アドソが派遣される。異様な図書館を擁する修道院内で黙示録を模した連続殺人が発生。この二人組が暗号を解き明かし、事件解決に挑む。(小野堅太郎)

 とまあ、前記事を読んでいただいてない方は全く理解できない出だしで名作「薔薇の名前」を紹介させていただきました。中富先生に「どう、わかる?」と事前に読んでもらったのですが、「全く意味が分かりません。私、カタカナが頭に入ってこないんですよ。」と言われた。

 よって、出来るだけかみ砕いて紹介しよう。

 まず、「14世紀ルネサンス」。ルネサンスとは「復活・再生」を意味するフランス語で、14世紀にイタリアで始まった古代ギリシャ・ローマの文化を復興させた芸術活動のことを指す。十字軍の遠征によりイスラム圏で保存されていた古代ギリシャ・ローマの知見がヨーロッパに戻ってきたことがきっかけである。これは12世紀に起きているので、こちらを特別に12世紀ルネサンスといい、主に学問レベルでの復興を指しており、大学が各地に創設されることになる。つまり、わざわざ14世紀との表現には、12世紀ルネサンス(学問の復興)を行間に挟んでおり、12世紀からの大学教育で重要視されたアリストテレス哲学(スコラ学)が物語に関与することを示唆している。

 「1327年11月末、北イタリアの」と「アヴィニョン教皇庁」。当時新しく神聖ローマ帝国の皇帝となったルートヴィヒ4世の即位に関して、アヴィニョン(南フランス)に閉じ込められていたローマ教皇ヨハネス22世は「皇帝として認めない」と反論する。これに対抗する皇帝側は、自分たちの味方となるカソリック系会派の取り込みを画策した。ちょうどその頃、オックスフォード大学の教員であるフランチェスコ会修道士「オッカムのウィリアム」が異端として追放処分となった。皇帝は彼を保護、これが1326年。逆に教皇側としては皇帝側に取り込まれたフランチェスコ会全体を何とか「異端」と認定して排斥したい。1327年は、まさにその時であったということです。さらに北イタリアの11月末といえば、北海道より緯度が高いですので雪が降るくらい寒いわけです。年と月、ともに、これから始まる殺人事件に泥沼の政治と厳しい寒さが重なり合うことを匂わせています。

 「ベネティクト会」は6世紀から生まれた清貧を重んじる黒衣の修道会で、13世紀から始まった同じく清貧を重んじる「フランチェスコ会」と親和性の高い会派である。しかし、フランチェスコ会は、より清貧の規定が厳しく、あらゆる私有財産を認めず、衣服の染色さえも認めていません(灰色の修道会)。教皇庁の異端審問に関して、フランチェスコ会が会合を許す場としてはベネティクト会修道院以外ありえないわけです。加えて、教皇庁は異端審問には、同じく私有財産を認めない「ドミニコ会」から審問官を選出していました。ドミニコ会はスコラ学を創設し、14世紀のパリ大学を中心とした大学教育の根幹を担ってきた権威です。フランチェスコ会は「オッカムのウィリアム」だけでなく、スコラ学に疑問を呈したロジャー・ベーコンなど科学の萌芽を担ってきたオックスフォード大学の教員たちです。物語は、アリストテレス哲学を取り込んだ神学「スコラ学」と、その中から生まれつつある近代科学がぶつかり合うことが想定されます。

 「イギリス出身」は、オックスフォード系のフランチェスコ会であることを明確にしています。さらに、「バスカヴィルのウィリアム」とは「オッカムのウィリアム」を連想させる。バスカヴィル村のウィリアムさん、という意味です。イギリスのバスカヴィルといえば、コナン・ドイル著「シャーロック・ホームズ」シリーズ「バスカヴィル家の犬」を誰もが思いつくでしょう。ということは、バスカヴィルのウィリアムは、シャーロック・ホームズをモデルとしていることがわかります。「その弟子である」からは、ホームズの良き相棒であるワトソンの役柄を、アドソ、が担っていることを示唆してます。実際、物語を語るのはワトソンならぬアドソです。「ドイツ出身」にも含みがあります。当時のドイツといえば、神聖ローマ帝国です。つまり、ウィリアムもアドソも「皇帝側」であることが読み取れます。

 「図書館を擁する修道院」は、知識の補完です。当時の修道院には、図書館が多く併設されていたのです。ただし舞台は、「異様な」巨大図書館です。学問の場を舞台に、教皇と皇帝、フランチェスコ会とドミニコ会、宗教と科学、様々な対立関係が渦巻いているわけです。そこに、修道僧のホームズとワトソンが登場し、連続殺人の解決に挑みます。「黙示録」といえば、「七」です。7つの殺人が起きるのであろうことがわかります。

 本小説の作者は、ウンベルト・エーコ。12世紀の世界初の大学であるボローニャ大学を卒業し、その大学の記号論学者(教授)です。「暗号を解き明かしながら」というところに、作者の学術的興味が小説内に反映されていることを期待するものです。

 さて、どうでしょう。ワクワクしませんか?読んでみたくなりませんか?

 前の「歯科医療の歴史外伝」はもともと記事にするつもりはありませんでした。こちらが先です。「薔薇の名前」の解説をしたいと考えたら、3つの記事になってしまい、「あー、これ学問・大学の歴史じゃないか!」となって、「外伝」シリーズとしました。今回これらの記事を書くにあたって、数冊の本を購入しました。

 小説から学問の世界史を学ぶ良い機会を得ることができました。これは教養となり、「薔薇の名前」を読む前の予備知識となり、娯楽小説を読む上での大切なモチベーションとなります。こういった名作と呼ばれる小説を人に紹介しても「初めで挫折した」と、よく言われます。そこで、なぜ面白いのかを話します。話していくと相手が興味を持ってくれるようになります。中富先生にも熱く話したところ、ネットで検索したらしく「文庫本も出てるんですね」と教えてもらいました(読んでくれるかどうかはわかりませんが)。

 次回から、ようやく内容に入っていきます。探偵小説ですので、できるだけネタバレは避けていきます。


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