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中世ヨーロッパでの大学創設とアリストテレス哲学:歯科医療の歴史外伝③

 一般的に知られるルネサンスは14世紀からだが、1100年代から起きたアラビア圏からの文化・学問流入のことを12世紀ルネサンスとも呼ばれている。この時期に大聖堂付属学校から派生して大学が生まれる。アラビア語からラテン語に翻訳された書物により科学の予兆がはじまった。(小野堅太郎)

 12世紀にイタリアにボローニャ大学を皮切りにサレルノ、モデナ、レッジョ大学、そしてフランスにパリ大学。13世紀になるとイタリアには、さらにパドバ、ナポリ、フィレンツェ、ピサ大学など乱立し、ドイツにもプラハ大学、そしてイギリスにオックスフォードとケンブリッジ大学が創設されます。当時の大学は労働組合ギルドを形成し、ラテン語でユニベスシタスと呼ばれてユニバーシティ(大学)の語源となります(宇宙:ユニバースとは関係ないらしい)。一般教養(七自由学科:文法、修辞、論理、数学、音楽、幾何、天文)と神学、医学および法学を学ぶ場となります。アリストテレスの哲学は、トマス・アクィナス(パリ大学神学教授)により「神学大全」にてキリスト教神学と融合します。

 アリストテレスの自然科学に対する考え方は「目的論」で、「そこにあるものは適切な形に最終的になるのだ」という考え方です。以前の「味覚にまつわる生理学的意義の矛盾」の記事で議論したことが良い例ですが、「こうなっているのは、こういうことに役立っている」という教えは、人に納得を与えれます。しかし、突き詰めると「それは誰がそう決めたの?」となるわけです。これが歴史や経済、政治学のような人文系学問であれば、ある人物にたどり着き、興味深い考察・結論を生み出します。ところが、自然法則、すなわち理系学問では特定の人間に辿り着かないわけです。ゆえに、アリストテレス哲学は「神の存在」を示す論拠としてカソリック系で利用されます。

 ドミニコ会修道士でもあるトマス・アクィナスは、まあ一時的に異端を問われたこともあったのですが、その功績により大学でアリストテレス哲学が中心的に教えられる流れを作ります。これをスコラ学といいます。ところが、オックスフォード大学ではフランチェスコ会修道士であるロジャー・ベーコンが観察と実験に基づくことを主張しだし、自然法則をより合理的に考える風潮が高まってきます(運動物理学の曙)。ロジャー・ベーコンはパリ大学に渡りスコラ学を学んだわけですが、アリストテレスの考え方に疑問を感じるわけです。学んだがゆえに疑問を生じたのでしょう。これは結果的に14世紀のオックスフォード・マートン・カレッジでの非等速運動の数式化に繋がります。

 前回の記事で、11世紀ごろからキリスト教が東方(カソリック教会系)と西方(正教会系)に大きく二分される話を書きました。それ以外にも小さい分派としての「会派」も次々生まれており、6世紀には清貧を重んじたベネティクト会が生まれています(黒い修道服が特徴)。このベネティクト会に倣って清貧を重んじるも、私有財産を一切認めない托鉢修道会として「ドミニコ会」と「フランチェスコ会」が13世紀ほぼ同時期に生まれます。ドミニコ会は大都市に修道院をいくつも建て、所属するトマス・アクィナスのスコラ学の確立などもあり神学研究が盛んでした。それもあって、当時のキリスト教「異端審問」の審問官にドミニコ会から数多くが任命されています。一方、フランチェスコ会は小都市に修道院を建て学問だけでなく布教を熱心に行いました。修道服の染色も禁じるほどで、グレーの修道服が特徴です。また、ロジャー・ベーコンのように「科学的にモノを考える」人が出てきたという点が、ドミニコ会と異なる点です。

 清貧を重んじる会派として、もう一つ、ドルチーノ派があります。イタリアにて、裕福な聖職者を激しく非難し「異端認定」、そして追放。蜂起して、教皇軍に攻撃され、ドルチーノは妻マルゲリータと共に火刑に処されます(1307年)。

 ヨーロッパの国勢については、前回の記事では第一回十字軍(1096年)で終わっていました。この後、フランスの中央集権化と、神聖ローマ帝国(今のドイツあたり)の大空位時代、ハプスブルク家の台頭など目まぐるしいです。1309年、6年前のアナーニ事件から教皇側に相当な圧力をかけていたフランス王フィリップ4世が、なんと教皇を南フランスのアヴィニョンに強制移住させます(1377年まで教皇庁がここに仮設)。1314年、神聖ローマ帝国の皇帝としてルートヴィヒ4世が就きますが、アヴィニョンの教皇ヨハネス22世が茶々を入れてきて、またまたまたまた揉めるわけです!皇帝側としては、自分の味方になってくれるカソリック会派が必要です。

 そして、オックスフォード大学の教員、フランチェスコ会修道士「オッカムのウィリアム」が登場します。オッカム村出身のウィリアムさんです。トマス・アクィナスの後継者である大学の学長と喧嘩して(それで昇進できず)、とうとう1323年に教皇庁に訴えられてしまいます。1326年、教皇ヨハネス22世から異端として破門されてしまいます。そこで皇帝ルートヴィヒ4世は、「オッカムのウィリアム」を保護し、皇帝側はフランチェスコ会(の一部)と手を組むわけです。

 その翌年、「1327年」は、小説「薔薇の名前」の設定年代です。ボローニャ大学出身の記号学者ウンベルト・エーコの初の小説です。皇帝側と教皇側に中立的な、北イタリアにあるベネティクト会修道院での7日間の連続殺人をめぐる歴史探偵小説です。きっかけはフランチェスコ会の異端審問のため、アヴィニョン教皇庁から送られてくるドミニコ会修道士の審問官ベルナール・ギー(実在の人物)と対抗するために、皇帝側からフランチェスコ会修道士「バスカヴィルのウィリアム」が派遣されます。しかも、謎解きの舞台は、「図書館」です。

 この小説が、単なる探偵小説ではなく、学問とは何か、を問う大きなドラマを含んでいることを、懸命な読者ならもうお気づきのことであろう(白戸三平風)。というわけで、次回から、大きく脱線して「薔薇の名前」の解説を行いたいと思います。




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