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勉強することは、親しくなること

「勉強する」。

苦手な言葉である。同じく「研究する」という言葉も、なんだかストイックなものを想起させる。そこにはある種の「苦しみ」みたいなものが感じられるからだろうか。

僕は哲学を専門にしているけれど、「哲学を勉強する」とか、「哲学を研究する」と言うと、どうしても苦しいイメージが湧いてくる。

「いや、そうじゃないんだけどなあ……」という感じがずっとしていた。そしてあるとき思いついたのが、この言葉である。

「勉強することは、親しくなること」

たとえば「アリストテレスを研究すること」は、「アリストテレスと親しくなること」でもある。「勉強する」とか「研究する」とか言うと、何か順序やセオリーがあるように思われるが、「親しくなる」と思えば、実はそんなものはどうでもいい、ということに気づく。

あるとすれば、まずは興味を持つこと、関心を持つことだろう。別に偶然の出会いだってかまわない。そこから「へー、そんな考え方があるのか」とか、「何でそんな風に思うの?」とか、「あんたが生きてた時代はそうだったのか!」のように、広がり、深まっていく。

そうしてアリストテレスのことが好きになってくると、その師匠であるプラトンにも興味が出てきたり、さらにはその師のソクラテスへ……ということもあり得るだろう。

この「勉強することは、親しくなること」というのは、哲学だけではなく、あらゆることに通じる。農業を勉強することは、農業と親しくなることだし、数学を勉強することは、数学と親しくなることだろう。

逆もまたしかりで、友人と親しくなることは、結果的にその友人について勉強することだし、自分の家族と親しくなることは、自分の家族について勉強することにほかならない。

ときどき、「え、何であんなヤツと仲いいの?」と思われるような関係を目にすることがあるだろう。もちろん単に「相性の良し悪し」というものもある。一方で、人と親しくなるには、必ずしも、その人のすべてと付き合う必要はない。「会社ではイヤな上司だけど、プライベートでは気の合う趣味友達なんだよな」という関係もある。そういう場合は、会社では距離を置きながら、プライベートでは親しく付き合えばいいのである。

「勉強」も同じようなところがあって、まずはその対象の好きなところと付き合えばよい。マルクスを勉強しているからといって社会主義者になる必要はない。きっかけなんて、「どういう思想を持ったらああいうヒゲになるんだよ……」でかまわない。

あるいは、「哲学者は、世界をただ解釈しただけである。しかし大事なことは、それを変革することである」という彼の名言にふれて、「なんかカッコイイな!」と思い、その流れで、彼の言う「変革」について興味を持つ、というのもいいだろう。

「古典に親しむ」というのは、まさに読んで字のごとくである。それは人々が「勉強しよう」と思って伝わってきたのではない。「親しんできた」からこそ、現在まで読み継がれてきたのである。

このように何百年、何千年と親しまれるためには、そこにある種の「深さ」がなければならない。それが「浅い」ものであれば、すぐにわかった気になって、関心がなくなってしまうだろう。そうすると、もはや「親しい関係」は維持されなくなってしまう。

この現象は、実は「深さ」を持った古典でも起こり得る。それは読み手が「わかった」つもりになったときである。

人間でも、相手のことを「わかった」つもりになると、とたんに興味が失われたりすることがある。しかし、親しい関係が崩れるのは、得てしてそういう「わかった」つもりになったときである。

だから矛盾するようだが、「親しくなる」ときに大切なのは、「わかったつもりにならない」ことである。「わかった」と一瞬思っても、心のどこかで「……かもしれない」にとどめておく。これが、「親しくなる=勉強する」ための、ひとつのコツと言えるかもしれない。古典的な哲学などは、そのような「かもしれない」が、何千年も延々と繰り返されている営みだと言えるだろう。

どんなことでも、「勉強しよう」と思うより、「親しくなろう」と思うほうが、気楽に始められるような気がするし、能動的に取り組めるような気がする。

無理に「勉強した」ことはすぐに忘れてしまうけれども、興味を持って「親しくなった」ことについては、いつまでも忘れないものである。そしてそういうものだけが、実際の人生において「生きてくる」のだと思う。


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