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科学は「ワケガク」

「科学的な議論」とか「科学的な検証」とか言うと、さもそれが「正しいこと」のように聞こえがちである。しかし僕らはどうも、この「科学的」という言葉を間違って捉えてきたような気がする。

「科学的」と言うと、「論理的」とか「知性的」とかいうイメージがあるけれども、本質はそういうことではない。

そもそも科学の「科」というのは、「分ける」とか「区分する」とかいう意味だ。だから「科学」というのは、「分けて考える」ことにその本質がある。

ではなぜ「分けて考える」ことが必要とされてきたのか。

それは、世界の現象はあまりにも複雑なので、人間の能力では、全体をそのまま捉えることができないからだろう。だからそれらを部分に分け、ある「限定された状況」をつくって、その中で「のみ」考えましょう、ということだ。

世界をそのまま捉えようとすると、それこそ森羅万象のすべてを、要素として組み込まなければならない。そんなことは無理なので、ある限定された状況という「フィクション」を形成し、その中で「だけ」の結論を出しましょう、ということにほかならない。

だからものごとを主張するときに、「これは科学的な結論である!」とドヤ顔をするのは大間違いで、「これは科学的な結論でしかないけれど……」と、控え目に言うのが正解である。

「化学」が「バケガク」と呼ばれるなら、「科学」は「ワケガク」といったところか。科学とはわかりやすく言えば、「まあいろいろあるけど、それは置いといて学」なのである。

科学になんとなく冷たいイメージがあるのは、人間の感情みたいに複雑なものは「まあそれは置いといて……」という形で「分けられ」て、結局無視されるからだろう。

科学は確かに知性だが、それは「その部分以外は基本的に考えない」という「知性の限界」を前提にしている。にもかかわらず、そんな「部分的な結果」が、いかにも真理であるかのように思われてきたのは、やはりデカルト思想の影響だろう。

デカルトが言ったのは、「困難は解決できる大きさに分けて考えよ」、そして「部分の総和は全体に等しい」ということだ。

どんなに大きな問題に見えても、それを部分に分けてそれぞれ解決して、あとでぜんぶをくっつければ、問題全体が解決したのと同じですよ、というわけだ。デカルトが「近代科学の父」と言われるゆえんである。

ところが、バラバラにした人間の体をもう一回くっつけても、人間ができあがるわけではない。それを空想の中でやったのがフランケンシュタインの物語だが、それがフィクションであることは誰でも知っている。

とはいえ、このデカルト的=科学的発想が部分的に有効であることは確かで、それゆえに科学はここまで発展した。

しかし僕が考える科学の最大の問題は、問題を「空間的」に分けるだけでなく、「時間的」にも分けてしまう所だ。

要するに、「これ、百年後には大変なことになるよ……」というような問題を、「十年では何も起こりませんよ」と言って、その何も起こらない「十年」を十個つなげて、「百年後も安全」と言ってしまう所だ。

普通に考えれば無茶な理屈だが、それが「科学的」な考え方である。そうでなければ、「放射性廃棄物を十万年管理しよう」なんて発想は出てこないだろう。

五十万年とも言われる人類の歴史だが、「科学的な思想」を社会の中心に据えたとたん、数百年で「存亡の危機」を迎えているわけだ。

もちろん、僕は科学を全否定しているわけではない。正直なところ、僕は「最新の科学」のようなトピックが大好きだし、世界の不思議が科学の観点から明らかになることにワクワクする。

ただし、あくまで科学は「ワケガク」である。

「専門家」の「科学的な議論」は、専門家の科学的な議論「でしかない」。それは世界の「一面」を切り取ったにすぎない。

そういうものに、自分たちの生活を「全面的に」委ねてはいけなかった。

そのツケを払わずにすむ方法を考えるよりも、そのツケをどうやって払うかを考えるほうが、きっと面白いに違いない。そしてその方向において、科学はその真価を発揮するはずなのだ。

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