海外で生きることを決めた私の紹介
はじめまして😌
山口県で3兄弟の長女として産まれ育ったアラサーのまいです☺️
幼い頃から男勝りで負けず嫌いでしたがどこか繊細さを持っていて非常に生きづらさを感じていました😂
学生時代
小中高は地元の公立学校に通い、部活動や多数の趣味の習い事をこなし毎日何かと楽しく忙しく充実した日々を送る😌👍
一応勉強はするも、みんなで机の上で教科書を開いて先生の話を聞くスタイルが苦手でした。
将来的に海外へ行きたいと漠然とした思いがあり、中学の作文では海外を行ったり来たりする生活がしたいと書いた。
高校進学と共にどんどん自分が周りの子たちとズレていることに気づく🙄
授業という授業が好きではない。
むしろ、自分のペースで一人で勉強したほうが効率的。
学年が上がるにつれて選択式授業だったため同級生たちは大学進学や将来目指す職業に見合った取り組みをしていく中、ダラダラと過ごす私😂
いよいよ最終学年となり将来なりたい職業はカッコイイからという理由だけでキャビンアテンダントに決定☺️
その後専門学校に進学。
通信で短大卒の資格もゲット。
キャビンアテンダントになる夢の為、就活するも撃沈🥲💦
妥協して同じようなサービス業に就職するも自分の居場所はここではないと感じ1年で退職。
20歳の時、世界を見てみたいとニュージーランドへワーキングホリデーへ旅立ったのでした✌
ワーキングホリデー
ニュージーランドはオークランドへワーキングホリデーに行こうと決めた理由も至ってシンプル。
母の友達のお姉さんがいらっしゃったから😂
今思えば他人には変わりないのになんとなく安心感がありワーホリ先はニュージーランドに即決定。
要は英語圏であればどこでもよかった😂
至ってシンプルな私。
流れに乗って、いや?意思はあるがここまでずっと流されて来た人生だった。
実際にニュージーランドに入国してこちらの知り合いの方のお家に住まわせていただくことになり最終的に4週間という短い期間ではありましたが大変お世話になりました。
20歳という一応大人だが勇気と行動力だけはあるまだまだ子供が日本を離れて生活するには厳しかったのである。
インターネットはあってもまだスマホはなくガラケーの時代。
ニュージーランドで生活するにあたり事前リサーチなしの状態で希望と勇気だけを胸に抱いて日本を出た私はニュージーランド到着後からが大勝負。
まずはじめに職探しを始めましたがあまりの英語力のなさに撃沈。
ニュージーランドはイギリス英語で更に鉛があるのでリスニングすら難しい状況。
さっそく挫折。
あれ?描いていたワーホリ生活とは全く違う予感、、、(泣)
そう、人生は思い通りに行かないことを痛感した。
プランというプランを練っていたわけではないがプラン変更。
語学学校に通う。
ここでは各国からの年代も様々な素敵な人たちに出会いました。
日本人というだけで興味関心を持たれました。
オークランド中心地の語学学校に通うにあたり、通学にバスで片道1時間かかるため、お世話になった知り合いの家を退去。
ここからは本当に信じる者は自分だけでした。
インターネットでフラット先を探し、引っ越しが決定。
※フラットとは共同生活/住居シェアのこと。
家主はニュージーランド人のおじさん。
引っ越しを手伝ってくれました。
ニュージーランド人は本当に優しいです。
フラット先は3人の女の子で一軒家をシェアするスタイル。
個室がそれぞれありキッチン、風呂、トイレがシェア。
家主のおじさんは敷地内の離れに一人暮らし。
語学学校へはバスで片道15分と通いやすくなったものの、このときが1番ホームシックであった。
学校へ通うこと以外に何もなく、友達と戯れたりはして遊んでいたがこの先どうするか漠然とした不安がいつも胸にあった。
基本、寝たら忘れる楽観的な性格のため、ここまで不安を感じたことは危機だと当時は認識した。
そうだ、気分転換に趣味でもはじめようと学生時代にあれこれ手を出していた趣味が遂に生かされるときが来たのである😌👍
幼少期から歌とダンスを習っていて高校時代は軽音楽部のボーカルだった。
ニュージーランドでアジア系バンドの日本語ボーカリストとして採用されたのである😂👍
世界中に知られている日本のアニメのおかげで日本の歌を演奏しているバンドがあったのだ。
音楽は国境を越える。
英語がダメダメな私もコミュニケーションがとれる場を見つけたのだ☺️
この場で出会ったのが夫である。
そして夫と出会ったことで私の人生は大幅に変わっていくのであった😌
まるでドラマな夫との出会いから馴れ初めまではこちらからご覧いただけます。
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