マガジンのカバー画像

月と陽のあいだに

238
「あの山の向こうに、父さまの国がある」 二つの国のはざまに生まれた少女、白玲。 新しい居場所と生きる意味を求めて、今、険しい山道へ向かう。 遠い昔、大陸の東の小国で、懸命に生き…
運営しているクリエイター

#物語

月と陽のあいだに 74

月と陽のあいだに 74

浮雲の章出奔(6)

 関所改の役人は、白玲の顔を珍しそうに見た。けれども、ナダルが差し出した手形を確認すると、何も言わずに通してくれた。コヘルは役人と顔馴染みらしく、懐から薬袋を出すと「奥様に」とこっそり役人に手渡した。
 関を抜けたばかりの道は、山道と言ってもまだ道幅もあり、傾斜もそれほどキツくない。残っている雪も思ったより少ない。三人は傾き始めた太陽を追いかけるように、林間の道を急いだ。一刻

もっとみる
月と陽のあいだに 73

月と陽のあいだに 73

浮雲の章出奔(5)

 宿駅に着くと、コヘルが待っていた。
「カイルさん、待っていましたよ。お内儀もご無事でよかった。山道は連れがあると心強い。ぜひご一緒させてください」
そう言って、コヘルは楽しそうに笑った。
「お内儀には、自己紹介がまだでしたな。私は薬草師のサクリョウです。カイルさんとは貴州府で知り合って、時々一緒に行商する仲でね。月蛾国へ帰るとお聞きしたので、同行をお願いしたわけです」
 白

もっとみる
月と陽のあいだに 72

月と陽のあいだに 72

浮雲の章出奔(4)

 「姫様のお着物は、後で使わせていただきます。お財布は残して、大切なものだけを行李に移してお持ちください。当座のお金は、新しいお財布に入っております」
そう言うと、女房はナダルに声をかけた。
「可愛らしいお内儀ですね。どうぞご無事で月蛾国にお着きになりますように」
あとはよろしく頼みますと、ナダルがお辞儀をすると、女房は黙って頷いた。家の中から見送る女房に頭を下げると、二人は

もっとみる
月と陽のあいだに 71

月と陽のあいだに 71

浮雲の章出奔(3)

 「どうぞお顔をお上げください。旅慣れぬものですから、ご迷惑をおかけすることになるかもしれません。お許しください」
白玲も深く礼をした。「姫様のお支度は私が」と女房も礼をした。
「どうぞこちらへ」
 女房に促されて、奥の座敷に上がった白玲は、旅装一式が整えられているのに驚いた。暗紫回廊を越えるには、早くて七日、天候次第では十日かかることもあるという。着替えの肌着や草鞋、脚絆や

もっとみる
月と陽のあいだに 70

月と陽のあいだに 70

浮雲の章出奔(2)

 白村から歩いて一刻(二時間)ほどのところで、道は本街道と合流する。目指す宿場は、湖州の州都南湖鎮と貴州府を結ぶ幹線道路と、暗紫回廊へ向かう道とが交わるところで、行き交う人々でいつも賑わっている。
 白玲が着いた頃には日も高くなり、街道沿いや街の広場に面した店はすでに開いて、買い物客が集まっていた。白玲は、婆様が好きだった砂糖菓子をお供え物に買った。村では滅多に手に入らなかっ

もっとみる
月と陽のあいだに 69

月と陽のあいだに 69

浮雲の章出奔(1)

 翌朝早く起きた白玲は、庵を掃き清め、婆様の祭壇に新しい花を供えた。そして籐籠に財布とわずかな荷物を入れると、薄布のついた笠をかぶって社の森を出た。村人が野良へ出るには早い時間だったが、水汲み帰りの白鈴と行き合った。
「おはよう。早くからどこへ行くの?」
白鈴は水桶を地面に置いて、手をぬぐいながらたずねた。
「街道の宿場町へ買い物に行くの。貴州府に帰る前に、婆様のお供え物を買

もっとみる
月と陽のあいだに 68

月と陽のあいだに 68

浮雲の章コヘル(15)

 ありがとうと言おうとしたのに、喉が詰まって言葉にならない。白玲は白敏の首に抱きつくと、声を上げて泣いた。婆様の葬儀の間も、コヘルたちと話をしていた時も泣かなかったのに、白敏の言葉を聞いたら涙が止まらなくなった。婆様はもういないのだということが、胸に迫って苦しくなった。
 白玲の背中を撫でながら、白敏も泣いた。
「一人でよく頑張ったね。貴州府から帰ってきて、休みもせずに婆

もっとみる
月と陽のあいだに 67

月と陽のあいだに 67

浮雲の章コヘル(14)

 コヘルが去った後、白玲は茶道具を片づけもせずに、ぼんやりと庭を眺めていた。まだ緑も少ない庭先には、早春を彩る春告げ草の黄色の花が揺れていた。
「お客さんだったのかい」
声をかけられて我に返ると、白敏が笑顔で立っていた。
「婆様に助けられたという人が、お菓子を持って訪ねていらしたの」
婆様はずいぶん人助けをしていなさったから、と白敏が頷いた。
「床に着く前に、婆様は身の回

もっとみる
月と陽のあいだに 66

月と陽のあいだに 66

浮雲の章コヘル(13)

 コヘルの言葉通りに月蛾国へ行けば、白玲は否応なく内乱に巻き込まれる。それ以前に、輝陽国から突然現れた皇女を、人々はどう受け止めるだろうか。所詮は、宮廷内の権力闘争に利用されるだけではないか。それならば、このまま巫女として、輝陽国で人々の暮らしに寄り添って生きる方が自分らしいと、白玲は思った。
「我々も、飢餓に苦しむ民に、戦いで追い討ちをかけるようなことはしたくありません

もっとみる
月と陽のあいだに 65

月と陽のあいだに 65

浮雲の章コヘル(12)

 「内乱、ですか?」
意外な言葉に、白玲は思わず聞き返した。
「そうです。この二年、月蛾国は冷害に襲われ、数十年ぶりの被害が出ると予測されています。十九年前の冷害の後、皇帝領ではアイハル殿下のご遺志を継いだ者たちが農村に入り、冷害に負けないようにさまざまな工夫を重ねてきました。おかげで皇帝領とその周辺では、他の地域に比べて被害が少ない。だがナーリハイ辺境伯は、交易の利益で

もっとみる
月と陽のあいだに 64

月と陽のあいだに 64

浮雲の章コヘル(11)

 コヘルの言葉は、白玲の心の薄闇に響いた。
「それに月帝陛下と皇后陛下は、あなた様の唯一の血縁です。もちろん、白村の村長夫婦もあなた様の祖父母ですが、お父上を太守に売り、あなた様を捨てた者を、身内と思われてはいないでしょう」
それは、と白玲は口ごもった。父を売り、母と自分を捨てた村長に親愛の情はない。だがそれは、月帝であっても同じことだった。
「両陛下は、あなた様をお迎え

もっとみる
月と陽のあいだに 63

月と陽のあいだに 63

浮雲の章コヘル(10)

 今度は白玲がため息をついた。
「数年後、行方不明だった娘が、貴州府鎮安街の職人の養女になっていることがわかりました。噂を流した間者にも、心があったのでしょう。成長した娘は、月族の男と結婚しました。そして娘を授かりましたが、その子が三つにもならないうちに、病で亡くなりました。私は手を尽くして、孫娘を月蛾国に呼び寄せました。その子も今は、見習い宮廷女官になっています」
 茶

もっとみる
月と陽のあいだに 62

月と陽のあいだに 62

浮雲の章コヘル(9)

 冷めてしまった茶を淹れかえると、コヘルは礼を言って一息ついた。
「私は、月蛾国に到達した時のために、先帝陛下の親書を持参していました。しかし、それは田舎の小役人には理解できなかったのでしょう。密行者として捕らえられ、月蛾宮に送られました。当時はリーアン陛下もまだお若く、お側には先帝の側近で政治顧問だった大神官がおられました。
 密行の疑いはすぐに晴れたものの、大神官は私を

もっとみる
月と陽のあいだに 61

月と陽のあいだに 61

浮雲の章コヘル(8)

 コヘルは菓子を一つつまんで口に運び、白玲にも勧めた。
「お察しの通り、私は陽族です。元の名は楊静。蒼海学舎に学び、先帝陛下にお仕えしておりました」
コヘルは、遠い日を思い出すかのように目を細めた。
「蒼海学舎を卒業したあと、私は会計方の官吏として暁光山宮にお仕えしました。次に巡察使になり、輝陽国各地を回りました。そして国の実態がわかった頃、中央に呼ばれ宰相の秘書官になりま

もっとみる