慎吾ちゃんとアメリカ
慎吾ちゃんは、当時の若者(1962年生まれ)にしては、幼少時からかなりアメリカに近い人でした。
ロサンゼルスにご親戚がいたのです。スーパーマーケットを経営していらっしゃってチョコレートなどのお菓子を送ってきてくれるので、慎吾ちゃんは小さいころからアメリカの食べ物や文化に触れていたわけです。
そのお菓子を幼稚園で友だちに売って、お金儲けをしてお母さんに怒れられたんですけどね。お父さんは「見どころのあるヤツ」と褒めたそうですが。
そして、なんといっても小学校5年生のときの単独渡米。その前に、同い年のいとこが大阪から広島まで独りでやって来て、お父さんが「よう来たのう。えらい子じゃ」とその子を褒めていたのを見て、「ワシはもっと凄いことをやる」と思い、ロスの親戚のところに行くことを思いついたんだとか。
で、貯めたお年玉5000円が入った通帳を握りしめて、日本交通公社へ。既にローンの概念を持っていた慎吾ちゃんはそれで何とかなると思っていたのです。当然、窓口の人に「お父さんかお母さんと一緒に来てね」と諭されるのですが。
そんなこんなで独り渡米することに。さすがにご両親は心配したそうですが空港までは家族親族の送り迎えがあるし、機内ではスチュワーデスのお姉さんがやさしくしてくれるし、へっちゃら。でも、いざロスに着くと広島のお父さんお母さんや妹のことを思い出し、さびしさがどどーっと襲ってきちゃって。まだ10歳だもんね。ロスの親戚一家にはひとつ上のいとこの男の子がいて、滞在中はその子と遊んだりいろんなところに連れて行ってもらったりしたので、さびしさもすぐ吹っ飛ぶのでありました。
慎吾ちゃんは後年のブレイクダンス期に、「アメリカの子どもが音楽に乗って自然に踊り出すように、日本の子どもたちにもダンスを身近なものとしてほしい」と語っていましたが、この滞在時に子どもたちが路上で好きに踊っているところを見ていたのかもしれません。
ところで、その親戚の家によく遊びに来るいとこのガールフレンドが、同年代とは思えないほど胸が豊かでやたら色っぽい。彼らがハグしたりチュしたりするのを見て慎吾ちゃんカルチャーショック! 日本に帰った後、同級生の女の子たちがずいぶん幼く見えたそう。
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時は流れ、晴れて大学生になり上京したばかりのころ。都内の親戚のツテである人のお宅に居候させてもらうことになったのだけど、その人はアメリカ人女性。しかもフィアンセ付き。彼らは始終ハグだのチュだの。カップルとの同居にやりきれなくなった慎吾ちゃんは数か月でそこを飛び出し、その後なんだかんだで原宿で哀川翔さんと出会い、以来何かとつるむように。
さらに時は流れ、芸能界入り。元々ブリティッシュロックが好きで、アメリカの音楽にはあまり興味がなくヨーロッパ志向だったのだけど、ヒップホップ文化に出会ってからはニューヨーク通に。年に数回は渡米し、現地の劇場やナイトクラブに入り浸り。
と、このように、彼の人間形成にアメリカという存在がしっかり沁み込んでいたわけですが、なによりも慎吾ちゃんの土台になったのは、平和を願う心でした。
Be Men for Others, with Others
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1975年、ハービー・ハンコックが広島を訪れ被爆者のための曲を捧げた年、慎吾ちゃんは中学一年生。彼はその時どんな未来を見ていたのでしょうか。