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慎吾ちゃんは踊りたかっただけなのに

「踊りの話題になると、最近は(ラジオでDJが)風見慎吾を口にするらしいんです。それだけでも、自分にとってはすごい変化だなあと思って。 今までは、踊りで自分の名前が出るわけがなかったしね。」 
風見慎吾   BP New Year 1985

  4枚目のシングル『涙のtake a chance』1984 で、実は踊れる人だったと世間に知れ渡ることになった慎吾ちゃん。

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magazine h 1985

それまでは欽ちゃんファミリーとして、ひたすらおちゃらけていたイメージでした。 しかしながらルックスがとても良く、爽やかさと可愛さが兼ね備わった他にないタイプだったため、世の女子から大人気。

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爽やかさと可愛さ兼ね備え 84年新春

そんな彼はテレビ外の活動として、ステージをたくさんこなしていました。 といっても、どんどん新曲を出すようなタイプの歌手ではないから持ち歌も少ない。 なので、ダンスやトーク、寸劇で場をもたせていました。 MJを踊りまくってほとんど歌わないコンサートをしてみたり。84年夏の全国ツアーではブレイクダンスをフィーチャーして大成功。

この夏シンゴのコンサートをみた人はアッハーン、アレだ!なんて思うでしょう。とにかくシンゴちゃんはこのところブレイクしまくっちゃって、体がコッキンコッキンとウソみたいに、よく動いたりとまったり。 
magazine h 1984

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  歌わないコンサート 84年春       ブレイクダンスツアー 84年夏

「風見慎吾さんという存在。 すごい優しい、ただの可愛らしいアイドルだと思ってたんですけど …

その年の暮れにテレビでブレイクダンスを歌い踊ったとき、お茶の間の視聴者はびっくりしたけど、彼のステージを知っているファンにとっては「あら慎吾ちゃん、テレビでも踊ることにしたのね」と、ちょっと今さら感だったと思います。 それだけ彼の本来は「踊る人」でした。

… あとで発覚したんですけど一世風靡の人だったんですよね。 ブレイクダンスとかを歌謡曲のフィールドで取り扱うなんて、まさか風見慎吾さんがやるなんて思ってもみなかった。」   マキタスポーツ
「ザ・カセットテープ・ミュージック」 BS12 2020/4/12

彼は元「劇男零心会」、つまり舞台の人歌手デビューさせられるまでは、欽ちゃん番組に出演しながら、週末に舞台や路上でパフォーマンスをしていました。

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劇男零心会の稽古 shogakkan 1983

「踊るっていうのはホントに気持ちいい。最高に気持ちいい。」 風見慎吾 shueisha  1985 

彼は踊っていたのです。 踊りたかったのです。少年のころから。でも、プロになるつもりなんて全くなく、ただただ沸き上がってくるものを体現しようとしていただけ。だけど生まれ育った地では、踊る若者は少数派。

子供のころ地元の盆踊りに行っても、男の子で踊るのは自分ひとり。 原宿のロックンローラーに憧れてツイストを踊ろうと友人たちと広島の街に繰り出しても、人数不足で盛り上がらず。 アメリカの高校生のプロムに憧れて卒業式の後にダンスパーティーを企画しても、人が集まらず。

そして花の都、東京へ。 でもそれはエンジニアを目指して大学で学ぶため。

ー   親父、俺は将来ホンダに入る。 それがだめならヤマハに入る。 そして立派になって金を稼いで、いつか親父にポンポン船を買ってやるよ。 ー

彼は元々ロックンローラー、つまりストリートの人。 踊りたかったから原宿に独りで出向き、ホコ天のローラー(哀川翔)にいきなり声をかけて頼んで仲間に入れてもらった。週末だけの路上の青春。

慎吾は東京にきてはじめてトモダチをつくることができたのです。それはケンさんとショウさん。当時原宿のロックンローラーをしきってたリーダー格の人でした。 笑っちゃいますストーリー shogakkan 1983

なのに、なぜかそれが演劇集団として編成されることになり、「抵抗を感じながらも」芝居の世界へ。

「芝居をやるんだけど一緒にやろうぜ」 そういわれても、慎吾はぜんぜんやる気がなかったんですね。「興味ないし、そういう才能、オレないから」
笑っちゃいますストーリー shogakkan 1983

団員の野々村真の付き添いでバラエティ番組のオーディションに行ったらなぜか受かり、「バイト感覚で」テレビの世界へ。

「おはようございます!」の一言で合格! shogakkan 1983

欽ちゃん番組に出演しコントをやっていたらなぜか歌うことに。 そこから、「まちがって」アイドルの世界へ。

「歌手意識さらさらなし。」「僕はこういう世界に入る気持ちはまったくなかったんです、実は。どちらかというとなりたくなかった方ですね。」 
風見慎吾 shueisha, oricon 1983

でも、仲間がいたから。 青春を燃やす男たちがいたから。 未来がたくさんあったから、彼らと共に動こうとした。 83年夏の初のコンサートツアーでは、「劇男一世風靡」の旗揚げ公演を兼ねて皆で一緒に全国を回った。

「慎吾のおかげで自分たちの知名度も広がったので、なんとしても恩返ししたい。そのためにはいつ、どんなことでも手伝ってやる。」
劇男一世風靡リーダー(大戸天童、平賀雅臣) 
「ほかのメンバーにチャンスをつかんでもらうためにも、このツアーは絶対コケちゃいけない。」  風見慎吾  shueisha 1983

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劇男一世風靡とのコンサートツアー 1983年夏

芝居をしてコントをして歌を歌って、そしてアイドルになり笑顔を振りまいて。でも、元々やりたかったことは、踊ること。

「(ホコ天時代は)こわいものなかったもの。心の中で “俺たち道でやってるんだぜ、あんたたちできる!?” って、純粋だったね。」   
風見慎吾 magazine h  1986

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shueisha  1985

踊りたかっただけ。 ステージの上でなくても。 カメラの前でなくても。

「アメリカとかでは、子供たちがラジカセかけて、リズムとって、ああいうのが可愛いなあと思う。だから、日本でもそうならないかと思うんです。」 風見慎吾     BP New Year  1985

歌手にもアイドルにも芸能人にも、なる気は全くなかった。 歌も芝居もお笑いも、最初から目指していたものではなかった。 好きに踊りたかっただけ。 仕事として踊るつもりもなく、何かを作る人になりたかった。 人々が喜んでくれる何かを。 ただ、有名人になってしまったのなら、どんなかたちであれ多くの人に夢を与えることはできる。それなら、人生を賭ける意味がある

 I will take a chance on the dance !

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magazine h  1985

「ほんの何人かでもいいから子供たちが街角や学校でダンスして遊んでるみたいな、そんな光景を目撃できたら最高にハッピーなんだけどね!」
風見慎吾  shueisha  1985


最高にハッピーなんだけどね!



2022/07/01