慎吾ちゃんは踊りたかっただけなのに
4枚目のシングル『涙のtake a chance』1984 で、実は踊れる人だったと世間に知れ渡ることになった慎吾ちゃん。
それまでは欽ちゃんファミリーとして、ひたすらおちゃらけていたイメージでした。 しかしながらルックスがとても良く、爽やかさと可愛さが兼ね備わった他にないタイプだったため、世の女子から大人気。
爽やかさと可愛さ兼ね備え 84年新春
そんな彼はテレビ外の活動として、ステージをたくさんこなしていました。 といっても、どんどん新曲を出すようなタイプの歌手ではないから持ち歌も少ない。 なので、ダンスやトーク、寸劇で場をもたせていました。 MJを踊りまくってほとんど歌わないコンサートをしてみたり。84年夏の全国ツアーではブレイクダンスをフィーチャーして大成功。
歌わないコンサート 84年春 ブレイクダンスツアー 84年夏
その年の暮れにテレビでブレイクダンスを歌い踊ったとき、お茶の間の視聴者はびっくりしたけど、彼のステージを知っているファンにとっては「あら慎吾ちゃん、テレビでも踊ることにしたのね」と、ちょっと今さら感だったと思います。 それだけ彼の本来は「踊る人」でした。
彼は元「劇男零心会」、つまり舞台の人。 歌手デビューさせられるまでは、欽ちゃん番組に出演しながら、週末に舞台や路上でパフォーマンスをしていました。
劇男零心会の稽古 shogakkan 1983
彼は踊っていたのです。 踊りたかったのです。少年のころから。でも、プロになるつもりなんて全くなく、ただただ沸き上がってくるものを体現しようとしていただけ。だけど生まれ育った地では、踊る若者は少数派。
子供のころ地元の盆踊りに行っても、男の子で踊るのは自分ひとり。 原宿のロックンローラーに憧れてツイストを踊ろうと友人たちと広島の街に繰り出しても、人数不足で盛り上がらず。 アメリカの高校生のプロムに憧れて卒業式の後にダンスパーティーを企画しても、人が集まらず。
そして花の都、東京へ。 でもそれはエンジニアを目指して大学で学ぶため。
彼は元々ロックンローラー、つまりストリートの人。 踊りたかったから原宿に独りで出向き、ホコ天のローラー(哀川翔)にいきなり声をかけて頼んで仲間に入れてもらった。週末だけの路上の青春。
なのに、なぜかそれが演劇集団として編成されることになり、「抵抗を感じながらも」芝居の世界へ。
団員の野々村真の付き添いでバラエティ番組のオーディションに行ったらなぜか受かり、「バイト感覚で」テレビの世界へ。
欽ちゃん番組に出演しコントをやっていたらなぜか歌うことに。 そこから、「まちがって」アイドルの世界へ。
でも、仲間がいたから。 青春を燃やす男たちがいたから。 未来がたくさんあったから、彼らと共に動こうとした。 83年夏の初のコンサートツアーでは、「劇男一世風靡」の旗揚げ公演を兼ねて皆で一緒に全国を回った。
劇男一世風靡とのコンサートツアー 1983年夏
芝居をしてコントをして歌を歌って、そしてアイドルになり笑顔を振りまいて。でも、元々やりたかったことは、踊ること。
踊りたかっただけ。 ステージの上でなくても。 カメラの前でなくても。
歌手にもアイドルにも芸能人にも、なる気は全くなかった。 歌も芝居もお笑いも、最初から目指していたものではなかった。 好きに踊りたかっただけ。 仕事として踊るつもりもなく、何かを作る人になりたかった。 人々が喜んでくれる何かを。 ただ、有名人になってしまったのなら、どんなかたちであれ多くの人に夢を与えることはできる。それなら、人生を賭ける意味がある。
I will take a chance on the dance !
最高にハッピーなんだけどね!
2022/07/01