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芸術はそこにある あなたもそこにいる

 
ピカソのパリでのエピソードらしい。

ピカソは、存命中にその芸術が評価され、
活躍できたという意味では
「幸運なアーティスト」の一人。
 
ピカソがパリの、あるレストランを訪れたとき
そのレストランのオーナーが、
高名な芸術家であるピカソがうちに食事に来てくれた と
テーブルまで挨拶にやって来た。
 
談笑しながら、ダメもとで、
「うちのレストランのために、何か描いてくれませんか?」
と頼むと、ピカソは気軽にOKし、
ペンで、そこのナフキンか何かにサラサラッとデッサンを描いた。
 
オーナーが
「ありがとうございます。いかほどお礼をいたしましょう?」
と聞くと、
ピカソはオーナー氏が驚くような、高い金額を告げたらしい。
 
「そんな!たった5分で描いたものなのに」
思わずそう口にしたオーナーの言葉に
ピカソは激怒して
 
「5分だって? 冗談じゃない、
この線を描けるようになるまで何十年もかかったんだ!」
と、そのデッサンを破り捨てた、という逸話。
 
よく芸術作品に関して、
作者が有名かどうかとか、
いくらで手に入れることが出来るのかとか、
その作品の大きさやら、完成までどれくらい時間がかかったかなど、
作品そのものを観るよりも、
そういった情報を知りたがる人たちがいる。
 
芸術の価値を値段の高低で理解しようとするのは、
おそらく一理あるとは思う。
その日、その場所での「市場価値」という意味では、
その金額が正に「作品の価値」だから。
 
けれどその観点だけで芸術を観る習慣をつけてしまうと
観るときに自分の感受性は何も使ってないから、
美術・芸術の美しさを感じたり、
それが創造されたことの奇跡(稀有性というか)と
その創造物を目にしている感動、
受けた霊感の内容を具現化してみせた芸術家への純粋な賞賛の心・・・
 
そういった、あらゆるものの複合した感情や感覚が、
その人のなかに育っていくことはないと思う。
 
私は、芸術家とその作品、鑑賞者を結びつけるのは、
レゾナンスなんじゃないかと思う。
 
< Resonance >
 
共鳴、あるいは共振。 
同調して震える、その現象。
 
比喩的になるけど
ある芸術家が、
その作品を着想し、産み出したときに感じていたものと共鳴する感性が
鑑賞者の内側にも、たまたま存在していたら、
 
その感性同士が共鳴しあって心を揺さぶり、
意識するともなく
その作品を感じ取り、
感動の気持ちが自然と、湧き上がってくるんじゃないかな。
 
人が、
日々の生活の出来事や体験、
聞いた言葉
読んだ本
耳にした音楽
目に映った自然の美しさなど
さまざまなものに触れて、
感じて
考えたりしたことは、
 
そのひとつひとつが 一滴一滴、
その人の感受性の性質を構成する成分になって
心という容器を満たしていく。
 
良い経験だけじゃなく、
悲しかったり 辛かったりした経験も、
全く同じ価値を持つ 一滴一滴。
 
それが心の中に満たされてる人は、
共鳴する芸術に触れて心を揺さぶられると、
感動が溢れ出す。
 
そういった情動の体験や
人生経験が少なくて、
あまり感受性が豊かでない人だとしても、
同じ成分の一滴が心に混ざっていれば、
その芸術には共鳴し合う。
感動が溢れ出すほどにはならなくても、
きっと何かを感じる。
 
フィレンツェで、私が美術学校に通っていたせいか、
フィレンツェには美術館がたくさんあるせいか、
同じ日本人の留学生たちでも
日本で話すことのあった人たちでも
冷ややかに 
「私は芸術がわからない」 と自分で言う人に
今までたくさん会ってきたけど、
芸術って、そんなにわかる必要があるんだろうかと、よく思っていた。
 
好き嫌いや、興味のあるなしなら単純に言えるだろうし、
聞く方も「そうなんだね」で済むけど
わざわざ「わからない」とシニカルに言う意味って、何なんだろうなと。
 
それって単に 受信力が弱い状態にあるだけなのでは?
と感じたりもする。
 
人は誰でも感受性は持っているけど、
自分のなかの感受性が せっかく感じているものを
自分で無視してしまったり、
大切にしてあげていないと、
繊細なそのセンサーは壊れやすいし、
下手をするといつのまにか
ミイラのようにカピカピに干からびてたり、
瀕死の状態になってたりする。
 
自分の手で何かを「こしらえる」
ということを知っている人たちは、
芸術を理解しやすいと思う。
 
料理や縫い物、
プラモデルなどの造形作品作り、
子供のお絵かきや、積み木だって、
自分の手で最初から産み出し、
作り上げるものなら何でも。
 
作りたいものが簡単に、思い通りに作れないはがゆさ、
難しさ、
努力や創意工夫、
完成させることの意義。
 
芸術の価値は本来、そこがベースになって評価されてるはずで、
日常生活のなかで、皆何かしらは自分の手で作ってる。 
 
人って、みんなが潜在的に芸術家だと思う。
 
そこに更に、着想力や創造力creativity想像力imaginationや技術を持っている人たちが、
有名な芸術家として、歴史に名を残してきた。
 
得た体験を自分なりに「消化」する心の作業をすると、
感性を研ぎ澄ます効果につながるかもしれない。
 
その人にとって感動的である芸術を
最初に感知し、
共鳴を起こす「感受性」から、
それを理解し、評価までできる「感性」へと
自分の感覚を移して変容させるための、心の作業。 
 
きれいだと感じる、
悲しいと感じる、
自分のなかに生まれたその感情を
自分で邪魔をせず、中断せずに
味わい尽くすこと。
 
十分に時間をかけて感じた後は
自分のこの感情は
どうして、どこから来たのだろう・・・
と考察すること。

心の動き、
思い出されてくるものや風景、
広がっていく連想、
時に、その作品の生まれた背景や作者のことも、調べたりしながら。
 
こういった作業は自分自身について、
新たな発見をさせてくれる時もあって、面白い。

芸術は自分と関係のない、ただ鑑賞する対象物ではなく、
自分すら存在を知らなかった、
自分の内側にあった「開かずの扉」をひらく鍵に
なったりすることもある。
 
その作品の値段や良さがわからないことが、
芸術がわからないことじゃないと、私は思う。
 
観るところはそこじゃない。
その作品の絶対的な価値なんて、最初からどこにもない。
時代によって、
場所によって、
業界か批評家の思惑によって、
評価も価値も変化するから。
 
誰の言うことも参考程度に聞いて
それよりも
直接自分の目でその作品と向き合い、
あなたの感性、あなたの好みで観たり、感じたりすれば良い。

あなたが感動する芸術は、あなたを確実に幸せにする。

もっと芸術と共に時間を過ごしてみて。
絵画などの他にも音楽、文学、舞台芸術、工芸品、
料理や、時には工業製品だって、人によっては芸術たり得る。

視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、そして精神や魂で感じとる、
人間が備えている感覚のすべてで
芸術を感じ、味わうことが出来る。

芸術は美術館にだけあるものなんかじゃない。
すぐそこにも、思いがけないところにもたくさんあるし、
あなたは芸術にあふれた世界に暮らしてる。
 
私はこれが好き、
これには何も感じない・・・

そんな風に
もっと私的な部分で、芸術って、語っていいんだと思う。
 
 

人の数だけ感じ方も多様にあるよね


書いたものに対するみなさまからの評価として、謹んで拝受致します。 わりと真面目に日々の食事とワイン代・・・ 美味しいワイン、どうもありがとうございます♡