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愛のぶんだけ泣く声が


「なんで私じゃだめなの?」


最後の言葉が聞こえてから、かれこれ30分ほど経った。

彼女は泣いている。大きな瞳から矢継ぎ早に涙を流して、僕のティーシャツを濡らしている。今僕ができることは、細々と震えている体を包むことだけだ。彼女は時折しゃくりあげながらも、泣くことをやめない。

「そんなに泣いたら頭痛くなるよ」とか「目腫れるよ」とか、何かしら涙を止めるための声をかけようか迷ったけれど、きっと火に油を注ぐだけなのでやめておいた。以前「優しくないのに優しくしないで」と怒鳴られたこともある。

こうなった彼女には、僕のどんな言葉も嘘になってしまうみたいだ。




嗚咽が微かになった頃、バラエティ番組のオープニングが騒がしく聞こえてきて、テレビが付いたままになっていることに気づいた。司会者の明るい声が静まりかえった部屋に虚しく響き、ふたりの空気をさらに重くする。

転がっているリモコンに手を伸ばし、この場に不釣り合いなテレビの電源を消した。すると彼女は深呼吸を2回してから、僕の肩に当てていたおでこを離し、腫れた瞼をゆっくりと開く。


「私、誰よりも好きだって、幸せにできるって、自信、あるよ」


鼻水混じりの声を誤魔化しながら、落ち着き払った素振りで、彼女は言った。

僕は、次にどんな言葉が彼女の唇を揺らすのか分かっていた。だから、ピンクに膨れた頬を両手で包んでゆっくりと顔を近づけ、その声をふさいだ。できれば聞きたくなかったから。それに、僕が聞きたくないことも、彼女は分かっているはずだから。

舌を絡ませることもなく唇を離すと、彼女の瞳には失意が見えた。だらんと垂れた白い腕を引っ張り、ベッドに横にならせて毛布を掛ける。そうして僕は、彼女がいつもの彼女に戻るまでじっと待った。

彼女はまた、泣いている。



***



「恋人になりたい」



いつしか、彼女は僕との関係に名前を付けたがるようになった。ちょうど2年前に出会った頃は、お互い「恋人はいらない」という心持ちで夜を共にするようになったのに、半年を過ぎたくらいから、「恋人になりたい」と涙を見せるようになった。

どれほどの涙が、僕のために流れたんだろう。1リットルの涙なんて比じゃない気がする。これは自惚れではなく。

正直、彼女の涙は見飽きてしまっていた。

彼女が泣くたびに、僕の罪悪感も彼女の魅力も、こぼれ落ちていく。

いつも笑っているのが好きだった。どんなつまらない話でも楽しそうに耳を傾けてくれて、自分で突っ込んだくせに自分で笑ってしまうところが可愛い。右の頬にできるえくぼを見るたびに、僕の心が潤っていくような気がしていた。

でも今となれば、彼女の笑顔は写真フォルダの中でしか見られない。涙を流したり、何か言いたげに下唇を噛んだりと、笑顔からはほど遠い表情ばかりだ。

僕のために不幸になるのを見れば見るほど、不思議なことに、彼女のことを大切に思えなくなっていった。「笑顔にしたい」とか「元気づけたい」よりも、「僕から早く離れていけばいいのに」と半ば呆れた気持ちになるのだ。

だいたい、どうして『恋人』という肩書きにこだわる必要があるのか。口約束を頼りに、縛り合って、疑い合って、傷つけ合って。それなら、関係を曖昧にしておくほうがよっぽど健康的じゃないか。彼女は僕のことが好きで、僕も彼女のことが好きだ。実際に「好き」だと伝えたことはないけれど、でも週に何度か会う関係が2年間も続いているんだから、嫌っている訳がない。




目を瞑ってそんなことを考えていると、横から「寝たの?」と聞かれた。

嫌われることを恐れてか、彼女は僕の機嫌を損ねることはしない。もしこのまま寝たふりを決めこめば、無理に起こしてくることはないし、これ見よがしに大声で泣きわめくこともない。わざと寝息をたてていると、彼女の指が僕の頬を撫でた。


「・・・・・・・るよ」


今にも消えてしまいそうな、弱くてか細い声だった。

ギシッとベッドが軋む音がした後で、体が一気に重くなり、瞼にやさしい熱を感じた。ようやく泣き止んだみたいだ。僕の上に跨っている彼女に向かって、寝ぼけた声で「したいの?」と聞いてから、ふたりの体を結んだ。

シャワー浴びてくる、と一言残して彼女が部屋を出てから、「なんで私じゃだめなの」という言葉を反芻していた。

彼女じゃだめな理由は見当たらないけれど、彼女じゃなきゃだめな理由も見当たらなかった。




誰かひとりをまっすぐに愛せるほど、僕は強くない。

いつからか、一途に想うことができなくなっていた。かつて誰かを愛せたときの僕のままでいれたなら、彼女の涙を見ずに済んだのだろうか。

体はたしかに温もりを求めていて、だからこそ異性の体温を求めてしまうのだけれど、居場所が欲しいとはどうしても思えなかった。覚悟も信念もない弱い人間だ、と批判されても言い返す言葉が出てこない。

ここ数年間、ずっとこの調子だ。向けられた好意に応えられず、離れていくのをじっと待つ。関係に終止符を打つたび心臓は冷え込むから、温めなおしてくれる熱をまた求めてしまう。そんな浅はかな関係を繰り返していた。

だから、目に見える繋がりを欲しがる彼女に対して僕ができるのは、彼女が僕を見放してくれる時を待つことだけだった。




でも彼女は、案外しぶとい。

僕がどんなにひどく扱ったとしても、さんざん泣いて苦しむくせに、僕の傍から離れていくことはなかった。むしろ傷つけば傷つくほどに、僕への愛を深める。何度か「もう会わない」と言われたこともあるが、そんな決心で距離をあけるたび、執着を強めて戻ってきた。

そんな彼女はきっと、僕以上に弱い人間なんだろう。「自分より大切な人がいる自分」が愛しくてたまらないんだ、そうでしか自分の存在価値を見出せないんだ。それが偶然、僕だっただけで。

そうなら尚更、僕の隣に居るべきではない。彼女の愛は、彼女を愛してくれる人のために在るべきだ。そのことに彼女自身も、薄々気づいてるんじゃないだろうか。

耳元で聞こえた「愛してるよ」という言葉は、「もう解放して」と叫んでいるようにも聞こえた。



***



6時のアラームで目を開けると、左側のシーツは空っぽだった。付けっ放しになっていたエアコンのせいもあってか、初めから誰もいなかったかのように薄ら寒い。

妙に納得した気持ちで携帯に手を伸ばしたけれど、特にそれらしい緑の通知はなかった。

毎朝のごとく眠気覚ましにSNSを開いたはいいが、目に飛び込む情報とは裏腹に、頭は彼女の記憶を手繰り寄せずにいられない。

寝起きの悪い彼女は、どんなに揺さぶったところで「あと5分」とねだるくせに、おでこにキスをするとぱっと目を開けた。真っ青な空みたいに笑うもんだから、その日が曇りだろうと雨だろうと、清々しい気持ちで1日のはじまりを迎えられた。

恋人ではないにせよ、「おはよう」と言いあえる朝に安住していた僕がいることに、今更気付かされる。

彼女が言っていたように、あれほど一途に僕だけを見てくれる人なんてもう現れないかもしれない。彼女とならあたたかい未来が描けたかもしれない。そんな風に後悔しなくもないけれど、それでも全速力で彼女のところまで走って、おもいきり抱きしめたいとは、やっぱり思えなかった。




寝室の扉がそろりと開いて、視線が固まる。

「あ、起きてたんだ。朝ご飯、できたよ」

まるで昨日の涙がなかったかのように、いつも通りの彼女が笑っていた。キッチンからはトーストの香ばしい匂いが漂ってくる。

「おいで」

そう手招きをすると、彼女は困ったような顔をしてから、ベッドの横に腰掛けた。僕はその華奢な身体を布団のなかに引き寄せて、ぎゅうっと抱きしめた。彼女は「苦しいよ」と笑いながら顔を上げる。綺麗に化粧を済ませた表情の奥で、瞼がいつもより腫れていた。

「何時に起きたの?」

「5時過ぎかな、なんか目、覚めちゃって」

「全然気づかなかった」

「すやすや眠ってたよ。仕事、疲れ溜まってるんだね」

彼女は僕の腕から離れて、ベッドの上に体育座りをした。

「本当は始発で帰ろうかなって思って、早めに起きたんだけど、」

まだ行かないで、と言う代わりに僕は彼女の手を握った。

「あんまり気持ちよさそうに寝てるもんだから、このままだと寝坊するんじゃないかなと思って。気づいたら朝ご飯の支度してた」

ふふっと笑う彼女が愛らしくて、「ありがとう」と呟きながら、もう一度抱き寄せた。けれど、力が返ってくることはなかった。




それからコーヒーを淹れて、いつもよりゆっくりと朝食を取った。そのせいもあって、慌てて身支度をすることになったが、結局、いつも通りの時間に玄関を出た。

駅まで8分の道のりを彼女の歩幅に揃えて歩く。

これまで何度も一緒に歩いた道だけれど、横を歩く彼女に気を馳せたのは久しぶりのことだった。7月の朝日に照らされた横顔は、言葉に詰まるほど綺麗だ。

新しい道が拓けていくような予感がする。


やっと生まれた感情を声にしようかと思ったけれど、腕時計を確認すると始業時間が近づいていることに気づいて、言葉を飲み込んだ。まあ、そんなに焦ることでもないだろう。

「じゃあ、またね」

軽く手を振ってそう言うと、彼女は太陽みたいに笑った。僕の好きな笑顔だった。

「じゃあね」

潔くひるがえって彼女は駅へと向かっていった。その背中はまっさらな朝日に照らされて輝いている。



そうして彼女は、光の中に溶けてしまったかのように、僕の生活からも消えた。




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