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エッセイ「恐竜のリベンジはなるか?」

 恐竜の絶滅については、いくつかの説がある。一般に広く言われているのが、宇宙からの隕石が地球に衝突し、気候変動が起こったためというものであり、時々テレビ等でも紹介されている。しかし、その説もあくまでも仮説のうちのひとつであり、ある時、我が輩は違う説に出会った。それは、恐竜の絶滅後に全盛を誇ることになる哺乳類、その初期における小さな動物たちが恐竜の卵を食べ尽くすことにより、恐竜が滅んだというものだ。小さい恐竜の食べる餌を横取りした可能性もあるだろう。いったい、どの説が真実なのかはタイムマシンにでも乗って直接見に行かなければ決着しそうにない。はるか昔の話であり、そこが永遠のロマンでもある。

 しかし、この話を読んだ時に、現代においても我々の周囲で同じような状況にあるものが多く見受けられると思った。例えばデパートやスーパーマーケットという一時期全盛を誇った大きなお店を尻目に、その周囲でものすごい繁殖力で数を増やしていく「コンビニ」がそうである。この生き物は移動こそ出来ないが、夜中でも明々と光り輝く体で多くの獲物を引き寄せ獲物である人間を捕獲する。商品の新陳代謝も活発で、一度つかまると病みつきになり繰り返し利用することにもなる。またコンビニは疲れることを知らず、二十四時間休むことなく活動するその生態は、古来から生きている大きなの生き物を死へと追いやっている。

 

 また携帯電話の世界では「スマホ」と言う生き物が、その母親とも言える「公衆電話」「PHS」そして「ガラケー」を無用の長物と化した。
 はるか昔、赤いボディを持ち、〇から九までの目玉を持って十円玉の餌を常食とし、こつこつと生きていた公衆電話は、徐々に進化をとげテレホンカードとプッシュホンへの進化を見せた。一時期はテレカは人々のブームを巻き起こし、皆がコレクションとして熱中していた。
 また、ケータイの出現する前、通り過ぎるように異常発生した「ポケベル」で遊ぶために女子高生はみな公衆電話のプッシュホンの速押しに夢中になったものだ。そんな栄華を誇った公衆電話もポケベルも、ある時突然、「PHS」そして「ガラケー」というケーブルにより繋がれた状態から解放された新種に圧倒されてしまう。
 いちいち自分で電話番号を調べずともたくさんの番号を記憶してくれたり、カメラという目を持つことにより文字と一緒に画像を送ることが出来たり、音楽を奏でたりと、もはや「電話」という言葉すら似つかわしくないレベルまでに進化したケータイに、公衆電話はもはや人々の視線すら浴びないものとなる。
 そして今ではガラケーさえも、アプリという触手を無数に備えるスマホにその地位を乗っ取られてしまう。まさに、明智光秀の三日天下だったように思える。

 コンビニ、ケータイはある意味で高みの見物をしていれば良かったが、他人事では済ませられないものもある。「マイカー」というこれも多種多様に進化した四本足の動物に、我が輩らが生計を委ねる鉄道は住める世界を奪われ続けている。戦後、トラックから始まった自動車の増殖は、経済復興と共に夢のマイカーへと変化し、その種類についても足の速い「スポーツ」、開放的な性格の「オープン」、道路より未開の地を好む「ヨンク」などに多様化した。最近ではかわいい「スモール」やら七人乗りも可能な「バン」などが威勢が良いようだ。また、「ベンツ」「ビーエム」などに代表される海外種もかなり増えて来た。

 爬虫類から哺乳類への世代が行われた古代に例えると、現代で起きようとしている変化については「便利類」というものへのシフトが進んでいるようだ。また便利と言う点で見れば、最近では、インターネットという新たなお化けが生まれ人々の間に猛烈な勢いで溶け込んでしまった。便利類に支配された人間が、今後の世界においてどのように生きていくことになるかについては誰も分かっていない。

   繁殖を増長する便利類に対抗して生き延びるためには、恐竜たちも生き方を変えねばならない。まず、大きくなり過ぎた体を少しスリムにすることだ。そうしなくては便利さになれてしまった我々人間や、めまぐるしく変わる環境の変化についていけない。

 しかし、スリム化するにも限度と言うものがある。物を食べずにダイエットばかりしていては、いつか身体を壊してしまう。恐竜たちに次に求められるものは、生き方を変えてみることだと思う。つまり、お互いに争うのをやめて協力しあうことである。

 穏やかな草食動物は群れを成すことで天敵に襲われた時に身を守る。まさに「数は力」だ。植物は、自分の子孫を増やし活動範囲を広げるために、小さな動物と協力関係を結ぶ。昆虫は美しく咲く花にとまり、その蜜を吸う時に受粉を助ける。美味しい果物を食べた鳥たちは、遠くに飛んだ地で糞と共にその種を落とし、そこで新たな芽を息吹く。種が要らないからと種無しのスイカやブドウを創り出したり、せっかく食べた種を水洗トイレに流してしまうのは、おろかな人間だけである。

 鉄道についても、他の乗り物と競争する時代からお互いに共生する方向へと向かう必要があるだろう。広いネットワークを「100円稼ぐのに〇〇円かかる」などと切り売りしているが、お互いの鉄道が提携をし、ネットワーク全体で考えれば魅力的な鉄道が出来るはずだ。
 また、各交通機関はそれぞれ自分達の特性をお互いが自覚することも必要だ。つまり飛行機なら長距離を速く、鉄道は中長距離で大量輸送、バスやマイカーで近距離を便利に、ということをもう一度自らの役割を認識し、交通全体のバランスをとることを考えていかねばならない。もはや鉄道しか無かった昔とは違う。マイカーが人の数ほど繁殖した環境の中で生きて行くためには、これまでの生き方は出来ないのである。

 生物の歴史から見ても、一種類の生物が異常発生した状態は長くは続かない。先進国で異常発生したマイカーが、今後地球全体に拡大した後に訪れるのは、自らの破滅だけなのかもしれない。


 確かに便利類にどっぷり浸った生活はとても楽しい。歩けば十分ほどで行けるコンビニに寒いからとマイカーで音楽を聴きながら出掛け、そろそろ中年と呼ばれる年齢に近づき運動が必要なこの時期に足をわざわざ退化させる。コンビニでは、たくさんの梱包容器に包まれた新製品のお弁当と、「家の水はおいしくないから」とペットボトルのお茶を買って帰り、地球の裏側で行われている大リーグの生中継を大きなテレビで見ながら、買ってきた弁当をレンジでチンして五分もかけずに食べ終え、袋ごとゴミ箱にポイッと捨てる。ゴミの日である日曜と水曜日にはゴミ袋は満杯だ。もちろんペットボトルは分別しているが。

 楽しいことは楽しいが、地球に住む人間がみんなこのような生活を行ったらと仮定すれば、どのように考えても「人間は生き方を変えるべき」だと考えさせられる。 

 映画「ジュラシックパーク」の中で恐竜は現代に甦った。恐竜のDNAを化石から探し出し、バイオテクノロジーにより復元させるという設定であったが、現実に実現可能な日もくるかもしれない。ただし、一度失ったものを元に戻すというのはとても困難な作業であることは間違いない。それはデパートや公衆電話、そして鉄道の線路のように目に見えるものを失うことだけにとどまらず、膨らんだゴミ袋を見て「もったいない」と思ったり、ケータイで周囲に気を配ったりする心など、それ以上の目に見えない大切な「何か」まで無くしてしまう危険性さえ有り得るからである。

頑張れ、恐竜!


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