杉山浩司

智和輪(京都シルバーガイド)

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  • 人規十七則

    人規十七則 徳を尊ぶ・道を得る・己を修める・心を正す・意を誠にする・知を致す・物を格める・家を斉える・善を行う・仁を成す・天に仕える・私を除く・義を楽しむ・恥を知る・命を立つる・礼を尽くす・人を治める

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智和輪(京都シルバーガイド)

智和輪(京都シルバーガイド) 2025年6月30日開所予定 2026年1月1日開業予定 シニアフリーランサー(フリーランス高齢者) トラベルアーティスト(リベラルアーツ旅行) テキストクリエイター(ガイドテキスト創作) 宜しくお願い致します。

    • 智和輪 テキスト

      大国主命は国土の開拓者であり、国の発展に尽力していた。しかし、天照大御神が天上界から使者を送り、地上の統治を天孫(天照大御神の子孫)に譲るように求めた。これに対し、大国主命は最初は抵抗し、息子である事代主神と、建御名方神は、高天原から交渉に来た最強武神の建御雷神に力比べを挑んだが、最終的には国譲りを受け入れ、平和的に国を譲る決断をした。大国主命は、自らの治める国を譲ることで、新たな時代の幕開けをもたらし、天皇家の正統性を神話的に裏付ける重要な役割を果たした。

      • 智和輪 テキスト

        源頼光は、寛仁2年1018年、一条天皇より大江山の夷賊追討の勅命を賜ると、頼光四天王(渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武)らを引き連れて、夷賊討伐を行った。大江山は「土蜘蛛」と呼ばれる中央政府に従わない野蛮人・盗賊がいて「鬼の一族」と呼ばれていた。首領の酒呑童子は、多くの鬼を従えていた。頼光らは、出家には手を出さないといわれる酒呑童子を欺くため、山伏の姿に変装し成敗した。酒呑童子の首をはねた刀「童子切安綱」は、天下五剣に数えられる名刀で、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠も所持し

        • 智和輪 テキスト

          与謝野鉄幹は『明星』を創刊して、鳳晶子(後の与謝野晶子)や山川登美子などの女流歌人をプロデュースした。内縁の妻の滝野は、登美子や晶子のまるで鉄幹への恋文のような歌に心を乱し、息子と故郷に帰った。登美子は鉄幹と一夜の契りを持ったが、家の勧める結婚をした。しかし1年半で夫が病死すると、また鉄幹と関係を持つようになった。一方、鉄幹と登美子の関係を察しながら、自分の想いを抑えきれない晶子は、滝野と入れ替わるように、鉄幹と暮らし始めた。生活に追われながら、歌の才能を開花、『みだれ髪』を

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        • 人規十七則
          17本

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          フィリップ・ハーパーは、外国人唯一の「杜氏」である。2007年、京丹後市の木下酒造に杜氏として就任した。ハーパーが蔵人として酒造りの修行に入った1990年代初頭は、伝統的な杜氏制度が残る最後の時代だった。それが何よりも貴重な財産になっている。2001年に「杜氏資格選考試験」に合格したハーパーにとって、木下酒造は杜氏として携わる2つめの蔵である。ハーパーが木下酒造でまず手掛けたのは、彼が「自然仕込み」と呼ぶ、昔ながらの日本酒造りだった。木下酒造での初年度にハーパーが手掛けた日本

          智和輪 テキスト

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          聖徳太子の生母、穴穂部間人皇后は蘇我氏と物部氏の争乱を避け、京丹後の間人(たいざ)に身を寄せた。間人という地名はその字からも皇后との深い関りがうかがえるが、諸説あり確かなことはわかっていない。大和の国へ帰られるにあたり皇后から御名を賜ったが、畏れ多いと考えた村人は御退座にちなみ間人「たいざ」と読むことにしたという伝説をもとにした母子像が日本海を眺めるように後ヶ浜(のちがはま)にたたずんでいる。

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          中国世界をくまなく支配し、絶対的な権力を手中におさめた始皇帝の唯一の泣き所は、死への恐怖だった。なんとかして死を免れ、不滅の生を得たい。始皇帝は方士徐福を団長とする船団を派遣し、不老不死の仙人が住むという「東海の三神山」(蓬萊・方丈・瀛州)を探索させるなど、むなしいあがきを繰り返した。しかし、不滅願望とはうらはらに、終わりは意外にはやくやって来た。紀元前210年、天下巡遊の途中、沙丘まで来たとき、重病にかかり、あえなくこの世を去った。ときに50歳。皇帝となって11年目のことで

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          智泉大徳は、讃岐出身の平安時代の僧で、空海の甥にあたる。常に空海の側近として苦楽を共にし、真言宣布の事業を助け、空海十大弟子のひとりとなった。天長2年(825年)、智泉大徳が37歳で高野山東南院にて入寂した時、空海は次の文を残している。哀しい哉、哀しい哉 哀れが中の哀れなり 哀しい哉、哀しい哉 悲しみが中の悲しみなり 哀しい哉、哀しい哉、復哀しい哉 悲しい哉 悲しい哉 重ねて悲しい哉 悟りを開けば この世の悲しみ 驚きは すべて迷いの生み出す幻にすぎないことは わかっています

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          武野紹鴎は、村田珠光からの流れを受け継ぎ、侘び茶にさらなる精神性を取り入れた。当時最高の文化人であった三条西実隆に連歌・和歌を学んだことが、紹鴎に大きな影響を与えた。連歌における「冷え枯れる」という概念を、茶の湯に向き合う心とした。「冷え枯れる」とは、樹木が枯れる初冬の冷え冷えとした空気、そこで感じる清々しく凛とした心持ちを表す言葉。紹鴎は村田珠光の孫弟子にあたる。師匠・珠光が見いだした侘び茶を、紹鴎がさらに洗練させ、弟子である千利休が完成させた。

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          村田珠光は、絢爛豪華で単に楽しむためのものだった茶会を、精神性を追求する「茶の道」へと変化させる基礎を見いだした。物を極限まで排することで現れる美を追究、物の不足を心の豊かさで補うことを目指した。茶の湯の道にとって最も大きな妨げとなるのは、慢心と自分への執着であるとし、どんなに上達しても人には素直に教えを請い、初心者にはその修行を助けることを説いた。珠光が弟子に宛てた一節に「心の師とはなれ、心を師とせざれ。」がある。移ろいやすい心に振り回されず、自分が心をコントロールする立場

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          607年に遣隋使として中国に渡ったことで知られる小野妹子は、池坊華道の道祖とされている。妹子は晩年仏道に入り「専務」と名を改めた後、聖徳太子が創建した六角堂に入った。そして専務が仏前に花を供えたことが、華道の根源になった。以来、家元は「専務」の「専」の字を名乗り、妹子の精神を受け継いでいる。妹子の墓所が大阪府南河内郡磯長村(現・太子町)の科長神社の西南の丘陵地に存在することが判明したのは、四十三世専啓宗匠の時代である。池坊では小野妹子の命日とされる6月30日、毎年墓前祭を執り

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          晩年期のゴッホは、精神的に追いつめられ、幻覚や被害妄想に襲われ、過度に飲酒をした。近隣住民は、ゴッホを精神病院に入れてくれという嘆願書を市長に提出。ゴッホはアルルの精神病院に入院したが、絵を描くことを禁じられた。その後、サン=レミの療養所に移ってから、また絵を描き始めた。この時期に名作『星月夜』を制作、自画像や風景画も多く描いた。ゴッホは定期的にくる発作に悩んでおり、絵の具や灯油を飲もうとするほど錯乱をしていた。1890年7月、ゴッホは銃で自らの左胸下を撃った。ゴッホの死因に

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          後白河院は上皇、そして法皇として院政をはじめ、二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽天皇の5代に及び院政を敷いた。二条天皇、平清盛、木曽義仲らと対立するなどして何度も幽閉されるが、すぐに復権しては政敵を滅ぼした。権力維持のためには、平清盛から木曽義仲、源義経、源頼朝と後ろ盾となる武士を次々に替えながら、時には対決し、時に妥協しながら、その危機的な状況をかいくぐった。その老獪な処世術を源頼朝は「日本第一の大天狗」と揶揄した。激動の時代を生き抜いた権謀術数の持ち主で、その手腕によって政局

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          菩提寺・泉涌寺は、御寺と呼ばれ、昭和の半ばまで一般人が入る事が許されなかった。勅使門は、天皇や皇室関係者の方々が訪れた時にのみ開かれる。実はいくつもの種類があるという菊の御紋であるが、泉涌寺で使われているのは、天皇だけが使用できる特別なものであった。天皇や皇族の方がお越しの際に過ごされる御座所は、京都御所から移築された建物である。海会堂は、40を超える歴代天皇が肌身離さず持っていた念持仏が祀られている。霊明殿は、140もの天皇や皇后の位牌が安置されている。

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          藤原彰子は988年(永延2年)、藤原道長の長女として誕生。道長は政治の中枢で絶大な権力を握っていたが、自分の地位をさらに強固にするため、長女の彰子を強引に一条天皇に入内させた。一族の繁栄が第一だった父と違い、公平で正義感の強い女性だった。やがて後一条天皇、後朱雀天皇の母となり、政務や人事を後見するまでになった。大臣達の行動を冷静に見つめ、権力者に媚びるだけの人物か、信頼に値する人物かをしっかり見極めていた。天皇家と藤原摂関家の家長として政治力を発揮。道長の跡を継いで摂政・関白

          智和輪 テキスト

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          隠元は、江戸時代前期の僧侶で、黄檗宗の開祖で、明から来日した。明朝禅を伝え、日本の禅宗に大きな影響を与えた。1654年、63歳の時に来日し、インゲン豆、西瓜、蓮根、孟宗竹、木魚などを日本に紹介した。煎茶道の開祖とも言われ、現在でも、全日本煎茶道連盟の事務局は、黄檗山萬福寺内にある。明朝体という文字は、隠元や鉄眼を介して日本に伝わった。普茶料理と呼ばれる中国の精進料理も、隠元が伝えた。隠元のもたらした茶は、釜炒り茶で、煎じ茶のことを隠元茶とよんだりする。隠元の弟子、高遊外は、九

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