智和輪 テキスト

聖徳太子の生母、穴穂部間人皇后は蘇我氏と物部氏の争乱を避け、京丹後の間人(たいざ)に身を寄せた。間人という地名はその字からも皇后との深い関りがうかがえるが、諸説あり確かなことはわかっていない。大和の国へ帰られるにあたり皇后から御名を賜ったが、畏れ多いと考えた村人は御退座にちなみ間人「たいざ」と読むことにしたという伝説をもとにした母子像が日本海を眺めるように後ヶ浜(のちがはま)にたたずんでいる。

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