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我思う、ゆえに我あり…それホント?


    最近、やたらとそういうことを考えるようになった…というか、以前から考えていたことなのだけれど、ここ数年の自分はそれを忘れていたのだ。
    人間は8割方の情報を視覚から得ているという。例えば、かき氷のシロップは全て同じ味…らしい。実は先日、息子と話すまで知らなかった。いや、知らなかった訳ではなくて、なんとなくわかってはいたのだけれど、改めて他人に(しかも自分の息子に)、そんな認知論のような話をされるとは思わなかったのだ。
   ちなみに「ブルーハワイ」というのは、青い色が着いていて甘ければいいらしい。視覚で認知した瞬間に、そのものが口に入ったときの味が決まる。だから目隠しをしてかき氷を食べると同じ味がする…と。
   この会話が私と息子との間に始まったきっかけの話題は、「ファミレスのメニュー」なのである。息子の住んでいるアパートの近くに某ファミレス店があるのだけど、そこで「かき氷フェア」なるものが夏に開催されていたのだそうだ。息子は幼い頃からのかき氷好き、ただ、高校生ぐらいの頃からは食べる機会も減り、ここのところのコロナ禍で屋外イベントが軒並み中止に追い込まれたことで、祭りの出店も少なくなったので、ますます食べることが無くなったという。それで「かき氷フェア」を知って、久しぶりに食べた。そんな他愛ない話をきっかけに、五感からの情報認知の話題になって、味覚も視覚に依存する割合が高い…などという話が繰り出される。実に面白い。

    私たちは五感から常に膨大な量の情報に曝されていて、それを取捨選択して自分が必要と無意識に判断した情報のみで、この世界を認識しているのだという。
    私は 「あなたが見ている景色は、私が見ている景色と同じなのか?」そんな問いを頭に浮かべている子どもだった。これは永遠に解決しない。何故ならば、「あなたは私じゃないから」である。人間は自らが認識していることが全てだ。それが正しい姿なのか、それは誰にも証明できない。
 情報は脳に伝達される刺激に過ぎないのだから、その刺激が誰に対しても同じだとは限らない。

 多分、寝ている間に世界が終わったとしても、脳に同じ刺激が与えられ続けているうちは「自分の認識している世界」に終わりは来ない。
 映画「マトリックス」を観たことのある人は多いだろうが、アレだ。バーチャル空間にデータで市街地を再現して、人間の意識はそこで生活する。音もするし匂いもある。食べ物を食べたり、家族と暮らしたり、仕事をしたりする。しかし、それは現実には起こっていない。全て、脳内でのことだ。お互いの共有意識の中で成立する世界。おそらくレンダリングによって、認識していない部分はデータのみの存在になっているのだろう。そこにアクセスしている個人個人の意識が観測している部分だけが、現実にあるかのように再現される。

 こんなことを考えるのにも理由がある。以前、脳にダメージを受けたときに、自分の行動や言動が記憶から欠けていることがあったからだ。第三者から見た私は、確かにそこに居るはずなのに、当の本人は自分自身を認識していないから、そもそも記憶に無い。「忘れている」のではない。自分の中では「無かった出来事」として処理されているのだ。これはかなり恐怖を覚えた。自分で自分自身のことがコントロール出来ていない。これが恒常的に起きているのが「認知症」という病なのかもしれない。
 「外傷性クモ膜下出血」と、なかなか大仰な診断をされた経験があり、これについては以前書き記した。もう「気合」とか「気力」の問題じゃなくて、その前に頭が働かない。新聞や雑誌が読めない。本を開いても読み進むことが出来ない。契約書、申込書、注意書き、紙に活字で書かれたものが一切頭に入ってこないのだ。無理に読もうとすると頭痛がする。ただ、パソコンやスマホの画面に映る文字や短文は読めていたのだから、不思議。
 その状態で、息子の大学入学のための提出書類などを、読んで理解して記入しなければならないので、これにはかなり苦労した。何せ自分の保険料請求も、書類だけは貰っていたけど半年以上放置してしまったぐらいである。頭が働かないから、どこにも行けない。気分転換など出来るはずもなく、半日、横になっていることもざらにあった。
 脳の働きって本当に大事。
 きっかけとしては精神状態のマイナスを打開するためであったが、このnoteでのブレインストーミングのおかげで、最近は活字の本やマンガが読めるようになってきた。ありがたい。
 溜まっていた頭の中のモヤモヤを、こうして駄文に綴ることで解消することも出来る。頭が働き始めたので、今まで停滞していたものが噴出してきたようにも思う。思い付き始めると止まらないし、吐き出し続けないと爆発しそうになる。

 Webライティングの案件をこなすようになったのも良い方向に働いているように思う。取るに足らない「スカッと系」の動画シナリオかもしれないが、執筆にはともかく頭を使う。登場人物を設定してバックグラウンドを考えたり、法律や制度が関係するならそれを調べたりして執筆活動を進めている。自分の経験や、幅広い人脈からの情報から、リアリティのある話を創作しようと心がけている。自分が誤りだと気付いたことを、そのまま書くことは出来ない。
 例えるなら、「時速300キロで爆走」は現実に起こり得るが、「そのまま飛び去ってしまう」と書くと、それはSFとかアクション映画の世界だ。それはその世界の設定の上で実現するものである。「スカッと系」のストーリーは、あくまでも現実世界で起こったことを脚色して書くものであると理解しているので、法律があればそれには準拠しなければならないし、それの網目をくぐるならば、その方法を考えなければならない。警察も弁護士も法の下で活動している。それらの組織を登場させるのならば、そこから外れたことは書けない。会社が舞台となるなら、会社の運営を前提にしないとウソになる。当然だけれども、私たちの住む世界の物理法則を無視したようなことも書けない。
 まあ、中にはそういう「ウルトラC」的な解決を期待して視聴している方もいるようだが、自分はそういうストーリーを書く気はない。
 しかし「エリート」とか「医者」とか「タワマン」とか「会社の社長」とか、その辺りへのルサンチマンは凄いね。知らないで書いてる人が多いのがよくわかる。視聴者もそういう階層なのだろうけど、いや現実にはそんなことしませんわ…みたいな描写がよくある。頭のいい人たちは、そんなことでボロ出しませんよ。自分としては、この執筆を通じて「社会の仕組み」みたいなものを面白おかしく伝えられたらいいな…ぐらいに考えている。

 それで最初に戻るのだけど、自分を自分として認知しているのは、結局のところ自分だけなのだ。
 世界とは何か?と問われれば、自分が世界だと思っている範囲が世界だし、世の中とか宇宙とか、それも同様。国内だって足を踏み入れたことの無いところの方が多いのに、ましてや世界全体、地球全体、宇宙全体など知らないことだらけ。自分はあまりにも無知である。
 これまでの生涯で溜め込んだものが私の世界の全てだ。
 「我思う、ゆえに我あり」と言ったのはデカルトだったか。でも実は「我」など、どこにもいないのだと思う。自分の脳内、というか自分が「存在する」と思い込んでいるだけかもしれない。それは誰にも証明できないのだから。
 こんなことを考えるのは、お前が暇だからだ!目の前のことに打ち込んで、汗を流して働けば、そんなの考えてる暇なんてない!…と叱責される向きはあるだろう。ただ、それでも自分は吐き出さなければ先に進めない。少し難儀な性格だと自分でも思う。

最後にどうでもいい話。
タイトルが「五・七・五」になってることに途中で気づいた。
意図した訳ではない。
自分の中の日本文化の血肉が成せる業だな…と(笑)

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