見出し画像

私たちの認識している世界は仮想現実?

最近、YouTubeアプリを開きっぱなしで寝てしまう…

 寝る前に目からの刺激はあまり良くないらしいのだけど、取り留めのない解説動画やら何やら流しっぱなしにしていることが、最近はよくある。
 以前は、寝付きが良くなくて睡眠導入のエンドレスBGM動画などを耳元で流していた。メンタルがダウンしていたときにはお世話になった。耳からのヒーリングは、なかなか良いと思う。波の音とか、秋の虫の鳴き声などは心が癒される。
 最近は、何故だか「量子力学から見た宇宙の真実」とか「仮想現実」とか「意識とは何か?」とか、そういう動画が上がってくるのだ。まあ、ああいうのはAIのアルゴリズムによって、その人が興味を持ちそうなものがトップ付近に来るらしいので、あながち間違ってはいないのだけど。

 以前「2000字のホラー」というお題で、ショートショートの小説を書いてみたことがあった。
 ちなみに「小説」というか、このnoteにフィクションを書いているのはこれだけ。あとは日々の雑感とか、体験記、エッセイのみである。先日、妻の体験からヒントを頂いたので、それは短編を書いてみようかと思っているが、ここでは触れないでおこう。
 この「多重苛夢(たじゅうさいむ)」という話、近未来で厭世的な気分が蔓延した結果、バーチャルな世界に逃げ込む人が増え、そのバーチャルな世界でも悪夢が続く…という入れ子構造になっているのだけど、表現力が未熟なので、人によってはそこまで読み取ってもらえない場合もあった。もう少し文章力と表現力、思考力を鍛えなきゃならんなと思う。

 ただ、この話ではあくまでも「肉体」があることが基本で、それが装置に繋がれることで電気的刺激を受け、バーチャルな体験が出来るという設定になっている。別に新しくも何ともなくて、アイディアとしては古典的な部類に入ると思う。
 以前、妻に借りて読んだ小説で「クラインの壺」というのがあった。

 この世界のバーチャルリアリティーは、カプセルに入って体全体をゲル状のもので包み、そこからの外部刺激と脳への電気信号で物語を成立させていた。
 また、「完全なる首長竜の日」というのも借りた。

 こちらのバーチャルリアリティーは完全に脳へのセンシング技術によって確立されている。
 全ての認知は脳への電気信号の処理結果だから、こちらの方が技術的に進んでいるし、現実的とも言える。
 妻は読書好きで読書量も多く、普段あまり活字を読まない私など足元にも及ばない。ミステリーや推理ものが多いイメージだが、その全体像は把握していない。SF的な知識も豊富なので、話しているとなかなか興味深いことを言う。

 話は現実世界のことに戻るが、「果たして世界は存在しているのか?」という問いが、以前から頭のどこかにこびり付いて離れない。
 五感で捉えている全ての事象が、脳に伝わって電気信号の作りだしたものだとしたら、実際の自分は溶液に浮かんでいる脳だけの存在かもしれないからだ。
 それについては「水槽の脳」という思考実験もあるので、そちらをご参照のほど。

 それでは私たちが持つ「意識」とは何ぞや?と思ってしまうのだけど、個人的には「ただのデータ」に過ぎないと思うのだ。
 「意識」が肉体の束縛から離れて、データとして存在できるなら、それこそバーチャルな不老不死が実現する。私たちが感じている世界が、全て脳内の電気信号の処理の結果であるならば、不老不死の手っ取り早い実現方法はこれだろう。
 なにせ肉体を維持するコストも設備も要らないのだから、メモリーにデータさえ残っていれば「死」は永遠に訪れない。そもそも肉体があるようにしか感じないのだから、自分がデータだけの存在だと気付くことは無い。それをどのようなシステムで、誰が行うのか…という問題はあるのだけど。

 最近の量子研究によると、私たちが「ある」と感じている物質は、そもそも「中身がスカスカ」なのだそうだ。原子が東京ドームぐらいの大きさだと仮定すると、それを構成する素粒子はピンポン玉の大きさしか無いのだそうで、ぎっしりと「何か」が詰まっているのではないらしい。では、何故私たちは金属を触って固さを感じ、ゴムを触って柔らかさを感じるのかというと、その物質を構成している素粒子の電気的、質量的、重力的な特性が「そう感じさせている」だけなのだという。
 要は「実体なんて、どこにも無い」というのが、最新の物理学研究の結果なのだそうだ。
 私たちは「無いものを有ると思い込まされている世界」で生きている。
 「宇宙全体が一つの仮想現実」が、今のところかなり有力な仮説であるらしい。
 素粒子は波動であって粒でもある。観測しないうちは「波」としての性質を持ち実体が無いが、観測をした瞬間「粒」として実体を持つようにふるまうのだそうだ。これは、ネット上のバーチャルゲームで使われている「レンダリング」と非常に似通っているらしい。
 「観測者」としての何かがある間は、お互いに干渉しあって実体を持つが、干渉が無くなると実体が無くなってしまう可能性が高いとのこと。
 どうやら、私たちが「ある」と思っている限り、この世界は存続できることはわかった。では、「より良い状態でありたい」と思う人間が増えれば、世界はより良く、暮らしやすくなるのだろう。

 以前「異世界」でも書いたが、幼い頃にパラレルワールドを行き来するような体験をした記憶もある。熱に浮かされたときの夢だと思っていたが、割とそういう体験をしている人も多いのかと思った次第だ。
 今が現実なのか、夢なのか。
 自分は生きているのか、死んでいるのか。
 そもそも自分は何者なのだ?
 「胡蝶の夢」の話にもあるように、そういう哲学的問いは古来から行われてきた。
 映画「マトリックス」では、人間が肉体を持っていることを「コンピューターが作動するのに必要なエネルギーを、人間の生体電流で賄うため」と理由付けしていた。必要なのは「肉体からの生体電流」であって、精神は仮想現実で飼っておけばいいというのが、あの世界の前提である。余計なエネルギー消費をさせずに快適に生かしておいて、脳への刺激で「生きている世界」の夢を見させる。そろそろ実現可能な気もするのだが、どうだろう?
 意識だけを残すのなら、肉体は必要ないし、データ化できるなら脳すら要らない。AIが知性を持つのなら、全部そこに意識を上書きしてしまえば、生体である必要すらない。
 「サイバーパンク桃太郎」では、ナノマシンで脳の神経細胞を置き換えて電脳化するアイディアが示されていた。誰かの電脳に自分のパーソナルデータが上書き出来るなら、肉体的な死は何の意味も無い。

 昔読んだコミック作品のセリフで、
「いま自分を起こす人がいて、これが夢なのかもしれない」
「悪夢から目覚めても、また別の悪夢が続く」
「悪夢なら悪夢で、その中を精一杯生きるしかない」
…みたいなセリフがあった。細かいことまでは覚えていないが、少年が眠りに落ちると見覚えの無い教授の部屋にいて、そこで様々な奇妙な体験をするというストーリーだったと思う。

 実家にコミックスがあるはずなので、また読み返してみよう。
 また思いつくがままに書き散らかしてしまった…ここまで読み進めていただいた方には感謝しかない。
 ではまた!

この記事が参加している募集

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?