「向き合う」とはどういうことなのか?
鉛のような、重くて鈍い苦しさが、心の奥底から音を立てて突き上げてくる。
ここ数年、自分自身の感情や思考に意識を向けることが増えてきた。
なぜ、そういう気持ちになるのか?
その気持ちはどこから来ているのか?
「自分と向き合う」と言う言葉に出会った頃から”僕を知る旅”は始まったような気がする。
そもそも、「向き合う」って何だ?
過去を振り返ることか?沸き出る感情や思考から自分自身を知ることか?
それとも、これからの未来について考えることか?
そのどれもかもしれないし、違うかもしれない。
生まれてからの人生、僕は皆と同じように歳月を重ね、その体験や育った環境、出会う人々、全てが”僕”という人間を作ってきた。
だから、過去から今この瞬間は繋がっていて、これからの未来も続いていく。その中で「僕」が存在している。
自分と向き合うという作業は、絡まり合った糸を丁寧に解いていき、「僕」という姿をより鮮明にしていくことでもある。
正直、今まで僕自身がどんな人間かを知らずにいた。正確には、今も知らないことだらで、自分自身が変化し続ける以上、そこに終わりが無いと思っている。
だけど、自分がどんなことに喜び、どんなことに怒りや不安を感じるのか?
昔よりは俯瞰して見れるようになった。
「アイツとは合わない」「こんなんじゃ無理」など、感情や思考の矛先が相手や環境へと向かう。
これって、多くの人に起こっていることだと思う。
自分でも気づかない、奥深くにある過去の体験が、今の感情を作り出していても、目の前の状況だけでしか物事が判断出来なくなっていることがある。
だからこそ、過去からを一つ一つ見ていく必要があって、自分という繋がりを知る必要がある。
これが僕なりの「向き合う」という作業だ。
苦しかった体験
過去の楽しかった、嬉しかった思い出って、やっぱり思い出しても楽しいし、受け入れやすく、言葉にしやすい。だから比較的記憶の表面に近い部分(あくまでも僕の感覚的な解釈)にあるんだと思う。
また、ちょっとした失敗やバカしたこともまた、微笑ましく感じれる。
しかし一方で、トラウマのような心の傷や苦しかった過去の体験は、そこに意識を向けることすら難しい。
僕にとって、幼少期に両親が離婚したことはとても大きな出来事だった。
離婚する前の両親のケンカや、泣いている母の姿、5歳にしてどちらと一緒に住むかの選択を迫られたことや、新しい生活など。
その後の自分の性格や行動、価値判断を作っていったと思っている。
それにも関わらず、つい最近までそれが僕自身の感情や思考に影響を与えているとも気づかず、ましてや大きな出来事だったという記憶も無かったほど、心の奥底に押し込められていた。
向き合い始めて感じた「苦しさ」
感情や思考が、過去の体験や、今までの人生という繋がりの中で作られたものであることに気づき始めた僕は、同時に苦しさも感じ始めていた。
それは、自分の中にある感情が、得体の知れないものになっていたからだ。
今までは、誰かの、何かのせいにしては、自分自身を納得させていた。
でも、それが出来なくなった時、一体何がその原因なのかが分からず、目に見えない”敵”と戦っているような感覚だった。
行き場のない怒りや不安が自分自身を責め立てる。
言葉にもできず、解決する糸口も見えてこない。
感情が爆発しそうで、逃げ出したい。
でも、逃げても逃げても、その感情はいつでも僕の中にいる。
見たくも、聞きたくもないのに、いつも心の中から自分の声が聞こえてくる。
逃げれば逃げるほど、僕の心を傷つけているようで耐えられなかった。
いつしか、僕はその感情や思考に疲れていた。
それは、自分の中にある気持ちや考えを言葉にして見ようと思えるタイミングでもあった。
今まで僕はどんなことを体験してきたのか?
その時僕はどんなことを感じていたのか?
本当に望んでいたことは何だったのか?
それが今の僕にどう繋がっているのか? . . . 。
その時掘り下げられる一番奥深くのところまで、とことん言葉を通して掘り下げていった。
それからというもの、事あるごとにそんな作業を繰り返していった。
次第に、自分自身の意識や言葉の解像度が鮮明になっていく。
今の自分という姿がよりくっきりと浮かび上がる。
しかし、鮮明になればなるほど、そこには、また大きな苦しみが待ち構えていた。
今の自分を苦しめてる感情や思考のクセが、過去の自分の体験、経験からの繋がりであることがわかってくることで、今まで環境や相手に原因を求め、守ってきたはずの自分に、守る術や盾が無くなり、本当の自分、ありのままの自分に全ての矢印が向いてしまうからだ。
そして、その苦しさは、自分の中で対立となって現れる。
変わりたいけど、変わらない自分。
沸き出る感情や思考を受け入れられず、抵抗してしまう自分。
”こうあるべき”という正しさを作り出しては、正しくない自分を責める。
感情が止めどなく溢れ、思考で自分を否定する。
時にコントロールが効かないほどに大きく揺さぶられたりもする。
だからこそ、そこに意識を向けることは簡単ではない。
意識を向ければ向けるほど弱い自分が浮き彫りになっていく。
どう向き合うか?
次なる一歩を踏み出していく。
今感じている感情や思考をひたすら書き出した。
そこに過去の体験や経験を重ね合わせたり、
自分の中から出てくる言葉だけでなく、その言葉から次の言葉へと広げていく。
言葉を通して自分を掘り下げていく作業をひたすら繰り返す。
そうすることで、自分では気づかなかった世界が言葉を通して見えてくる。
誰かの言葉に、「そう言われてみれば」とか、「今まで何となく理解してたことがその言葉によってはっきりとわかった」などの経験があると思うが、まさにそんな感じだ。
言葉は良くも悪くも武器になる。
それは、自分と向き合う中でも同じで、言葉という表現を深めていくほどに新しい自分に出逢うことができる。
それに気づいた時、自分と向き合うことのその一歩を乗り越えて行けた気がする。
僕たちの心も土と同じ。
まだまだ僕は自分と向き合っている。
日々向き合い続けている。
もちろん苦しい時もあり、新たな過去の自分との出会いもある。
僕は生きていく中で、人生の多くを思考や感情というフィルターを通して行動していた。
それは、決して素直で正直なものではなかった。
自分自身を守るため、傷つかないためのものであった気がする。
しかし、向き合っていく中で気づいたのは、自分とは切り離した、感情や思考との丁度いい距離感を見つけるということ。
上手に付き合うことで、自分を守る盾のようにガチガチに固まった感情や思考から、柔らかく、解放された状態に近づいていく。
それは、枯渇した土壌に水分を与えるように。
固くなった土を少しずつ耕していくように。
やがて、柔らかく、奥深くまでフワフワになった土は水分が浸透しやすく、微生物が活動しやすい栄養豊富な土となる。
そんな場所には、生き生きとした作物が育つ。
僕たち人間も自然の一部だ。
自分と向き合い、耕すことで、感情や思考という豊かな"表現"が、感覚の世界の中で彩られる。
それはきっと、多くのご縁という種が、どこまでも広がる大きな循環となって花を咲かせるだろう。
「向き合う」とは、心を耕す土作りのようなものなんだと知った。
自分と出会う旅はこれからも続く。
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