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「自然とヒトとの関係について」
菅原博文著。論文集になります。「私達は感覚によって対象について何を知りうるだろうか」から始まる「力の作用だけを前提した存在論」など、5編の論文、及びレポート集から成ります。Apple Books で、立ち読み、購入できます。Hirofumi Sugawara で検索していただければ、他の何冊かと共にヒットします。ぜひ、Apple Books に行ってみて下さい。
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大栗博司「超弦理論入門」より 1
(少々、唐突な導入ですが)電子が、自分自身のつくった電磁場の影響を受けると、質量が無限大になるという問題があります。これは、電子が自ら発した光子を吸収する現象であると表現することができます。これによって電子の質量が無限大になってしまうのです。
(一番最初から順を追ってではなく、面白くなってきたところから始めたので、わかりにくいかもしれません🙇。しかし、回を追うごとに、分かりにくさは消えると思いま
ウィトゲンシュタイン攻略
ウィトゲンシュタインというと、言葉に関する思想で有名ですが、言語に関する思索を通して自らの思うところを語った人、という捉え方もできるかもしれません。この本で著者の永井氏は、自らの幼少期からの疑問をウィトゲンシュタインの中にも発見し、読解をしています。先ず永井均「ウィトゲンシュタイン入門」を読んで、ウィトゲンシュタイン本人の著作に進むのもよい方法と思います。
永井均「ウィトゲンシュタイン入門」より-2
しかし、どういうわけか、私は生まれ、今ここにこうして存在している。そしてそれは永井均という名づけられたこの人間が生まれたということとは別のことである。なぜなら、永井均という名のその人間が生まれていながら、それが私ではなく他人(というよりむしろ単なる一人の人間) にすぎない、という状況は十分考えられることだからである。
だからこの問いは、実のところは、「なぜこの子(つまり永井均) が自分であって、隣
永井均「ウィトゲンシュタイン入門」より-1
私が言いたかったのはこういうことだ。これまで無数の男女がセックスをして、無数の子供が生まれてきた。これからも生まれてくるだろう。そのうちの一人が私であった。しかし、私など生まれてこないこともできたはずである。現に1951年までは、私がいない世界が続いていたし、2100年には、またまちがいなく私のいない世界が存在し続けるであろうから。
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」より-5
2.01231 対象を捉えるために、たしかに私はその外的な性質を捉える必要はない。しかし、その内的な性質のすべてを捉えなければならない。
2.0124. すべての対象が与えられるとき、同時にすべて可能な事態も与えられる。
2.013. いかなるものも、いわば可能な事態の空間のうちにある。私は、この空間が空であると考えることはできるが、空間を欠いたものを考えることはできない。
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」より-4
2.0122 ものが自立的といわれるのは、それがすべての可能な状況のうちに現れうるからでしかない。すなわち、この自立性の形式はものと事態との連関の形式であり、非自立性の形式なのである。(同じ言葉が、単独で用いられたり命題の中で用いられたりと、二様の異なる仕方で用いられることはありえない。)
2.0123 私が対象を捉えるとき、私はまたそれが事態のうちに現れる全可能性をも捉える。
(そう
量子力学における物理量 連続か整数倍か
主に巨視的な物理を取り扱う古典力学では、物理量は実数で表される連続量だが、量子力学では、量子を数え上げたものとして扱われる。たとえば電気量は、電気素量の整数倍の値となる。
Wikipedia より
とびとびのエネルギー準位といわれるのがこの整数倍を意味している。