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雑感記録(337)

【演劇童貞卒業の日】


些か大仰なタイトルな訳だが、事実なのだから仕方がない。僕は先日「演劇童貞」を卒業してきた。と書きはしたものの、そもそも「童貞」という言葉には「異性と肉体関係を持ったことが無い」という意味がある。果たして演劇を僕にとっての異性と評定して良いものかは定かではないが、ただ少なくとも「肉体関係を持ったことが無い」というのは事実である。僕はこれまで演劇とは無縁な世界で生きてきた人間である。密接な関りなど存在しない。

と書いている時に「いや、待てよ…そう言えば少しぐらいはあったんじゃあなかったか」と一瞬タイピングする手を休め、腕を組み意味もなくウンウン唸ってみたりする。だが、こう書いている自分と腕を組み意味もなくウンウン唸ってみたりした時の僕は既に空間的にも時間的にも隔たりがある。これを書き始めているという時点で、「僕は演劇をしたことがあった」ということをわざとらしく、厭らしく書こうとしている自分にホトホト嫌気がさしながらも、結局書いてしまった。

幼稚園の時。所謂「お遊戯会」みたいな形で、劇だか何だかをやった。僕の通っていた幼稚園は何だか物凄く大掛かりで、文化ホールと言うのか?公共のそういう大きな施設を借りて、小さい子供たちには似つかわしくないだだっ広い会場で演じたことがある。正直、僕には断片的な記憶しかないのだが、いずれにしろ「何かを演じた」という記憶は確かにある。

それでまた思い出した。ちょっと懐かしい話。

年中か年長だった頃の話だ。何の劇だったかは忘れてしまった。僕が覚えているのは演じていた女の子のことだ。確か、ももちゃんとかいう女の子だった気がする。日常で一緒に遊んだ記憶、園内で遊んだ記憶というのは全く出てこないのだけれども、その劇の時のももちゃんだけは今でも鮮明に覚えている。というよりも、小さいながらに同世代で「ああ、綺麗な人だな」と思った初めての子だったと思う。

その時に衣装を着ていたからということもあるかもしれない。確か僕は…魔法使いのような衣装…だったと思う。黒い帽子に、切れ切れの布、黄色いスカーフ、魔法のスティック的なもの、黒の…とこれ以上は思い出すことが叶わない。ただ、ももちゃんが来ていたのは、本当に純白のドレスだったことは覚えている。確か頭にティアラも付けていた気がする。口紅も。美しかったなあ…。

劇をやる前に確か写真を撮られる。その時に一緒に手を繋いで撮られた記憶がある。あのドキドキというか、ソワソワしてしまう感覚というのは不思議とこの歳になっても思い出せるものだ。今もこうして思い出しながらタイピングしている訳だが、どことなく身体が火照っているような気がする。僕の傍では上司がゴホゴホ大きな声で苦しそうに咳をしている。

はてさて、話は幾分か脱線したが、とにかく自分にも一応は「演劇」とまで高尚なものでは無いだろうが、「何かを演じる」という経験をしてはいたらしい。だが、観る側としてはあまり無いように思う。自発的に演劇を見ようと思わなかった。そう言えば、銀行員時代に物凄くお世話になった今でも尊敬している女性の先輩が演劇が好きと言っていたことを思い出した。

元々先輩は『テニプリ』が大好きで、僕もアニメが好きだったので色々話をした時に「『テニミュ』良いよ、『テニミュ』」と言われて、「なんだ、ミュウツウの進化かなんかか」と思った訳だが、よくよく話を聞けば『テニプリ』のミュージカルらしい。所謂「2.5次元」とかいう奴だ。産休に入られる前に「DVD今度持って来てあげるね」と言われ愉しみにしていたのだが、何やかんやあって結局借りれずじまいであった。先輩は今も元気にしておられるだろうか…。

そんな貴重な機会を逃してしまったので、僕はついぞ昨日まで演劇を「観る」ということはしてこなかったように思う。それは「演劇童貞」と言っても差し支えないのではないだろうか、という言い訳じみた話でここまでダラダラ書いてしまった。いけねえ、いけねえ。


僕が昨日観てきたのは、高校の同級生が座長をしていると言うのか?僕はあまり演劇には聡くないので分からないが、所謂「旗揚げ公演」と言えば良いのだろう。それに行かせてもらった訳だ。

演劇を観に行くということ自体がそもそも僕にとっては初めてのことである。これは僕のある種の弱さなんだが、自分自身が初めてのことに対して片足を突っ込む勇気が無い。特に自分独りの場合なんかはそうだ。要はチキンである。チキンと自分で書いておいて、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のマーティーみたいに「なんだと!」と思えるぐらいの気概は持ちたいものだが…まあ、そんなことはどうでも良い。

いずれにしろ、言い方は些か失礼になる訳だが、偶然にも高校の時の仲の良い友人がやっていたから「よし、行くか」となれたことは事実である。これがもし、他の誰かの演劇で、別の誰かに「行こうぜ」と言われたら行きはしたけどそこまで乗り気ではなかっただろう。ある意味で、自分が知っている人が出ているというのは、何か初めてを1人で経験する場合は肝心なのかもしれないなと思ってみたりする。

そもそも、僕は劇場に入るのすら初めてな訳だ。入場の仕組みもよく分からないし、演劇の見方のお作法(というものは恐らくないんだろうが、演劇人にしか分からない何か暗黙のルール的なやつがあるかもしれない)など僕は本当に知らない。ゼロ状態である。強いて言えば、鈴木忠志の演劇論を齧って『劇的言語』に現を抜かしているぐらいだろう。ちょうど僕は身体的言語について考えているということもあった訳だ。

丁度、直近で日本語について改めて考えているという話を僕は文学の側面から書いた訳だが、実際言語というのは何も言葉だけが優位性を持っている訳ではない。身振り手振り、あるいは沈黙、光の加減…そういったものが「渾然として一」として言葉になりうることだって十分にある訳だ。それを体験するにはやはり演劇しかないのかもしれない、と頭の中では偉そうに、一丁前に考えている訳だが、やはり考えているだけではお話にならない。僕がいつも言う「浅瀬で足首まで浸かっただけで『俺は海を知った』と豪語するようなもの」でしかないのである。

だから、この機会は本当に僕としても有難かった。

とはいえ、やはり僕は「演劇童貞」であるから、やはりドギマギする訳だ。「ああ、こんな所に俺が居て良いのかよ~…助けてドラえも~ん」と叫びたくなる気持ちを抑えながら何とか席を見つけて座る。早めに着いたので開演時間までドギマギしてしまって、何だかおかしな話で、観る側の僕が手に汗握っちゃう。1つそんな中で驚いた点としては、演者と観客の距離が近いことだ。僕にはそれが驚きだった。

この距離感というのは面白い。文学には無いものだからだ。

先の記録にも書いてある訳だが、文学に於いて書き手と読み手による相互作用によって初めて文学足り得る訳である。特に読み手側の問題であると僕は考えているのだが、受け身の読書ではなく、能動的な読書が求められる。それは「自発的に本を読む」という単純な行為ではない。例えば、描かれている時代背景を考えてみるとか、そこに書かれている表現1つ取って見てもいい、自分の中で好きな表現を見つけることだって良い。そういう積極的な読みの中で作品は甦るのである。

だが、殊、演劇に限ってはそんなことを声高に叫ぶ必要が無い。簡単な話で、演者と観客の距離感が不可避的に近いからである。関りを持ちたくなくても、向こうから迫って来る。それに広くはない訳だから、圧迫感を以てやって来る。逆にあの空間でその反応を無視しながら座り続けられる方が僕はおかしいと思う。僕等が積極的に「よし、観るぞ」と身構える必要は無い(訳では決してない。無論、能動的な態度が必要だ。しかし読書に比べて幾分かハードルは低い。何故なら作品世界の場と我々が見ている場を共有しているからである)。

考えたくなくても、向こうが仕掛けてくるのだからそうせざるを得ない。ある意味で演劇は一種の共犯関係なのかもしれない。そんなことを演劇開始前20分ぐらいでひたすら考えてしまったのである。まだ始まっても居ないのに、随分と偉そうだなあ、僕は。良くない、良くない。


それでいよいよ演劇が始まる訳だ。

僕は観ていて「結構演劇って面白いんだな」と他人事の様に観ていた。まあ、実際他人事っちゃ他人事な訳だが、それでも引き込む力は凄いなと思った。これは僕の好みの問題もあるかもしれないが、散乱している話というのは好きである。最終的に終りを迎える訳ではあるものの、そこに至るまでの寄り道みたいなのが好きである。詰まるところ、先日書いた後藤明生のようなズレていく作品が好きなのかもしれない。

作品の面白さも勿論ある訳だが、僕はそれ以上にこの演劇を見ていて心が震えた瞬間があった。それについて少しばかし書いてみたいと思う。とは言え、これから書くことは僕自身が謂わば「偶然性」というものを愛しているからこそという部分もあるかもしれない。また、書き方如何によっては、誤解を招いてしまいそうで少し不安な訳だが、とりあえず書き出してみよう。

劇中で主人公である女性が他の演者さんの名前を呼ぶ場面。

彼女はその演者さんの名前を間違えて呼んだ。他の役の名前を思わず呼んでしまった。その時に彼女は早口に「間違えた」と言って、再び何事も無かったかのように演技を続ける。僕はこの場面を見た時、思わず感動して心が震えたのである。別に僕はここで嫌味を言うつもりは全く以てない。その訂正の巧みさに心奪われてしまったのである。これは本当に凄いことだ。

人間だから誰しも間違えることはある。というか人間は常に「これは正しい」と思って行動していると勘違いをしているが、そもそもその正しさというのは危うい。僕だってこうして書いている訳だが、僕の書いていることは正しさなんて1ミリも全く以てなくて、再三過去の記録でも書いているように「っぽいこと」を「っぽく」見せているだけに過ぎない。正しさというのは恐怖である。厳密に言えば「あやふやな上に立つ正しさ」は恐怖である。

人間は仮に常に間違っているとしたのならば、それをどう訂正して行くかが肝要である。僕は文学畑出身なので、何となくそういう感覚が分かる。今現在学ばれている哲学のその殆どは「過去の作品の読み替え」である。言ってしまえば、過去の哲学の訂正である訳だ。そうして新しい何かを生み出し、そしてそれが再び他の誰かによって訂正されその哲学は進化をしていく訳である。

今の人たち、これは僕も含めてだが、「自分が正しい」と思ったらそれに向かって突き進めという感覚が少なからずある。よく漫画なんかでも「自分の道を貫けよ、誰に何と言われようとも」という様な内容の文言が見受けられることがある。別にそれはそれで、そういう感覚も大事である。何故ならば結局決めるのは自分自身であるからだ。だが、そうは言っても、人からのアドバイスは必要であると僕には思えて仕方がない。そういう中で自分自身が変化する可能性を秘めているからである。

要は、如何にして自分の正しさを上手く軌道修正させるかが大切なのだと僕には思われて仕方が無いのである。自分の正しさを疑い、誰かのアドバイスを聞き入れ柔軟に変化していくこと。これこそが今僕等が必要な力である。と偉そうにここまで書いているが、実は東浩紀『訂正可能性の哲学』および『訂正する力』のまごうこと無き請け売りである。ぜひ読んで頂きたい本である。

それで話を戻す訳だが、彼女は劇中に確かに、明らかに「間違えた」と声に出して言った。先にも書いたが僕は演劇のお作法なんて微塵も知らないから、そのまましれっとやり過ごすのが良いのか、あるいはそこからアドリブで少しワンクッション置くという方が良いのか、僕には知ったことではない。僕がここで素晴らしいなと思ったのは、彼女が「間違えた」と声に出しナチュラルな形で訂正して、再度自然な流れで演じるという点にある。

何と言うか、その間違えたことさえもしや演技なのではないか、というぐらいにその場に於いて自然であった訳だ。現実と演劇が「渾然として一」になる瞬間を僕はそこに見た。僕はここで演劇とこうして僕が見ている現実が繋ぎ止められた、僕も一緒にこの演劇に参加しているんだという感覚を僕は強く持ったのである。あの自然と出た「間違えた」という言葉で僕は一気に演劇に引き込まれてしまった。

こういう「偶然性」を愉しめる演劇は非常に示唆に富んでいて面白い。

何度も書くようだが、僕は文学畑の出身である。言葉で書かれている作品だから、言ってしまえば一定の形を以て眼前に現れるのである。それなりに形として僕等の目の前に現れる。上手い表現が中々見当たらないのだが、一応は「完成」されたものとしてそこに在る訳だ。そこに間違え、生の間違えというのは存在しない。言葉の事後性ということもあるだろうし、僕等は作者が間違えた部分など知る由もない。あるいは、作者が間違えたと僕等が考えている部分は実は作為的にやっていることかもしれない…と想像の余地は多分にある訳だが、そこでは原体験としての間違いは存在しない。遅延した間違いのみが僕等にやって来るのみである。

ところが、演劇は生の間違いが担い手と観劇している人との間で共有されるのである。僕等も演じている人も共通の言語として「間違えた」という事態を瞬時に共有できる、その空間性と時間性の淡いみたいなものを体験できる。これは中々出来ることじゃない。言葉だけでそれを追うことは難しいのではないだろうか。お互いに作り上げる作品という意識が大切であるということを演劇を観て非常に勉強になった。

先の繰り返しで恐縮だが、文学ばかりをやっているとどうも「与えられる」ということに慣れてしまいがちである。その作品から何かがやって来る。そういう感覚を抱きがちだ。事実そういう部分はある。僕も経験として「向こうからやって来る」という経験は確かにある。だが、「向こうからやって来る」とは言え、それを掴むという能動的かつ積極的態度が肝心である訳だ。それを忘れてしまっている。

本を読んで愉しむ。「ああ、面白かった」「ストーリーが良かったよね」「サスペンスがドキドキハラハラしたよね」という通り一辺倒な読みをすることも重要ではある。しかし、それ以上に僕等はもっと深く突っ込んで読む必要がある。例えば「ここの助詞の使い方が」とか「この書き方だと時間性が」とかそういう風に読む必要もあると僕は思う。まあ、これは仮に文学やら美術やら、そう言ったものに対して真剣に取り組みたいのであればの話だ。ただ表層を愉しみたいだけなら僕は何も言うまい。

そういう姿勢を今回の演劇の、とりわけ「間違えた」という言葉で改めさせられることになった訳である。それと同時に、僕も一緒にこの演劇の一部なんだなということを感じた。やはり、作品は作り手、書き手だけの一方通行では良くない。僕等それを受け取る側の人間がそれを受け止めるだけの思考を以て接しなければなるまい。それは文学に於いても、美術に於いても、演劇に於いても、ひいては人間関係に於いても重要なことである。

僕はこの演劇でそういうことを考えさせられた。


僕は細やかなその一瞬に一気に引き込まれ、最後まで集中して観た。

話の内容も勿論良かった訳だが、それ以上に僕はその一瞬に全て持って行かれた感は正直否めない。演劇の愉しみを僕は初めて知った。こういう「偶然性」そしてそこから始まる僕等の協同作業みたいなものが本当に面白くて堪らなかったのである。

見終わって僕は会場を後にしようとする。舞台では演者さんと観客が様々に話をしている。僕も彼と話をしようかなと思ったが辞めた。忙しそうにしていたということもある訳だが、何だかここで話しかけるのは違うなとも思った自分が居る。僕は確かに友人として観に来た。だが、僕は観ているうちに友人としてではなく、1人の観客としてここにいるという意識がどうも勝ってしまったのである。俳優と観客がベタベタ慣れ合うのもどうなのかと思った。彼に対して失礼な気がすると思った。彼に対するリスペクトを僕は忘れたくなかった。

僕は挨拶せずにそそくさと劇場を後にした。

帰り、僕は高校の頃の記憶を辿りながら新宿駅をウロウロと歩く。彼との記憶は正直、高校時代で止まっている部分があるので、演劇に行ったということに何故だかこそばゆさみたいなものを感じた。放課後、ただひたすら黒板に数式を書きなぐっていたことが懐かしく思える。

時の流れは早いなと思うと同時に、ここでこうして足踏みしながら、ただ何となくnoteに書き続けている自分とは遠くに行ってしまったなと思った。だが、そう思うと同時に不思議と嬉しさみたいなものがこみ上げてくる。そうか、あいつは頑張ってるんだなと、ただそれだけで僕は十分な気がした。

種子

 樹木から放射される目に見えぬ力が
 木の葉の形を成して大気に触れている
 さらに遠くへとどこうとして身悶えをつづけ
 緑に輝き風にゆれそして萎え枯れるもの
 私もまたそのように生きていて汗ばみ
 わけも知らず胸をどきどきさせている
 骨と筋肉と血と皮膚と再生を拒む脳細胞
 何十年間をからだに閉じこめられ
 そのように書きしるす言葉に囚われ
 私は私から外へ逃れようとしてふるえる
 区別するなその苦しみを歓びと
 すべての言葉は仮の名にすぎない
 混沌を生きる勇気を失うとき
 私たちは死を越えてゆくことができない
 地に落ちた枯葉は雨に打たれながらも
 かすかな葉脈の記憶をとどめようとする
 その朽ちかけた地図こそが新たないのちを
 宇宙の無明へと向かわせるのだ

谷川俊太郎「種子」『手紙』
(集英社 1984年)P.52,53

ふと、この詩が頭に浮かぶ。これは僕自身に向けられたのか、あるいは彼に向けられたのかは分からない。ただ、頭に思い浮かんだ、それだけのことである。これでこの記録は終いとする。

第2回目の公演があればぜひ行きたいものである。

今度はより観客として。

よしなに。

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