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雑感記録(307)

【『かいけつゾロリ』になりたい】


憂鬱な月曜日である。

朝、カーテンを開けて外を見てみれば、雨が降ったり止んだり。部屋は暗い。妙に蒸し蒸しする部屋。ちょっぴりべたつくパジャマ。部屋干しした洗濯の生乾きの匂い。躓く本の塔。崩れる本。足の小指に走る鈍痛。部屋の中で1人舞ってしまった。幸運なことに誰にも見られていないと思いつつ、どこか寂しさを感じながら洗面所に向かい歯磨きを開始する。

歯ブラシというのは、定期的に変えた方が良い。

昨日、動画を見ていて「歯ブラシは30日ぐらいを目安に変えた方が良い」というものが何故か僕の所にオススメとして現れた。何だか心が痛かった。大概、自分で見た目なんかに気を使っていると思い込んでいる訳だが、1歩外へ出れば「え、それで気を使っているの?」と見られるのである。こういう所の哀しさに僕は未だに慣れないでいる。というよりも、こういうものに慣れたくない。

僕はタバコを吸うし、元々の歯の性質上、歯が茶色い。過去に1度ホワイトニングに挑戦したことがある。一時期、めちゃくちゃ綺麗になった訳だが、しかし「これ以上は綺麗にならない」と言われ僕は辞めた。ホワイトニングをやったことがある人なら経験があるかもしれないが、あれ結構歯が染みて痛い。僕は歯医者でホワイトニングして貰い、ホームホワトニングでマウスピースに薬剤を入れてやっていた訳だが…。個人差はあるだろうが僕には染みて耐えられなかった。

結局、4か月くらいかな。頑張って、何とか自分でも「これなら頑張れる」と思ってやり続けていたんだけど、「これ以上は綺麗にはならない」と言われてしまった。別にそこで続けていりゃ良かったんだけど、結局僕はタバコを吸うから茶色くなる訳で、「なんかもういいや」と思って辞めた。諦めるなよと言われるかもしれないが、僕は人間そう立派に出来ている訳ではない。

僕は頭の中で数え始める。

確か1ヶ月経ってたような気がするし、経っていないような気もするし…。至極あやふやである。人の記憶なんてものはそうそう当てにするものではない。しばしば「あ、俺覚えてるよ」とか堂々と宣言する人間が居るが、ああいうのはどうも困り者だ。記憶を保有している優位性とでも言うのか。その場を仔細に記憶しているから「偉い」みたいなものがどことなく通底しているし、実際そういう事を言う奴が場を仕切り始める。彼の記憶が正しいという確証は誰にもないのに。

「忘れる」というのは秘儀みたいなもんで、場をゼロから始めるには持ってこいである。僕のイメージでは、場をフラットにして、その中で徐々に思い出して沸騰させるみたいな感じだ。その沸騰はいつやって来るかも分からない。ただ、その場で話していく中で紡ぎ出されるかもしれない。もしかしたらそれも本当の記憶とは異なるのかもしれない。しかし、そうして作り上げるから面白いのであり、友人たちと語らう醍醐味でもある。「良いじゃねえか、記憶が違っても。お前の記憶も合ってるか分からないのに、とやかく言うんじゃねぇ」と僕は思ってしまう。

そうして僕はゴミ箱に歯ブラシを棄てた。


僕は毎朝読書をする。

最近、僕は東浩紀の本を読むのにハマっていて、つい最近『一般意思2.0』を読み終わったのだが、久々に面白かった。内容も勿論興味深いことが書いてあったのは言うまでもない訳だが、何より文章が凄く良い。気持ちの悪い言い方にはなるだろうが、「自分にフィットする文章」って誰しもあると思っていて、僕にとってのフィットが東浩紀だったというだけの話である。

僕はどうも真面目な文章が読めないことに気が付く。

真面目な文章というのは、簡単に言ってしまえばお堅い文章のことである。とこう書いて説明になってはいない。そうだな、言ってしまえば「優等生の文章」みたいなものが僕は得意ではないのかもしれない。悪い意味での「読みやすい文章」って言うのかな?何だろうな…。どう表現したらいいか迷うのだけれども…。いずれにしろ固い文章は好きではない。

とこうして書いてみてだけれども、恐らく僕の中で文章を読む時のモードみたいなのが何種類かあるなと思ってみたりする。僕の場合は①哲学モード、②小説モード、③詩モード、④雑モードと大雑把に分けてみる。だが通底していることとしてあるのは「言葉に「あそび(隙間・遊び)があるか」ということである。ここは僕にとって肝心だ。そしてこれは別の言い方をすれば「真面目に不真面目」である。

原ゆたか『かいけつゾロリのドラゴンたいじ』(1987年 ポプラ社)

実際にはアニメ版の方のサブタイトルとして「まじめにふまじめ」が冠された訳であるが、僕はこれが非常に良い言葉だなと思う訳だ。これが特に哲学の分野で取り入れられると良いなと考えている。ということを東浩紀の著作を読むと思い知らされる。現に東浩紀も『観光客の哲学』で個人的にだけれども、めちゃくちゃ良い事を言っている。

 本書はひとことでいえば、「観光客であること」を肯定する哲学の書である。さらに砕いていえば、いいかげんであること、中途半端であること、「ゆるく」考え「ゆるく」つながっていくことを肯定する書でもある。
 哲学はずっと、議論の争点をクリアにし、友と敵の関係をはっきりさせ、世界の中にラディカルに線を引くことばかりを目指してきた。けれどもそれだけでは見失われるものがある。というよりも、世界をよくするためには、とりわけ分断と二極化があらゆるところで話題になっている二一世紀の世界においては、その見失われたものこそが重要である。

東浩紀「はじめに」『観光客の哲学 増補版』
(ゲンロン 2023年)P.6,7

僕にとって過去に何度も書いているが、今の世界は僕の肌感だけれども、「正しい/正しくない」とか「善/悪」とか「正解/不正解」というように2色で塗分けようとしている気がしてならない。勿論、これまた鈴木大拙の『東洋的な見方』の引用をした訳だが、そこにもあるように二項対立があるからこそ発展してきた事実があるということも存在している。だが、その2つで僕等の生活や世界が語られてしまうことに僕は危機感を覚えていた。

そういう場から如何にして抜け出すか。これを考えて僕は谷川俊太郎の「ことばあそび」という考え方に辿り着いた訳だ。しかし、自分で自分の記録を読み返してみて、やはり生ぬるい。と書きながら、僕はこの僕自身のこの生ぬるさが嫌いではない。ある意味で僕も東浩紀が言うところの「ゆるさ」を求めていたのかもしれないと心にぶっ刺さった。

そして『観光客の哲学』を読み進める中で、これまたガツンと来るようなことを言ってくれる。

 最後にもうひとつ。みっつめの狙いは、ふたつめの狙いよりさらに抽象的になるが、「まじめ」と「ふまじめ」の境界を越えたところに、新たな知的言説を立ち上げたいというものである。
 どういうことか。学者は基本的にまじめなことしか考えない。学者とはそもそもがそういう人間である。しかし観光とは「ふまじめ」なものだ。だからそれは、学者たちにとっては、まさに「まじめ」に研究対象にするのがとても難しい。(中略)
 けれども、人文系の学者は、まさにいま「まじめ」と「ふまじめ」のその二項対立こそ超えねばならないというのが僕の認識である。

東浩紀「第1章 観光」『観光客の哲学 増補版』
(ゲンロン 2023年)P.65

そして、この章の最終部に、文学を学んできた僕にとってはある種の光輝く文章が目に入って来る。

 政治は「まじめ」と「ふまじめ」の峻別なしには成立しないが、文学はその境界について思考することができる。この意味で本書は、文学的思考の政治思想への再導入の必要性を訴える本でもある。観光客とは、政治と文学のどちらにもおらず、またどちらにもいる存在の名称でもある。

東浩紀「第1章 観光」『観光客の哲学 増補版』
(ゲンロン 2023年)P.68

文学的思考。今、文学が死滅しつつある中で、東浩紀はその文学の重要性を「ゆるく」説こうとしている。小説から離れた僕にとっては何だか複雑な胸中ではある訳だが、しかしこう堂々と言ってくれることは有難い。今まで真面目に学んできた文学が今まさに必要なのではないか。そしてそれを自分自身の中でも次のフェーズに移行して行かねばなるまい。


それは言ってしまえば、「真面目に語る」ことから離れて「不真面目に語る」ことではないかと些か短絡的な答えを出す。だが、それは僕自身もやはり感じる部分がある。それが、これまた過去の記録で些か恐縮だが、古井由吉『杳子』や久生十蘭『昆虫図』を真面目に不真面目に語ったものであると今更ながら思うのである。

もっと簡単に言ってしまうなら、所謂「ユーモアのある文章」を書けるようになりたいと東浩紀を読んで気付かされる…というか抉り取られる感覚を持ったのである。

僕は元々、文学を学術的に学んできたところがやはり大きくて、どうしてもお堅い文章ばかりを読んできた。読書のベースがそもそも「難しいもの」という所からある意味で僕はスタートしている。幸か不幸か。それが当たり前として自然に受け入れてしまったから、「それはそういうもんだ」という認識が僕の中にはあったことは紛れもない事実だ。もっと恥ずかしいことを言うなら「難しければ難しい程良い」という感覚を持ってしまったのである。

今思えば、本当に馬鹿な話だ。だから僕もそういう言説に踊らされていた。「易しい/難しい」という二項対立の中に僕もどっぷり浸かって、難しさを紐解くことこそが至高であると馬鹿馬鹿しい勘違いをしてしまった訳だ。だが、現代思想、最初は佐々木敦『新しい小説のために』を読んで衝撃を受けたことは未だに覚えている。あれほど平易な文章で、しかもユーモアのある文章。だが、読み込めば読み込むほど面白い。

ここから大澤聡や大澤真幸、そして東浩紀などを読む中で「難しさを紐解く」ことだけが全てではなく、それを如何に面白くユーモアを持って語ることが出来かが重要になって来るのではないか。僕はそれをヒシヒシと感じていた。そうしてそんな中で谷川俊太郎の「ことばあそびをめぐって」に出会い「あそび」という概念に僕は惹かれていくことになる訳だ。

とここまで真面目に書いてしまっている訳だが、真面目に書きすぎると自分で面白いと思っていることも、面白く感じられなくなってしまう。これはnoteで書きながら肌感を持って感じていることである。自分自身が書き続けること、書くことが好きなのは自分の思考を整理するだけではない。別に本なんか出版できなくても良い。売れなくても良い。いいねなんて別にどうでもいい。ただ、自分が面白く愉しく書けることが1番であることがやはり1番大切なんではないかと気付かされる。

ここで書いたこととも関係してくるだろう。面白みのない文章、発見のない文章。僕はこういう文章を書かないように、日々「真面目に不真面目」を追求していきたいと心から思う。

そして偶然性。これも大切にしたい。

何度も何度も書く訳だが、自分が愉しく過ごすために書いている文章だが、こういう媒体に書いてしまうことは不可避的に僕の知らない所で誰かが眼にする。それは誰かが意図せずとも目にしてしまう。しかし、この偶然性を大切にしたい。だからこそ真面目に書かきつつ、不真面目に。そして不真面目に書きつつ、真面目に。これを僕は目指してみたい…と書くとあまりにも大仰だが、そういう文章を書けたら自分自身も愉しいだろうなと思ってみたり。

「真面目に不真面目」

これを僕も合言葉にしたい。


本屋に行くと便意が催されると言われている。

僕は元々、胃腸が弱い人間である。これを遺伝的な話で語っていいのかは分からないが、僕の家計は胃腸が弱い。特に男性。亡くなった祖父も、父も兄もそして僕も胃腸が弱い。本を読まなくても自然と便意が催される。ただ、本の匂いとかそういったものも便意を催す一因になっているのかなとも思ってみたりする。

狭い個室に座り本を読む。

こういう時というのは悩ましい。面白い所まで読むと続きが読みたくて仕方がない。しかし、ずっとトイレに籠って読める訳では決してない。まず腰が持たない。時間もない。『観光客の哲学』が面白くてトイレから出られない。困ったものである。尻がカピカピになってしまう…と安易に下ネタに走った文章というのは全く以て面白くない。

さて、今日も1日頑張ろうか。

よしなに。



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