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雑感記録(185)

【ゆるゆる読書感想文2】


早速、第2回目。華々しい第1回はこちら。古井由吉の『杳子』について。

さて、ほんでもって今日書きたいのは、久生十蘭の『昆虫図』について。たまたま、今日『エイリアン』シリーズを見出してて、何か見始めてからどことなく『昆虫図』感があるのよ。それがどういう感じか説明が実は未だにつかなくて、まあどんなもんかなと思って書いてみることにした。これまた、ゆるゆる書くので細かいことはご愛敬ってことで!許して!

Kindkeで読めるって!良かったね!ちなむと、青空文庫でも読めるから。ま、読めればどっちでもいいのか?よく分かんないけど。僕は紙で読んだよってことだけ書いとくわ。新潮社から出てる週刊新潮の臨時刊の『この一冊でわかる 昭和文学』ってやつね。写真貼っておく。これがね、また良いんですよ。坂口安吾の『私は海をだきしめていたい』読めるからね。最高。

ほんで毎度のこと、久生十蘭って何者?って話になる訳だけれども、実際あんまり詳しいこと知らないの。正直ね、『昆虫図』以外あんまり面白く感じられなくて読んでないのよ。岩波文庫で『久生十蘭短編集』なるものが出てて、それを買って読んだんだけど…どうもピンと来ない。「うぉぉぉ、面白い!」ともならなくて「ふーん」で終わっちゃったのね。そんな僕が久生十蘭の何を書くのって話なんだよ。

まあ、でも一応知らない人の為に簡単に。雑に。簡潔に。久生十蘭は小説家でもあり、確かね脚本とかも書いてた気がするんだよね。間違えてたらごめん。それで、『新青年』っていう雑誌だったと思うんだけど、パリから帰ってきて連載かなんか始めるのね。それで人気が出た感じの人なんだ。そこがまあ、本格的な小説家人生の始まりになるわけ。

それで色々と小説を書いていくんだけど、多分これは古本屋に行くとよく分かると思うんだけど、小栗虫太郎とか夢野久作と同じコーナーにいつもいるのね。ここからも分かるように(って分かる人どれぐらいいる?)、所謂今のジャンル分けで言うところの「幻想文学」に当たるんだよね。確かに読んでるとどことなく不思議な世界観っていうのは分かるし、初めて久生十蘭読んだ時、「え、これ夢野久作のパクリ?」って思うぐらいには似てたから同じ部類で語られるのは分かるんだよな…。

ただ、僕が思うのは、ぶっちゃけ夢野久作よりもメタ感が無さすぎるというか、夢野久作の方が面白く読めるんだよな。最後まで。そうそう、「持続力のない夢野久作」が久生十蘭かな。僕の第一印象はね。ま、でも、個人的にはあながち間違って無いようなきがするような…しないような…。こればかりは個人的なこともあるからね!ゆるゆるだもん。気になったら読んでくりょうし。


それで、さっそく『昆虫図』について書いてくぞ!

『昆虫図』はね、1939年に『ユーモアクラブ』っていう雑誌に発表されたのよ。ほんでこの『ユーモアクラブ』っていう雑誌なんだけれども、この頃って雑誌が力を持っていた時代なんよね。例えば『オール讀物』とかね、それこそ『文藝春秋』とか『キング』…とかはもうちょっと前かな?でも、それ程雑誌が幅を利かせてた時代なわけ。

加えて言うと、この頃は「大衆小説」って言われるものが凄く流行っていたのね。それこそ直木賞があったりする訳でしょう、既にこの頃には。直木三十五は…もうこの頃死んでるのかな。1939年頃には確か。でも、吉川英治とかそういった人たちが「大衆小説」(まあ、この頃は時代小説というか伝記小説が「大衆小説」みたいな感もあったが…)を担ってたわけ。だから、ある種『昆虫図』もそんな中で生まれた小説であるってことさね。

所謂、「純文学」…って言葉が僕は本当に嫌いなんだけど、仕方ない。ここでは区別するために便宜上使うしかないんだけど、そんな雰囲気があるのね。つまりは、「純文学風大衆小説」みたいな。いやまあ、そもそも小説を「純文学」だの「大衆小説」だのって区別する方が実際は馬鹿らしくて、そもそも言葉で書かれてることは同じなんだから、同じ小説っちゃ小説と言うジャンルなんだけれどもね。でも、やっぱりね、そこまでの深みは無いわけ。この『昆虫図』にしても。

実際ね内容も正直、大したこと無いっちゃ無い。今の僕等からすると「ああ、何かコナンにありそう」とか考えちゃう訳よ。でもね、何て言うのかな。やっぱり言葉だけで書かれているからより奇怪さが増すっていうのかな?なんかね気持ち悪い。逆を返せばね、言葉だけでその奇怪さを表現できるのって凄いな!って個人的に思ったのさね。

しかもだよ、これ多分だけど、飾ろうと思ったら滅茶苦茶に文体を飾ることだって出来たはずなんだよ。だけれどもそれをしないで、ストレートに伝えて来る文体に僕は感動した。(というよりも、いつもやけに装飾された文章を読んでいたから新鮮だっただけなのかもしれないけど…)


 十日ほどののち、いつものようにブラリとやって行くと、団六は畳のうえにひっくりかえって、しきりに手で顔をあおぐような真似をしている。青木が入って来たのを見ると、
「てへ、こりゃ、どうです。どだいひどい蠅で、仕事もなにも出来やしねえ。人間も、馬のように尻尾があると助かるがな」
といって、妙なふうに尻を振って見せた。
 なるほど、ひどい蠅だ。
 壁の上にも硝子天井にも、小指の頭ほどもある大きな銀蠅がベタいちめんにはりついていて、なにか物音がするたびに、ワーンとすさまじい翅音をたてて飛び立つのだった。どこからこんなに蠅が来たのだろう。季節は、もう十一月だしすぐ地続きの青木のアトリエには、蠅などは一匹もいなかった。

久生十蘭『昆虫図』
編集兼発行者 坂本忠雄
『新潮二月臨時増刊 この一冊でわかる昭和の文学』
(新潮社 1989年2月)P.78

見て、これ!何の引っ掛かりもなく読めちゃうこの流暢な文章。無駄が一切ないよね。僕は個人的にね、ここがいいなと思ったんですよ。何ですか、この味気のない文章は!でも、何か良いんだよな…。伝えたいことを端的に伝える感じとでも言えばいいのかな?言葉を味わうという意味ではクソほどに詰まらないけど、分かりやすさで言えばもうぶっちぎりよ。

僕ね、思わず笑っちゃったもん。「なるほど、ひどい蠅だ」って。それだけで普通済ますかね?例えばだよ、僕の家の天井にこういう状況が仮にあったとしてさ、それを友人が見に来るとするじゃん。「なるほど、ひどい蠅だ」ってなる?多分だけど「うわ!きもちわる!」ってのが最初に抱く感情じゃないのかね。冷静に「なるほど、ひどい蠅だ」って思えるそれは正しく小説の人物と言うか、大衆小説的な表現と言うか…。リアルさゼロだよね。

しかもさ、それに続いて「どこからこんなに蠅が来たのだろう」ってなれるところが切替早くて凄い。何なの、青木。超人?何と言うか、『昆虫図』の団六ってやつは当然の如くやべえ奴だが、主人公である青木もマジでやべえ奴なんだよな。全員が全員頭がイッちゃってる感が堪らなく面白い。フィクションもフィクション。

その後に、青木の奥さんって人が出て来るんだけど、その人の取った行動もやばいのね。団六の家にめっちゃ虫がいる、お前も見に来いよ!って青木が誘うのね。その後に、ま、正常な反応するのよね。「気もちっわる!」っていう反応するのよ。あ、奥さんは真面なんだなって思ってたらこれよ。

 「嫌だ。あんな大きな蛾って見たことがない…脂ぎって、ドキドキしていた」
 と、気味悪そうに眉をひそめた。その夜半、身近になにか人の気配がするので、ハッとして顔をあげて見ると、女が、大きな眼をして青木の枕元に坐っていた。
「…あたしの郷里では、人が死ぬとお洗骨ということをするン。あッさりと埋めといて、早く骨になるのを待つの。……埋めるとすぐ銀蠅が来て、それから蝶や蛾が来て、それが行ってしまうとこんどは甲虫がやってくるン」

久生十蘭『昆虫図』
編集兼発行者 坂本忠雄
『新潮二月臨時増刊 この一冊でわかる昭和の文学』
(新潮社 1989年2月)P.79

待て待て待て。何で寝てる時にそれを言うの!?怖いじゃん!奥さんも頭がイかれてやがる。わざわざさ、寝てる主人の枕元に坐って言う訳じゃん。青木寝てるんだよ。これがもしさ、青木が起きなかったら何、ずっと座ってた、もしかして!?怖すぎ…。物語の筋も少しホラーだけど、出てくる人みんな悉く頭イかれてるんだよね。もうね、そこが面白すぎて面白すぎて…。

ほんでもってさ、最終的にどうなるかっていうところもまた頭イかれてるんだわ。これも面白いから引用しちゃう。てか、引用だけで話の筋というか結末までわかっちゃうっていうところも浅いよね、何か。笑える。

  五日ほどののち、団六のところで将棋をさしながら、青木が、フト畳の上を見ると、乾酪(チーズ)の中でみかけるあの小さな虫が、花粉でもこぼしたように、そこらいちめんウジョウジョと這い廻っていた。
 いま二人が坐っている真下あたりの縁の下で、何かの死体蛋白が乾酪(チーズ)のように醗酵しかけていることを、はっきりと、覚った。

久生十蘭『昆虫図』
編集兼発行者 坂本忠雄
『新潮二月臨時増刊 この一冊でわかる昭和の文学』
(新潮社 1989年2月)P.78

いや、いや、いや。待て、待て、待て…。ウジョウジョ虫が居るところで冷静に将棋を指してるお前ら何なの…。青木!覚るな!通報しろ!もう徹頭徹尾、みんな頭おかしい…。虫がウジョウジョいたら嫌だろ!もうこの『昆虫図』の世界観というのは最初からぶっ飛んでいて面白い。しかも、装飾がない分に余計にその頭狂っている様子がダイレクトに伝わるので作品としては面白いのである。僕はこのイかれた小説が好きなのはここにある。


でね、ちょっと真面目な話をしようか。

まず以て、描写の問題。これは小説家なら誰しもがぶち当たる問題であるはずだ。如何にも説明的な文章が続いて読み易い。描写の問題点については、それこそ昨日の『【ゆるゆる読書感想文】』の古井由吉のところでも触れたが、所謂、人物像の崩壊がある。つまり、細密描写をしてしまうと人物像が崩壊して結局どんな人物であるかとか、情景そのものが言葉によって解体されてしまう。

ところが、これともう1つ考えなければならないのは、所謂「叙述の時間」という話である。これはリカルドゥあるいは日本で言えば斎藤緑雨なんかがそれについて言及しているから、それを読んでもらえばいいとして。それに僕の過去の記録でもわりと高頻度で触れているから細かいことは説明しない。要するにこれは読者論でもある訳だ。読んでいる時間と物語の持つ固有の時間の話である。

もし細かい話が知りたければ、リカルドゥの『言葉と小説』の中に収録されている「叙述の時間と虚構の時間」をぜひ参照されたい。つまりは、描写が細かければ細かい程、叙述の時間、読む側の時間は長くなる。しかし、虚構の中の時間ではその描写の時間はものの数秒でしかなかったりする。その描写に費やされる時間と虚構との時間のつり合いがおかしい、齟齬が生じるということである。

それで、久生十蘭の『昆虫図』の読み易さの1つとして挙げられるのは、描写が悉くないということにある。詰まるところ、説明的な文章の羅列であるからである。団六がなにしてる、青木がなにしてる、青木はこう感じた…。と言うようにただ状況をそのまま述べているに過ぎない。そしてさらにもう1つ、これは先のリカルドゥと重なる点であるが、物語速度が速い。これは先の引用を見てもらうと一目瞭然である。

文頭に「十日ほどののち」「五日ほどののち」というように書かれている。つまり、僕等がそこに辿り着くのは物の数分であるにも関わらず、物語つまりは虚構の時間は速度を速めている。全体で読むのに数分しか掛からない小説なのに、小説内では1ヶ月ぐらいの時間が経過している。これも読み易さの1つである。それはスピード感の問題である。

物語のスピード感が早いと僕ら自身もサクサク読める。それに描写が無い分、僕等が突っかかることはあり得ない。これがこの『昆虫図』のある魅力であり、そしてそれは同時に「小説の特権を捨てた小説」なのである。詰まるところ、これが僕の想定している「大衆小説」というものである。

この「小説の特権」というのが僕は描写だと想定しているということでもある。描写というのはある種、小説のみが使える業である。先のリカルドゥの話ではないが、現実の我々の時間と虚構の時間ではまず以て同じ速度で読むことは不可能である。書くということは同時に進むことでもある。用紙に書くという意味でも物理的に時間は過ぎる訳だし、虚構の時間も同時に進む。

しかしだ、僕等の現実の時間は留まるということは決してない。常に先へ先へと進んで行く。戻ることは出来ない。だけれども、小説の中であれば「回想」という手法を取ることで時間を巻き戻すことは可能だし、先程の描写で時間をそこに留めることが出来る。現実世界ではものの数秒の出来事を虚構の世界では何分と、時を幾ばくか止めることが可能である。

僕等は時間というものに抗えない。どうしても先に進まなければならない。タイムマシンがあっても、過去に行くことは不可能らしい。行けるのは先の未来だけなのである。だけれども小説はその虚構の中で横断的な時間の行き来が可能だし、本そのもの、小説そのもの時間を超える。現に「古典」と呼ばれているものはそうではないだろうか。

詰まるところ、僕は小説を「時間に対する人間の一種の抵抗」だと思っている。だからこそ、描写というものが担う部分は大きい。それに柄谷行人の『日本近代文学の起源』ではないが、内面の発見とあったように、言葉によって初めて内面が形成されるのであり、描写によって小説は成立しうるのではないかと考えている。描写を捨てた小説家は同時に言葉について考えることを放棄した人間でもあると僕は思っている。だから俗に言う「大衆小説」は嫌いなのだ。

久生十蘭の『昆虫図』に於いても描写が一切ない。しかし、面白く読めてしまうのはその話の筋がトリッキーなだけの話であって、それが言葉の作用でとかではない。だから出てくる人物は皆頭がおかしい。そうしなければ小説そのものが成立しないからだ。以前の記録、古井由吉の『杳子』について、あれは描写がややこしいからこそ杳子のおかしさというか、幻想性を生み出している。要するに杳子は言葉の力によって成立している。しかし、『昆虫図』の団六や青木はその人物性、そして物語の内容そのものに依拠しなければ幻想性を生み出せないのである。


『昆虫図』は確かに面白いんだけどな…。何て言うの、息抜きで読む分には面白いけどさ、本気で読むのとは何か違うんだよね。というかね、ここまで書いといて元も子もないこと言っちゃうけど、ぶっちゃけ久生十蘭読むなら夢野久作を読むわ。

以上、本日の『【ゆるゆる読書感想文2】』でした。

よしなに。



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